
西近江路(にしおうみじ)は、近江国(滋賀県)から越前国(福井県)へと通じる旧街道です。
起点は大津の札の辻。そこから琵琶湖岸を北上して海津町へ向かいますが、ここまでの距離は68km程度。そして海津からは七里半越えを経て、敦賀へと通じています。
近世の宿場としては大津宿・札の辻(大津市札の辻)~衣川宿(大津市衣川)~ 和邇宿(大津市和邇中)~木戸宿(大津市木戸)~北小松宿(大津市北小松)~河原市宿(高島市新旭町安井川)~今津宿(同市今津町今津)~海津宿(同市マキノ町海津)~敦賀宿(敦賀市元町)が知られています。
今日は、大津から海津まで。北陸までの道はまたの機会として、西近江路を満喫しました。
古より都と北陸を結んでいた道を行く
西近江路(にしおうみじ)は、近江国(滋賀県)から越前国(福井県)へ通じる街道で、古代・中世の「北陸道」である。北国街道、北国海道、北国脇往還、北国往還、北国脇道とさまざまな呼ばれ方をしてきたが、明治20年(1887)に「西近江路」として県道となってからこの名称が定着した。
古より都と北陸を結ぶ道として人の往来が多く、とくに交易上きわめて重要な街道であった。また、壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、源平合戦、織田信長の朝倉攻め(一乗谷城の戦い、金ケ崎の戦い、小谷城の戦い)などでは大軍がこの道を移動している。また、平安時代の遣渤海使もこの道を通 って都へ向っていた。そんな道だから、歴史マニアにとって何度通っても飽きない道なのである。
「下阪本界隈」は、最初の散策ポイント
大津の札の辻を出発し、そこから琵琶湖岸を北上し始めてすぐ、「下阪本界隈」は車を降りて最初の散策をしたいポイントだ。比叡山の東側の山麓には延暦寺と日吉大社の門前町が広がっている。修行僧が隠居する里坊が密集した場所で、これが、観光名所にもなっている坂本(滋賀県大津市)だ。
元亀2年(1571)の「山門焼き討ち」前までは、「三津浜」の三湊があって、すぐ西の延暦寺系荘園からの年貢米等の物資が集積し、繁栄していたところである。厳密には、「山門焼き討ち」直前の「坂本焼き討ち」によって壊滅的打撃を受け、信長はその後からは少し北にある「堅田」を重用するようになる。
さて 坂本の山手には日吉大社があるが、まずここに寄る。比叡山も近いが、あそこに行ってしまうとそこで1日あっという間なので、また別の日に。


日吉大社の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)と大己貴神(おおあなむちのかみ)だが、元々は天智天皇が大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)からヤマトの守神・三輪明神を連れてきたのが始まりである。
遷都したが京になれなかった大津宮
天智天皇は白村江の戦い(663)に敗れたあと、各地に山城を築いている。唐と新羅の連合軍が攻めてくる恐れがあったからだ。これは日本にとって本当に危機一髪だった。唐が高句麗を討つことを優先、高句麗滅亡ののち新羅が唐に反旗を翻したという展開があって、天智天皇と日本は救われたのだった。
この恐怖の時代、天智天皇が遷都したのが大津宮(滋賀県大津市)だ。
しかし近江遷都の評判はよくなかった。周囲も遷都にはこぞって反対したが、それでも天智天皇が大津宮にこだわったのは、唐の軍勢の襲来よりも「東の軍団の襲来」がより現実的で、恐ろしかったからだ。天智天皇の予感は自らの死後直後に的中してしまう。壬申の乱(672)が勃発したのだ。大津宮遷都は、東から押し寄せる大軍団を、瀬田川(宇治川)で持ちこたえるためだったが、やはり最終決戦はこの瀬田の唐橋の争奪戦となり、東海の尾張氏や東国の軍団とつながっていた大海人皇子(おおあまのみこ)が勝利した。歴史にタラレバはないが、天智天皇の危機感は正しかったが、もっと人望があれば違う結果となったかもしれない。
聖徳太子に引き立てられた小野妹子の地盤
そんなことを考えながら、右手に琵琶湖を眺めながら北方面に車を走らせる。すぐに「和邇(わに)」という場所に着く。

