道の駅「ガリレア亀岡」に行ったら、毛利攻めやめて信長討った気持ちがわかった(トイレ✖️仮眠△休憩△景観✖️食事△設備△立地◎) 

明智光秀は天正5 年(1577)頃、織田信長に命じられた丹波攻略の拠点とするため、保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に丹波亀山城を築城し、近隣の村から人を呼び寄せて城下町を形成しました。天正8 年(1580)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2 年後に「本能寺の変」で信長を討っています。

光秀に討たれた織田信長の勢力は、すでに現在の関東・北陸・・四国の各地方に及び、中国の強敵・毛利羽柴秀吉(後の豊臣)に攻めさせていました。光秀は近畿の政務を担当していましたので、指揮下の軍勢も近畿各地に駐留していました。備中国(現、岡山県西部)で毛利と対峙する秀吉から秀吉から救援を請われた際に光秀が出陣したのはそのためです。

光秀は、「秀吉の要請に応えて備中国の毛利勢を攻める」と称して出陣しますが、途中「敵は本能寺にあり」と号令し、進路を変えて京都本能寺に宿泊中の織田信長を襲ったのでした。以来、この号令は「敵本主義」と同義となり、表面にかかげた目的(毛利討伐)とは別のところに本当の目的(信長打倒)があることを意味するようになりました。

光秀の亀山城があるのは道の駅「ガレリア亀岡」と同じ亀岡、京都市の西と隣接しています。ここから、兵庫県を越えて秀吉を助けに岡山、広島へと行けと言われても、秀吉は狡猾で嫌いだしライバルだし、そんな奴を助けたところでその先どうなるかはわからんしどうにも気が進まないわけで。そりゃあ、すぐ近くにいて理不尽な命令ばかりしている鬱陶しい信長を討った方が、「楽」しようと思えばそれが圧倒的に楽でした。

「ときは今 あめが下しる 五月哉」

本能寺の変の6日前、天正10年(1582年)5月27日、光秀は愛宕神社で連歌会(愛宕百韻)を催した。

愛宕神社のある愛宕山は、光秀の亀山城からはおよそ10km京都寄りの、山城と丹波の国境、現在の京都市右京区にある。光秀はここで「ときは今 あめが下しる 五月哉」と詠んでいる。また、クーデターの成否、その後の天下布武を占うためか、籤を3回引いた(引き直した)と伝えられている。ということは、1回目と2回目は吉兆ではなかったということだろう。いずれにしても、この時には、毛利と戦う秀吉を援護に行くつもりは毛利、もとい毛頭なかったのだ。

6月1日夜、丹波亀山城を出発した軍勢は、方向を備中とは逆の京都に向け、老ノ坂から沓掛を通過し、桂川を渡る。

実は光秀は出陣前に兵を3つに分けて京都に進んでおり、そのひとつは「明智越え」をして京都市中に向かっている。

61_神明峠・尾根道

亀山城と水尾の里を経て愛宕山愛宕神社を結ぶ道は現在では「明智越え」と称されているが、これはとりも直さず愛宕山を越えて京都市内に入る道である。大軍に見せたくなかったのか、当時の道が細くて隊列があまりに長くなりすぎるからか、それとも最後に自分で「愛宕神社」にもう一度願をかけたのか、それはわからない。

3つに分かれて進んだ軍勢は、翌2日早朝には、信長の宿所の本能寺と嫡子・信忠の二条新御所をとり囲み、そして、討った。

秀吉の「大返し」

信長の死を知った秀吉を、腹心の黒田官兵衛は「明智光秀を討伐すれば天下を取れる」と言って鼓舞。ただ、そのためには、信長の家臣である柴田勝家、同盟者の徳川家康よりも先に仇を討つ必要があった。そこで秀吉は、信長が落命したことを毛利に知られると戦況が悪くなるため、徹底的にこれを隠匿。毛利方との早期講和を図る。

まず6月4日に毛利方に「3ヵ国の譲渡と宗治の自刃」を提示。秀吉の兵糧攻めで備中高松城は兵糧が底を突き、落城寸前だったため、毛利側はこの条件を受け入れて和睦が成立。夕方には宗治が自刃し、毛利軍は撤退を始めた。そして6日、毛利軍の撤退を確認した秀吉は、備中高松城から山崎まで約200kmの道のりをたった10日で「大返し」したのだ。

日付移動地域移動距離
6月6日備中高松城から沼城約22km
6月7日沼城から姫路城約70km
6月8日姫路城にて休憩
6月9日姫路城から明石約35km
6月10日明石から兵庫約18km
6月11日兵庫から尼崎約26km
6月12日尼崎から富田約23km
6月13日富田から山崎約6km

特に備中高松城から姫路城までの約92kmを、2万の軍勢を率いてわずか2日で走り抜けたが、これは毛利軍の追撃を避けるため、秀吉が誰よりも先に明智光秀を討つため、そして秀吉が京に攻め入ってくる明智光秀の予想時期を欺くためだった。

その後は同盟者を募りながら明智光秀の様子を探りながら慎重に行軍。秀吉が尼崎を目指していた10日、秀吉の進軍を知った明智光秀は、秀吉の進軍が予想を超えて早かったため、淀城と勝竜城の修築に慌てて着手。男山に布陣していた兵を撤収したが、十分な準備を整えられないまま決戦に臨むこととなった。

