残存する「山家陣屋跡」と、「和知黒不作」「駅乱立」で存続危うい道の駅「和」(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事○設備○立地○)  

丹波・山家城は、京都府綾部市広瀬町、標高は236m、比高130mに立つ山城で、甲ヶ峰城とも呼ばれています。築城は1563年、和久義国によるとされます。和久義国は丹波・横山城主だった塩見頼勝の4男で、和久左衛門佐という通称で呼ばれていたため、山家城には左衛門屋敷という別名も存在します。本貫は、福知山の和久城。山家城はその支城です。

その支城にわざわざ行こうと思った理由は3つあります。まず一つ目の理由は、数え切れない戦国大名の中で、この城を落とした明智光秀に対して私が非常に興味を持っていること。光秀が落とした城は全部見て回っています。

そして、天正10年以降幕末まで続いた山家藩の陣屋全体が、きわめて良好な状態で残されているということが二つ目。とりわけ藩庁跡北西辺の石垣は、垂直に近い勾配で低い石垣を階段状に積み上げていてかなりの高さがあるのですが、これは天正10年の谷衛友入部から時間差のない時期の石垣なのです。また、陣屋だけでなく家臣団の屋敷跡も、屋敷地の区画や遺構が良好に残存しています。

そして、理由の3つ目が、帰りに道の駅「和」に寄りたいからです、旬は過ぎましたが、この地方一帯の名産品「黒豆」の中でも際立って美味しいブランド「和知黒」を買って帰って、正月のおせち、というより酒のつまみを仕込みたいからでした。

山家城が明智光秀に攻め落とされるまで

丹波・八木城の内藤宗勝(松永長頼)が、何鹿郡に進攻してきたため、山家城(甲ケ峰城)主・和久左衛門佐との間で「和藤の戦い」が起こった。1563年、和久氏の被官・白波瀬肥前守が計略をもって、攻めてきた内藤宗勝を討ち取ったと伝わるが、これには諸説ある。

1565年には、黒井城主の赤井直正が攻め込んできます。和久左衛門佐は内藤家の援軍を受けたが、この戦で父・塩見頼勝が討死してしまう。また、逆に黒井城を攻めた内藤宗勝(松永久秀の弟・松永長頼)も討死した。また、丹波・鬼ヶ城は落城し、和久城を捨てた和久義国と和久長利は左衛門佐の山家城へ移ったとされる。

その後、和久氏は山家城を維持したが、1579年、信長の命により丹波攻めに入った明智光秀の侵攻を受けて落城した。これによって和久氏は没落し、子孫は帰農したと伝わる。この地はいったん明智領になったあと、1582年には本能寺の変。その後の激変は周知の通りで明智光秀は滅び、この地には、羽柴秀吉に従っていた播磨・平田城主である谷衛友が山家16000石にて入封した。

信長に称された谷衛友

谷衛友は斎藤道三の家臣・谷衛好の3男(あるいは4男であるとも)。谷衛友の父である谷衛好は美濃の斎藤道三、龍興に仕え、美濃斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えてきた。しかし天正7年(1579)、信長の命による秀吉の三木城攻めの際、谷衛好は子の衛友とともに三木城に対する付城を守っているところを別所勢(毛利勢の生石中務少輔)から襲撃されて50歳で討死にした。

このとき、弱冠17歳の谷衛友は初陣にも関わらず、父を倒した室小兵衛をその場で返り討ちにし、父の首を奪い返すという武勲を挙げた。織田信長はこの勇猛果敢な若武者を褒め称え、加増だけでなく感状と家紋「五三の桐」も与えている。こうした功績を認められ、信長、光秀の死後、20歳の谷衛友は、豊臣秀吉に丹波・山城城主を任ぜられたのだった。

関ヶ原では最初西軍、東軍に寝返って事なきを得る

関ヶ原ではその後谷衛友は、豊臣家の合戦に従軍すると、特に九州攻めの、豊前・厳石城の攻撃で一番乗りを果たしている。1600年関ヶ原の戦いは谷衛友38歳の時。西軍の石田三成への協力を決めたため、丹波・福知山城主の小野木重次らと、田辺城(舞鶴市)に籠城した細川幽斎への攻撃に参加する。

しかし幽斎は多くの武将に慕われる存在で、かねてより細川氏と通じていた衛友にとって幽斎は歌道の師匠でもあった。こうしたことからこの田辺城の戦いでは、衛友の細川幽斎への攻撃の手は緩く、ほとんど戦おうとせずに傍観。田辺城に向けて空砲を撃っていたため、「谷の空鉄砲」という言葉が残っている。

