近江聖人「中江藤樹」にあやかりたいと、「アドベリー」実る道の駅「藤樹の里あどがわ」へ(トイレ◎仮眠△休憩○景観△食事○設備◎立地○)

「私たち人間は、誰もが「愛敬」の心を持って生まれてきます。そのことを忘れず、常に意識して言動に現れるようにしていると、人は人らしく生きられる。そう思いませんか?」
「私利私欲や個々のこだわりがあるのも人間です。だからこそ、謙虚に。和やかな顔で、思いやりのある言葉で、やさしく相手を見て、相手の気持ちに耳を傾け、そして思いやることを意識し、誠意をもって人と接することが大切です。そう思いませんか?」

そう問われますと、いちいちごもっともですね。私みたいな者でも「コーチング」なんてコミュニケーションの方法をいい歳になってから説教されたものですが、まあ、そのコーチングたらちゅうのと根本的な姿勢は同じでございますよね、と素直に答えを返します。

陽明学というと、何やら難しい学問みたいで構えてしまいますが、実は誰でも答えられるように上の2つの「問い」にして、人の生き方を人々に問い続けたのが、のちに近江聖人と呼ばれることになる中江藤樹。私はそう理解しています。

安曇川は中江藤樹の生まれ故郷。その後、米子、愛媛へ

中江藤樹は、江戸時代初期の儒学者で、わが国における陽明学の開祖である。

藤樹は、1608年、藤樹書院(滋賀県高島市安曇川町上小川)の敷地で中江家の長男として生まれた。9歳の時に米子藩士の祖父の養子になって米子(鳥取県)へ、10歳のとき藩主の国替えにともない、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住む。

祖父の死去により15歳で元服して100石取りの武士となり、17歳にして独学で『四書大全』を読み、朱子学に傾倒した。27歳のとき、母の看病と自身の健康を理由に大洲藩士の辞職を佃家老に願いでるが、ついに許可を待たずに脱藩して、浪人の身でふるさとの小川村へ帰った。

安曇川に戻り、学び続けた41年の短い生涯を終えるまで

浪人となった藤樹は、居宅を私塾として開き、32歳のときには学舎(現在の書院建物の北側)を建て、門人たちの学び場とし、心得を「藤樹規」として掲げた。藤樹とは号でなく、屋敷に生えていたフジの老樹から、門人たちが《藤樹先生》と呼んだ尊称に由来する。

藤樹書院の祭壇中央に祀られている藤樹の神主〔仏教でいう位牌にあたる〕の陥中に、小さな文字で「与右衞門公、姓中江、諱原、字惟命(これなが)、大宗神主」と墨書されている。つまり「中江与右衞門惟命」が、藤樹の元服以後における武士としての正式な名前であった。

その後、41歳で亡くなるまで14年間にわたり大洲からやってきた藩士や近郷の人々に《孔孟の学》や《陰隲》を教導するが、この間、33歳のときに『王龍渓語録』を、37歳のときには『王陽明全書』を入手するや熟読玩味して、おおいに触発感得を受ける。それまでの学問上の疑念が解け、格法主義的な生活の非なることを知り、しだいに王陽明の「致良知説」へと信奉していった。「致良知説」と言うと難しくなるが、要するに冒頭で触れたような生き方の姿勢のことである。

しっかり知りたい場合は藤樹の著書を。『翁問答』『鑑草』『孝経啓蒙』『論語郷党啓蒙翼伝』『論語解』『大学考』『大学解』『大学蒙註』『中庸解』などがあり、『藤樹先生全集』全5冊(岩波書店版、昭和15年)に収められている。

藤樹は30歳で久子と結婚し2人の息子をもうけたが、39歳の時に妻が亡くなり、後妻との間に息子(のちの中江常省)が生まれたが、持病の喘息のため41歳の若さで亡くなっている。

受け継いだものたちによって輝きを増す藤樹の人生

藤樹の門下には、大洲の中川貞良、謙叔の兄弟、熊沢蕃山とその実弟の泉仲愛などがいた。また、藤樹は魯鈍の門人であった大野了佐に対しては、大部の『捷径医筌』を著わし、それをテキストにして熱心に医学を教え、立派な医者に育てあげている。

藤樹没後においては、熊沢蕃山の見事な事績が藤樹の名声を一段と高めたわけだが、弟の泉仲愛もまた、藤樹の代表的門人として光を放った。浪人生活を送っていた泉仲愛は、中川謙叔らとともに、藤樹のもとで《良知心学》の研鑽を深めていくが、藤樹が没して二年後の慶安三年の春、兄・蕃山の推挙によって備前岡山藩の武士として召し抱えられ、8年におよんだ困窮の牢人生活から脱した。