山崎の戦い

6月13日、秀吉軍は山崎の地に到着した。兵の数はおよそ4万。それに対する明智光秀軍は約1万6,000人で対陣した。

天王山の展望台には案内図が設置されていて、眼下の明智軍と秀吉軍の布陣の図が書いてある。図によれば、明智軍は円明寺川の山側に布陣。秀吉軍は先陣が円明寺川、後方は天王山と淀川に挟まれた大山崎で縦長になって布陣している。どうやら明智光秀の戦略は、山崎の地が天王山と沼地が隣接する淀川に挟まれた幅の狭い地形のため、縦長になって進軍してくる秀吉軍を迎え撃とうとしたらしく、斎藤利三と阿閉貞征(貞秀)、河内衆を前面に配置している。

対する秀吉軍は、川側に池田恒興、池田元助、加藤光泰。中央に高山右近、中川清秀、堀秀政。山側に羽柴秀長と黒田孝高(黒田官兵衛)。布陣を3つに分けていた。

6月13日午後4時、動いたのは明智光秀軍だった。秀吉軍の中川清秀が高山右近の横に陣を構えようとしたところに襲いかかる。次いで高山右近にも攻撃を開始した。戦いが始まって1時間ほど一進一退の攻防となるが、川側に布陣していた秀吉軍の池田恒興、池田元助、加藤光泰が密かに淀川を北上して円明寺川を渡り、明智光秀軍本隊の側面を突いた。これにより苦戦していた秀吉軍の中川清秀、高山右近らも一気に押し返し、動揺した明智光秀軍は総崩れとなって敗走。約3時間の戦いは終わった。

勝竜寺城に退却する明智光秀を手助けするため、伊勢、松田ら光秀の側近たちは討ち死に。光秀軍の死傷者は万を超えた。光秀が逃げ込んだ勝竜寺城は平城で、光秀はここでは秀吉軍の追撃を防御できないと判断。密かに脱出して居城の坂本城を目指すことにした。しかし、その途中の小栗栖の藪で、光秀は土民の落ち武者狩りに遭って落命。こうして、明智光秀の天下はわずか12日間で終わった。

亀山城のその後

信長の仇をとった秀吉は、明智光秀の後詰めである明智秀満の軍や息子の明智光慶を自刃させ、京に入って近江を平定。清洲会議において、信長の後継者としての地位を固める。

秀吉に没収された光秀の亀山城はその後、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、慶長15 年(1610)岡部長盛の代に天下普請により近世城郭としての亀山城が完成する。この築城にあたっては城づくりの名手・藤堂高虎が縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営された。現存する下の古写真(美田村顕教撮影)は、明治初期に撮影されたものである。

亀山城址は、現在は宗教団体(大本教)の敷地になっている。 京都の西方、亀岡市内亀岡駅に向かう堀端の一角が公園になっており、そこには明智光秀の銅像が立っている。 

なお、この記事内に「亀山」と「亀岡」が出てきたが、二つの地名が指す場所は同じである。伊勢の亀山と紛らわしいので、明治になってからこの土地の地名は亀岡と改められ、城の名前も亀岡城とされたのだ。1868年(慶応4年)の戊辰戦争で伊勢亀山藩は新政府側につき、丹波亀山藩は幕府側についたため、敗れた丹波のほうが改名させられた、その結果である。

道の駅「ガリレアかめおか」

道の駅「ガレリアかめおか」は、光秀の亀山城と同じ「亀岡市内」の中心部にある。亀岡市は京都市西区と隣接していて、ここは京都市街地にもっとも近い道の駅である。

ということで、私は明智光秀が信長を3手に分かれて討ちに行った、それらの道のりの、起点だけはすべてここであり、ここからそれぞれの道を辿るために利用させていただいた。

京都縦貫自動車道の亀岡ICを降りてしばらくすると、ガラス張りの大きな建物が目に入ってくる。それが、道の駅『ガレリアかめおか』だ。

光秀の本拠地だったのに、近代的というか、ガラス張りのけったいな建物にしちゃって、センスないなあというのが正直なところ。

駐車場は、大きな(横に広い)建物の前にあるが、けっこう混雑している。

駐車場全体としては400台以上と、十分なキャパがあるのだが、平面駐車場の一部と地下駐車場が、22:00~9:00まで閉鎖される。急速充電器は地下駐車場にあり、9:00~21:00まで利用可能だ。

ということで、夜間駐車が可能な台数は、普通車58台と大型トラック・バス5台分とかなり限られる。


まあ正直、施設側としてはあまり「車中泊」を歓迎していない雰囲気は出ている。それでも、前を走る国道9号線は、京都市と兵庫県北部を結ぶ幹線道路。大型トラックは毎夜確実に停まってドライバーは車中泊しておられるので、空いていさえすれば、寂しくないし、車中泊もできなくはない。ただ、その場合も、マナーを守って利用させていただきたい。

というのも、トイレはかなり汚い。これは清掃の人の責任ではない。どの便器も、小便があたりに飛び散っているから。

休憩スペースとしては、非常に長い建物の前に、歩くスペースがあり、それに沿ってベンチが並べられている。

以前は施設の西端のエイジレスセンターの中に銭湯があったが、現在は閉鎖されている。
道の駅「ガレリアかめおか」は「生涯学習施設」を併設している、というより、ここは図書館を含めて「生涯学習施設」施設であって、そこに道の駅が併設されていると考えた方が良さそうだ。

コンベンションホールや研修室、工作室や創作室、陶芸室など、まさに市民が利用するための施設が大半だからだ。

物産市場には、亀岡の名産品がズラリと並んでいる。

亀岡の物産というと、たとえば、亀岡牛や黒豆、丹波栗などがある。

ガレリア朝市では、毎日入荷する地産の農産物を購入することができる。

空いているところに、どんどん新しい野菜などが運び込まれてくる。