谷衛友は、石田三成破れたりと聞くとすかさず東軍について福知山城の攻撃にも加わるなどしたため、細川忠興や本多正純の仲介を受けて徳川家より所領安堵となり事なきを得ている。その後、谷衛友は1615年53歳のとき大坂の陣にも参陣して徳川秀忠の御伽衆を務め、かつて仕えていた豊臣家を滅ぼす。そして寛永4年(1627年)、65歳で波乱の生涯を閉じたのだった。

江戸時代を通じて13代にわたる藩政の基盤を成した第2代藩主・衛政

家督は4男・谷衛政が継いで、丹波山家藩の第2代藩主となり、山家陣屋で政務をとった。衛政は所領1万6000石から、弟谷衛冬に1500石、甥の谷衛之に2500石、同じく甥の谷衛清に2000石を分与し、山家藩は1万石となった。藩の領地は山間部で稲作には適さなかったが、衛政は地の利を生かしての林業や和紙造りに力を入れ、藩の財政を維持したが、凶作などの影響を受けないために、安定した藩経営に繋がったという。

外様大名で京にも近かったのに、珍しく以降山家藩は安定。江戸時代を通じて谷氏13代の藩政が、明治維新まで続いた。京都が近かった谷家は、公家・園家を通して皇室との縁を深めることができたという。現在の皇室にも谷家の血が入っているとのことである。

今なお良好に残存する山家陣屋跡

山家藩関連の城館群は、天正10年(1582)に谷衛友が入部以降幕末まで存続した谷氏の山家藩に関連する城館群であり、山家藩は2代目谷衛政が家督を継いで藩主となった際、寛永4年(1627)に分藩されたため、梅迫陣屋、十倉陣屋、上杉陣屋にも一部遺構が残っている。特に山家陣屋跡の良好な残存ぶりは一見の価値がある。

山家陣屋跡は、上林川と由良川に挟まれた尾根の突端に立地。陣屋町は上林川をはさんだ西側の対岸に展開している。今回は、紅葉の時期を逸してからの訪問だったが、春の桜が美しい場所なので、ぜひその季節に再訪したい。

城域最高所に、城域最大の面積を持つ曲輪があり、そこに藩庁が置かれていた。南東方向の山裾には、家臣団屋敷地跡が展開している。家臣団屋敷跡も屋敷地の区画や遺構が良好に残存しており、それぞれの屋敷地は、明治期に記された家臣団の屋敷配置図と照合することも可能である。

藩庁跡北西辺の石垣は、垂直に近い勾配で低い石垣を階段状に積み上げて高石垣としており、ここは天正10年の谷衛友入部から時間差のない時期の石垣がそのまま残されている。

山家陣屋跡の北東丘陵上に位置する山家城跡は、土豪和久氏が居城としていたもの。和久氏は、織田方についたものの、破城命令に従わなかったことから、信長に命じられた明智光秀に討伐されたことが文献史料からわかっている。城跡への登山道は藩庁跡近くから続いていて、陣屋跡と城跡の深い関わりがうかがえる。陣屋成立当初は世の中もまだ安定してなかったので、丘陵上の山家城跡を詰城、山麓の山家陣屋跡を居館として、一体として有事に備えていたと考えられる。

山家陣屋跡は、詰城跡、藩庁跡、家臣団屋敷跡などの一連の施設の遺構がほぼ完存し、戦国時代の城館から近世の陣屋への変遷過程や、近世の陣屋の全体像がわかるとても貴重な存在である。

谷霊神社には、谷氏が祀られている。

道の駅「和」は、京丹波町になんと4つもあるうちの一つ

山家陣屋跡から、由良川沿いを走る国道27号線を東に8キロほど行くと、京都府北西部の旧和知町(現京丹波町)に、ほぼつぶれかけの道の駅「和(なごみ)」がある。 旧和知町は町の面積の90%以上が山林で、過疎化が進み続けている小さな町だ。 町の中央部を1級河川の由良川が流れていて、ごく狭い平地部分に住宅が集まっていて、 本駅も由良川沿いの景観の美しい場所に立地している。街の規模に比べて、道の駅の規模はあまりに大きい。それは「和知黒」と「鮎」というキラー特産アイテムがあるからでも、マーケティングの結果に基づいてでもなく、この後に町内にいっぱい道の駅をつくる、その見通しもマーケティングもKPIの指標もなしに、出鱈目なものをつくったからだ。