仲愛はその後、近習・足軽頭・学校奉行などの役職を歴任。そして80歳で亡くなる二年前まで、およそ30数年にわたって、岡山藩の教育行政の最高責任者にあたる「学校奉行」という重職にあった。《藤樹学》が岡山の地におよんだのは、蕃山の功績に加えて、実務派・仲愛の事跡も看過できない。名君池田光政が死の床にあるとき、仲愛は末座につらなって遺言も聞かれたということからも、岡山藩内における重要な立場にあったことがうかがえる。

藤樹書院と良知館

中江藤樹が門弟や村の人達と勉学に励んだ最後の教室は、茅葺き入母屋造りの書院で、慶安元年に彼がこの世を去る少し前に完成した。その後、明治15年に再建され、大正11年には国の史跡に指定されている。内部には藤樹直筆の「致良知」の書を始め、遺品・遺物が数多く展示されている。

国の史跡「藤樹書院跡」へ訪れた方の案内所兼休憩所として平成15年度に整備された。休憩所・トイレ・駐車場(5台)・管理室からなる施設で、地元のガイドが中江藤樹の教えをわかりやすく解説してくれる。

道の駅「藤樹の里あどがわ」

福井県大津市から、福井県敦賀市まで。高規格道路の琵琶湖西縦貫道、国道161号線バイパスが走っている。 道の駅「藤樹の里あどがわ」は、その琵琶湖西縦貫道のほぼ中間点の藤樹ランプ(仮称だそうだが)近くにある。

道の駅がある滋賀県西部の旧安曇川町(現高島市安曇川町)は、町全体の約7割を田畑が占めるが、道の駅周辺は住宅が立ち並んでいる。 このため、農作物販売や総菜類の品揃えを充実させるなどで近隣住民の利用促進に力を入れている道の駅だ。

また、駅名の中に「藤樹の里」とあるように、藤樹書院跡など中江藤樹に関連した施設最寄りの道の駅である。

駐車場は非常に広いが、来客数も多いので、施設に近いところへの駐車は難しい。

施設から離れても、駐車できる場所はあるので、停められないと言う心配はないと思う。

トイレは、広さ、清潔さともに文句なし。

休憩環境としては、雨よけ日よけをしつつ屋外で休めるスペースはとても広い。

情報館に、これだけ人がいる道の駅は珍しい(笑)

「アドベリー」をぜひ

道の駅の施設としては、農作物直売所を兼ねた物産館、レストラン、フードコート、そしてコンビニもある。

各々の施設は一般的な道の駅と比較してかなり大きい。

その、大きな物産館だが、販売されている商品の種類は目測で2000種類以上あるだろうか。

中でも旧安曇川町の特産品「アドベリー」を使った商品が数多く並んでいる。 はて、アドベリーとはあまり聞かない名前だが、それもそのはず、正式名称はポイゼンベリー、 日本語訳ではキイチゴだ。

地産のキイチゴ、ポイゼンベリーに、安曇川町の「アド」を名称に取り入れて、ブランド化を図っているという。
アドベリーを使った商品は、20種類以上はあるだろう。

「アドベリー」を略して記すと、ゼリー、クッキー、マドレーヌ、 ソース、ジャム、寒天ゼリー、パイ、ケーキ、バウム、ドリンク、サイダー等々。 なんでもアドベリーはブルーベリーよりも目に良い成分が多く含まれているらしいので、目の悪い母へのおみやげに「アドベリージャム」を買った。

安曇川の特産品はほかにもあって、とにかく広い物産館に取り揃えられている。

ランチは近江牛でプチ贅沢するか、フードコートで済ませるか

お腹が空いたら、レストラン「安曇川グリル」とフードコート「安曇川キッチン」のどちらかで食事を。

「安曇川グリル」は炭火でグリルした、ちょっと贅沢な料理が主体のレストラン。名物メニューは炭火焼きハンバーグと近江牛。せっかくだから近江牛を、という方にはオススメの専門店の味だ。一方の「安曇川キッチン」は、定食・丼物・カレー・麺類などなんでも選べる、典型的なフードコート。

「鯖の塩麹焼き定食」と「豚の醤油麹しょうが焼き定食」などの定食、「キッチンカレー」「チキンカツカレー」等のカレー類、 「ざるそば/うどん」「カレーつけ麺」などの麺類が人気だ。