
米子城は、戦国時代末期の天正19年(1591)頃、毛利一族の吉川広家が築城を開始するも、慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後、広家は国替えを命じられ岩国へ。逆に関ヶ原の戦いで軍功が認められた駿河の国の中村一忠がこの地・米子を治める伯耆国18万石の領主に選ばれて赴任。城慶長7年(1602)、湊山の山頂に五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)を持ち「山陰随一の名城」と称された壮麗な米子城を完成させました。
ところがその一忠は、慶長8年(1603)11月、老臣・横田村詮を手打ちにしたことからその遺臣たちの結束した抗戦にあい、なんとか鎮圧したものの、失策を責められて消沈。慶長14年(1609)5月11日、なんと20歳の若さで没したのでした。一忠には跡継ぎがいなかったため、中村家は無嗣断絶。加藤貞泰、池田由之と城主は交代。寛永9年(1632)からは鳥取藩主席家老の荒尾成利が米子城預かりとなって、以後十一代にわたって荒尾氏が管理しました。
こうして江戸時代を通じて山陰随一の名城の姿は残りましたが、明治3年(1872)に、米子城が位置する山が有力な士族らに無償で払い下げられ、無償で得たものを何が有力だか馬鹿者揃いの輩は米子城を取り壊してしまいます。そして取り壊された米子城の木材は古物商・山本新助に当時の30円で売り、風呂の薪として売り捌かれたのです。大馬鹿者の土着士族どもが引導を渡した名城のあまりの最期に、驚きとやり場のない怒りを禁じ得ません。
国の宝で私腹を肥やした奴らが許せないでいた
本来ならば中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸があり、北の内膳丸、東の飯山を出丸として配し、山麓の二の丸には城主の館、その下の三の丸には城主関連の館や作事場、米蔵、馬小屋なども残り、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲んで、中海側の深浦には水軍用の御船手郭も、内堀と外堀の間には侍屋敷も並んでいたのだ。
それらを山と一緒にタダでもらっておいて、上物を壊して売り飛ばし、残った土地でおそらく今まで大儲けしてきた奴ら。当時米子城と山を明治政府から譲り受け、プライスレスなこの国の資産で私腹を肥やしてきたこの地の士族とその子孫を私は許し難く、大嫌いになったまま、私はこの地から足を遠ざけていた。
死ぬまで許さないで、この国有数の絶景を見ずに死んでいいのか
しかし、2022年元日に放送されたNHK「日本最強の城スペシャル第10弾 ~一度は行きたい絶景の城」を私は見てしまった。米子城からの絶景の数々、とりわけ2月20日頃と10月22日頃の気象条件のいいときにしか見られない、後光が差した大山から一直線に届く陽光に包まれる米子城跡は、筆舌に尽くしがたい美しさと神々しさ。大山の山頂部から日が昇る「ダイヤモンド大山」の絶景に私は涙した。

いかに現在の米子城跡が、かつての石垣をとどめるだけとはいえ、それはあまりに見事な最高の石垣。


湊山公園より続く山道を経て石段を上り、標高90メートルの山頂にたどり着くとそこは、さえぎるものが何もない360度の絶景なのだ。

まず北を見渡せば、米子の市街地がひと目で見渡すことができる。

遠くには雄大な日本海の水平線が広がる。夜景も、とんでもなく美しい。

西を向けば真っ青な中海だ。その昔、中海は夕日の美しさから錦海と呼ばれていて4月中旬から8月下旬まで米子城跡から中海越しに、島根半島に沈む素晴らしい夕日を観ることができる。とりわけ5月初旬から下旬にかけてと、7月下旬~8月上旬のは八尋鼻と萱島の間に夕日が落ちるので、天気の良い日には中海に架かる一直線の綺麗な太陽の道(オレンジロード)を観ることができる。


そして東を向けば、私が涙したダイヤモンド大山。それ以外の日も、いつも遙か遠く優美な稜線を描き出す名峰大山の姿がある。空気が澄んだ晴れの日には、日本海の向こうに隠岐島の姿だって望めるのだ。
築城432年にして、私は愚か者たちを許すことにした
時は流れ、城山のふもとに広がる湊山公園は、市民に愛され続けている景勝スポットとなった。桜の開花時期に城跡の頂より見下ろす桜は、中海、大山とのコントラストでより一層艶やかだ。

また、国道9号線沿いにある道の駅あらエッサも、この地をなんとか盛り上げようと必死である。
「アラエッサッサー」は、大正から昭和にかけて一世を風靡した、ご存じ「安木節」の合いの手だ。大正期に広く歌われるようになり、芸妓がざるを持って踊ったり、男がびくを腰につけ、どじょうすくいをしたりする振付がつけられる。安来節のどじょうすくいは、頬かむりをして赤襷をかけ裾をからげ手にざるなどを持って踊るなどユーモラスで軽快な踊りだ。
どじょうすくいの始まりは、安来の若者たちがどじょうを小川から捕ってきた後に開いた酒宴にある。どじょうを肴に酒を呑み、酔いが回ると、どじょうを掬う時の動きを面白おかしく踊り、その場を盛り上げて楽しんだ。
そんな昔の若者の営みにも敬意を表して、もう、米子城を壊した愚か者のことは忘れようと。築城から432年を経て、私は愚か者たちを許すことにした。そう決めた途端、行ってみたくて仕方がなかったのに長年我慢していた米子城跡、そして、道の駅「あらエッサ」へと車を走らせたのだった。
道の駅「あらエッサ」にいいね、そして米子のラーメン最高!

道の駅「あらエッサ」の古民家レストラン「中海の郷」では、そんな安来名物どじょうの柳川鍋など、地元の旬の食材を使ったお料理が楽しめる。道の駅「あらエッサ」のトイレと駐車場、そして情報コーナーも24時間オープンだ。


駐車場は、施設前に広々としたスペースが確保されている。




トイレは完璧。





休憩スペースも変化に富んでいる。






農産物等直売所「なかうみ菜彩館」には、鮮度抜群の農産物や切り花、お土産を取り揃えられていた。



海産物等販売所「やすぎ魚々市」では、島根半島沖から直送の鮮魚や干物、加工品を販売している。また、フードブース「駅中屋台」の、地元牛乳で作ったソフトクリームは、あらエッサの人気商品だ。


このあたりのラーメンは、私のストライクゾーンど真ん中。

ニンニクと玉ねぎのトッピングが無料で無制限。最高すぎる。
