

鹿児島県南九州市知覧町の名産はお茶で、広大な茶畑が広がり、約1万3000人の人々が暮らす「薩摩の小京都」である。
そんな平和な案内ができるようになったのは、もちろん先人の犠牲あってのことなのである。
ちょうど80年前に太平洋戦争が終わったが、その直前の知覧町は、太平洋戦争の末期に旧陸軍の特攻基地が置かれ、若き特攻隊員たちが戦地に飛び立つ場所だった。すなわち旧陸軍の特攻隊員の出撃地であった「知覧基地」では、空襲を避けるために飛行場から離れた松林に造られた冒頭写真の半地下の三角兵舎で出撃直前までを過ごし、多くの若者たちがここから沖縄へ飛び立ち、その多くは帰らなかった。沖縄戦で亡くなった1036人のうち、439人もの若者たちがここから出撃した。
それから30年後の1975年に基地の跡地に建てられ、陸軍の特攻隊員の遺影や遺品を展示している施設が「知覧特攻平和会館」だ。

この施設ができた1975年当時、私は高校2年生、17歳だった。
私と同じ17歳で、沖縄沖の米軍艦に突入して戦死した少年飛行兵が複数名いたことをこの施設を訪れて知ったことは、私の父の兄弟四人が戦死したこと以上に衝撃だったことを忘れない。
それから、27歳になった2度目の訪問では戦後40年の報告を、37歳で3度目、47歳で4度目、57歳で5度目、そして67歳の今年は、戦後80年の報告と感謝を伝えに。
要するに知覧には10年おきに6回、広島平和公園、そして靖国神社と同じ回数訪れており、九州では仕事で訪れていた博多を抜いて、ついに私の最多訪問地となった。


特攻作戦で亡くなった最年少の隊員は17歳
17歳の帝国陸軍少年飛行兵である荒木幸雄伍長が、敗戦間近の日本を守るため、家族や愛する人を思いながら特攻機で出撃し、沖縄沖で戦死するまでの短い生涯を描いたノンフィクション『ユキは十七歳、特攻で死んだ』が発表されたのは、たしか2004年8月のこと。それを読みながら4度目の知覧訪問をしたので覚えている。
「ユキ」こと荒木幸雄少尉は17歳で特攻隊員として出撃し、沖縄沖の米軍艦に突入して戦死した少年飛行兵である。
山脇林二等飛行兵曹もまた17歳で特攻隊員として亡くなった一人であり、その青春時代と思想に関する書籍が別に出版されている。
「知覧特攻平和会館」内は、ロビーと零戦展示スペース以外は写真撮影が一切禁止されており、これらの本の真偽を疑って資料館で色々確かめるのだが写真によって示すことができない。
しかし、どの角度から何度確かめても、特攻作戦で亡くなった隊員の最年少の年齢は、本当に17歳だった。
そこに行って自分の目で確かめなければわからないが。

原爆はいいが特攻には触れない理由と事情
彼らが生きていらっしゃれば97歳。私の父が95歳なので二つだけ年上だ。17歳にして失われたその後の80年間を生き続けてこられた可能性は十分にある。
「皆さんの犠牲があってから、今年で80年の歳月が流れました。今、日本では人生100年時代なんて言葉が流行っています。あれ以来、日本は戦争をしておりません。これからも決して致しません。皆さん、本当にありがとうございました。安らかに眠ってください。」
そう報告した後、知覧のことはこうした本で自分で勉強するまで、高校までの膨大な学習時間の中で一度たりとも、この「史実」を教師が語ることはなかったことがやはり思い出される。
これまで何十人だろう、社会科教師という社会科教師をつかまえて尋ねてきたが、「時間切れで昭和史までは進めない」と逃げたり、「大学入試で出題されないから」と嘯く人がほとんど。
私の詰問に対して、「昭和史までは行くなという方針だった」を吐露した先生、「教える自信が全くない」という先生が、わずかに1人ずついた。
正直なこの2人の先生は、正直者である。
かえって信用できた。

特攻隊員を殺したのはアメリカではない
確かに、知覧の特攻について何を教えるかは、無限ループである。
日本の視点だけでなくアメリカの視点、外交など政治や石油取引など経済への深い理解だけではもちろんない。
世界で今なお頻発する「自爆テロ」の背景や本人の死生観、そこにはイデオロギーや民族間の憎悪の歴史があって。
何より知覧特攻で散った方々が残された手紙にしても、そこにあったのは教育という名のもとに行われた洗脳であって。
確かに、そんな全てを「教える」なんてことはできないだろう。
「俺には教えることができない」と涙ながらに白状した一人の先生は、私にこう言った。
「原爆は教えやすいんだよ。単純に被害者の立場に立てるからね。しかし、特攻については、これはとんでもなく難しい。特攻隊員にとっての敵はアメリカだった。少なくとも彼らはそう信じ込まされたわけだが、実は日本が彼らの戦死の加害者であることは、どうしたって明らかなのだからね」

道の駅「川辺やすらぎの郷」

鹿児島県南部には、東に大隈半島、西に薩摩半島があるが、この2つの半島のうち道の駅「川辺やすらぎの郷」は、西側の薩摩半島の中央部、旧川辺町(現南九州市川辺町)にある。
知覧特攻会館は、この道の駅から南に3キロ、すぐ近くだ。


車でのアクセスは、九州自動車道の鹿児島ICから指宿スカイラインに入り、その後川辺ICで降りて国道225号線を西に10キロ程度進むのがベストだろう。
道中ののどかな景色は、平和であればこそ。こんなにありがたいことはない。


駐車場は、施設規模なりの広さがある。



トイレはコンパクトだが、混み合って困ることはなさそうだ。



休憩環境としては、施設内外ともに申し分ない。


道の駅には、四季折々の花が飾られている。


おそらく、知覧特攻会館が近くにあることによるのだろう。
私も、何度訪れても特攻会館では家族に宛てた遺書に涙するわけだが、そのどうしようもなくやるせない気持ちが、この道の駅では少しでも安らぐような気がする。
道の駅の施設は、物産館、農作物直売所、レストラン。 農作物直売所には、地産の農作物が並ぶ。




物産館では、川辺牛、川辺ヨーグルト、かわなべ焼酎など「川辺」の名を冠した商品のアピールがすごい。豆腐も川辺町の特産品だ。


お茶、さつま揚げ、陶器の川辺焼もこの地の特産品だ。

レストランでは、川辺の特産品を盛り込んだ「豆腐定食」や「かわなべ牛」の人気が高い。