駐車場の広さは十分すぎ。施設の前にちょろちょろっと停まっているだけであとはガラガラだ。

トイレの便器数のあまりの多さに驚いた、というかワロタ。誰か来るかなと待っていても、誰も来ない。

休憩スペースは、誰もいないし、個人的にはとてもいい感じ。情報館の、広々とした空間はいかにも勿体無い。

だだっ広い情報館(休憩所)の中には、失礼ながら命尽きようとされておられる後期高齢者が一人。

無計画ゆえの閑古鳥

一体、どうしたらこんなメチャクチャな計画、つまり誰も来ないのにでっかいものを作ることができるのだろう。理解不能である。

和知町の特産品は、「和知黒」のブランド名で呼ばれている丹波黒大豆。「鮎」もあるが、鮎は由良川の流域に名所が点在しているので、この駅ならではということになると、一択と言っても良い圧倒的な存在である。物産館では、もちろんこの「和知黒」を中心とした商品が販売されている。

例年、旬の時期に(10月中旬〜11月末)は「和知黒枝豆市」が開催されるが、今夏はなんと開催されなかった。、雨が少なく猛暑であったため黒豆の生育が過去最悪で、「市」への出荷者も少なく「市」自体が成立しないと判断されて、2024年の「和知黒枝豆市」は中止となっていた。農家さんにとってはかつてない大打撃、お気の毒で言葉もない。

ということで、今年の「和知黒大豆」は、品質低下は否めないものの品薄となったことで、ついに500g3000円を超えた。大豆の価格はおおよそ500gで400円、黒豆大豆でも500gで1000円程度(今年は高かった)。500gで3000円超の値がつく和知黒の人気どんだけー、そしていかに希少であったか、である。今年は記録的な猛暑で「和知黒」そのもののパワーは落ちたし価格も高騰したが、加工品はものによっては鮮度が関係ないし、ほぼ例年通りの価格で販売されているものが多かった。

和知黒の代表的な加工品としては、「黒豆腐とうふ」「黒豆こんにゃく」「丹波黒豆茶」。 和知黒を用いた菓子も豊富で「黒豆葛餅」「丹波黒豆せんべい」「黒豆腐もなか」「黒豆塩大福」など。 和知黒以外の商品では漬物推しとなっていて、「高菜漬け」「五菜漬け」や京丹波の漬物詰め合わせの「よくばり漬け」などが販売されていた。あ、お米を忘れてはいけなかった。お米も特産品の一つらしい。

「和知黒」が過去最悪の「凶作」だったということで、私は「和知黒」を買って帰るのを諦め、両親への土産には「和知黒水羊羹」を、鍋用に「わちぽん」、酒のつまみに「高菜漬け」の3品を買って帰ることにした。

過去最悪の品薄の上に、旬も大きく外した時期に来たわけだから、残念だが仕方ない。

つぶれかけの道の駅には目を瞑って、また道の駅をつくる狂気

京丹波町の道の駅は、繰り返しになるが、なんと町内に4つの道の駅が存在する。道の駅「和」でしか買えなかったブランド品「和知黒」も、町内の他の道の駅でも購入が可能になると、誰だってより近くで買えるところで買うに決まっている。交通の便の悪いこの道の駅まで、わざわざ足を運ぶ必要がなくなるわけだ。

実際、かつて「和知黒」目当てで賑わった道の駅「和」の客数は、ピーク時から大幅に減少。町の面積が広いとはいえ、同じ町内に道の駅が4つもあれば「各駅の個性の埋没」はどうしたって避けられない。もう町内の4つの道の駅どうし、存続をかけてのサバイバル戦が続いているのだが、この町の4つの道の駅すべて足を運んで確かめたが、この町で起きている競争は、決して高め合うものではなく、蹴落とし合いである。

そして、3セク方式で町の税金が投入されて大きな損失を出した同じ町内の「丹波マークス」などは、経営者は経営責任を取らず、また京丹波町民の税金が6億円も損失補填に充てられた。このことから、民間企業なら倒産で社長以下みな路頭に迷うが、倒産しそうになったら町民の税金を充てればいいという考え方が透けて見える。政治責任も経営責任も、この町にはないのか。京丹波町の町政は、完全に狂っている。

レストランでは、どうせなら「和知黒」「鮎」がらみの料理を

道の駅「和」のレストランでは「和知黒」と「鮎」を使った、ちょっと高級めの料理を堪能することができる。 駅横を流れる由良川はアユ釣りで有名な川で、「鮎」もこの地の特産なのだ。でも、このようにガラガラでは、閑古鳥の餌にしかならないだろう。

ワクワクしてる場合じゃないと思うが。