JR京都発湖西線の駅で言えば、次が山科で、二番目の駅が「大津京」。先述のように、京域が造られる前に近江朝は滅びてしまったので正確に言うと「大津京」ではなく「大津宮」だが。その大津京からさらに先に進むと、小野駅、そして和邇駅の順に停車する。
京の京都の中心・六角堂で花を生けていた池坊専慶は、聖徳太子に引き立てられた小野妹子小野妹子の末裔で、小野氏はそもそも和邇(和珥)氏と同族で琵琶湖に南西側に拠点を構えていた。平安時代の小野小町もこの家から出ている。小野駅と和邇駅の周辺は、小野氏、そしてより力を持っていた和邇氏の地盤だった。
琵琶湖を支配した和邇氏の実力
和邇氏は長い間天皇家にキサキを送り込み、大きな発言力を持っていた実力者である。同族には他に春日氏がいて、平城京遷都に際し藤原氏に追い出されたが、元々奈良の春日山の「春日」は、彼らがこの一帯に陣取っていたことを今に伝えている。
和邇氏が力を持っていたのは、日本の流通のヘソと位置付けられた琵琶湖の水運を牛耳っていたからだ。米原から東に向かえば、陸路で東国につながった。また、日本海側から敦賀や若狭に集まった荷物は、峠を越えて琵琶湖に集められ、大津から水路で瀬田川を下り、一気に山城(京都府南部)に届けられた。琵琶湖は巨大だが、今で言うジャンクションであり、日本の「ハブ」だったとも言える。
そんな琵琶湖を戦国武将たちも重視しないわけはなかったが、和邇一族は地元の近江(滋賀県)から瀬田川、宇治に出て巨椋(おぐら)池、木津川を経て、京都南部と奈良県北部の県境付近を支配していた。ワニを舐めてはいけない。
安曇川からは4つのルートがを楽しめる
和邇から161号線を北に走ると道の駅「藤樹の里あどがわ」に着くが、ここから今津までは個性的な4つのルートを楽しめる。一つは、普通にそのまま161号線を走っていくルート。今津もしくはその先に目的地があって急ぐならこのルートでいい。
逆に時間があるなら、西近江路を行くとよい。旧街道あるあるだが、沿道に神社仏閣が多いし、なにせ景色変われど西近江路そのもの「河原市の宿場」を通って「今津の宿場」に至るのが2つ目のルートだ。

3つ目は、道の駅「藤樹の里あどがわ」に車を置いて稲荷山古墳(写真)に寄り道してから今津に向かうルート。

登山口にある宝泉寺ぐらいならあまり時間をとらなずに寄れる。こぢんまりとしているが非常にいい雰囲気のお寺だ。
そして4つ目が、方向を琵琶湖方面(東)にとり、湖岸にぶつかって湖岸道路を北上して今津に向かうルートだ。どれも甲乙つけ難いが、私は今回、非常に天気が良かったので琵琶湖岸や風車(道の駅しんあさひ風車村)の景色を優先。この4つ目のルートを楽しんだ。

民間運営のグランピング施設となった道の駅「しんあさひ風車村」
琵琶湖西縦貫道路(国道161号線バイパス)の新旭ランプから一般道を東に2km、 滋賀県西部の旧新旭町(現高島市新旭町)に「道の駅 しんあさひ風車村」がある。
元々は市の施設、市民の憩いの場の「風車村公園」として昭和62年にスタートし、平成5年に道の駅となった。そういう成り立ちゆえ、道の駅というよりも広いレジャー施設に近く、全敷地は92,000平米もある。よく引き合いに出される甲子園球場が約4万平米だから、倍以上の面積だ。
広々とした空間にピンクの建物、池と何台かある風車、そして手入れされた花壇。甲子園球場1個分に近い38000平米を占める花しょうぶ園は、車を降りて見る価値ありだろう。寄らなくても、琵琶湖の雄大な景色に変化をつけているので、ドライブしていて非常に楽しいエリアとなっている。
一応道の駅としての登録は残っているようだが、現在は道の駅の案内標識は取り外されていて、民営のグランピング施設「STAGEX高島」となっている。そのため当然、車中泊も仮眠休憩も不可だし、休憩しようとズカズカ入っていくのも躊躇われる。こういう中途半端な状況は、道の駅の当初の目的に全くかなっていない。道の駅だと思って駐車場に入って休んでいれば、不法侵入になりかねないのだ。
最大の混乱は、道の駅の公式ページおよび高島市の観光ガイドに道の駅の住所を「滋賀県高島市新旭町藁園336」と記載したままであること。これはグランピング施設「STAGEX高島」の住所であり、道の駅の住所ではない。実際、STAGEX高島の駐車場には道の駅の場所の案内と共に「本施設ご利用以外の方の駐車はご遠慮願います」という注意書きの看板が出されている。
この先、道の駅として新たな商業施設設置等の新たな展開もビジョンもないなら、道の駅登録は早急に削除するべきだろう。

昔は花と湖が美しい道の駅だったのに
道の駅「しんあさひ風車村」は、元々は花と湖が美しかった道の駅だった。100万本もの菖蒲の花が5月中旬~6月の梅雨入り前まで楽しめ、間髪なく6月上旬~6月下旬は10万本のルピナスの花。

ともに関西地区では最大級だった。



異国情緒あふれるカラフルな建物と大きな風車はまるでオランダを彷彿とさせ、駐車場から少し歩けば琵琶湖の絶景が楽しめた。湖北の琵琶湖は湖水がとても綺麗で、湖岸ギリギリまで立ち入ることができるため、湖水に直接触れることもできる。もちろん、湖岸は「STAGEX高島」の敷地ではないので(笑)これは今も変わらず楽しめるが。




道の駅として成り立たなかったのは、ひとえに商業施設があまりにも小さく、観光で訪れた客がお金を落としてくれなかったからだろう。運営がグランピング施設「STAGEX高島」に変わったしまったので、こうしたオランダ風の風車を楽しめるのは宿泊者のみとなり、ここを利用しないものは、外から眺める
ほかなくなった。







まあ、外からでも結構楽しめるが(笑)
今津から海津へは右手に琵琶湖の景色を楽しみながら
さて、どのルートを通っても、今津では湖岸に出る。竹生島が近くに見えるが、今回は眺めるだけ。竹生島は琵琶湖に浮かぶ「神様の棲む島」だ。西国三十三所札所めぐり第三十番札所「宝厳寺」と「都久夫須麻神社」への参拝客で年中賑わうが、住宅などはない。

今津は、若狭街道との分岐点である。かなり賑わっていたのだろう、その街並みは街道沿いだけでなく幾重にも連なっているように見える。 今津には、私も大好きな琵琶湖周航の歌の資料館がある。

加藤登紀子さんバージョンだけでなく、さまざまな歌手によるバージョンを楽しめる。
今津はまた自衛隊の町でもある。こちらの駐屯地には戦車大隊が配備されているが、有刺鉄線で囲まれた施設が随所に見うけられる。
バイパスに合流し、湖西線のガードをくぐれば海津の街はすぐそこだ。海津大崎は桜の名所だ。

宿場としての海津の街並みも風情がある。石積みがずらりと並ぶ湖岸の風景は琵琶湖を代表する景観の一つだし、神社仏閣も多い、そんな海津で今回の西近江路のドライブを終了とした。
