
幼い安徳天皇が祖母二位の尼に抱かれている。
「浪の下にも都はありますよ」と祖母。
その言葉とともに、安徳天皇は海に沈んだ。
平知盛は「見るべき程の事は見た」と言い、碇を担いで入水し、かの義経を追い詰めた平教経も源氏の猛者を道連れに海に飛び込んだ。
これが平家物語のクライマックス、平家滅亡のくだりである。
日本の歴史上、最も有名な戦いのひとつ「壇ノ浦の合戦」を経て武家社会への道を切り開いていった源氏と、ひとつの時代を謳歌し滅亡の道を辿った平氏と。
まさに「諸行無常の響きあり」だが、日本各地で「平家の落人伝説」が語られ、中でも四国と九州には、落ちのびた平家たちがよくもこんなところまで逃げてきたかと思う場所、つまり秘境中の秘境に逃げ込んで密かに暮らした場所が残る。
九州の秘境中の秘境、宮崎県椎葉村(しいばそん)と、熊本に残る平家の里・五家荘(ごかのしょう)を訪ねた。
「新・平家物語」に描かれた理想郷
壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たち。追っ手を逃れて、各地のふところの深い山奥へ。
「道なき道を逃げ、平家の残党がようやくたどりついたのが山深き椎葉だった。しかし、この隠れ里も源氏の総大将頼朝に知れることとなり…」。
その後のあまりに美しい展開に、作家・吉川英治は魅せられ、「新・平家物語」の中で椎葉村をこの世の理想郷として描いた。「人はなぜ争うのか」という問いかけを、彼は椎葉での那須大八郎と鶴富姫の物語に託している。
「ここには敵も味方もない。富も権力も意味を持たない。戦い、憎しみあってきた源氏と平家の間に美しい恋さえ芽生えたのだ」と。
『新平家物語』は桜の咲く吉野山で麻鳥と逢の夫婦が権力の空しさについて語り合う場面で終わのだが、彼はこの最後の場面を実際に見ていたのは、椎葉村だった。
新・平家物語における椎葉村の位置付けついて、彼はこう答えている。
「最後の場面はやはり壇ノ浦ですかとよく人に聞かれるが、自分の今の考えでは壇ノ浦以降、椎葉山中のような平家村の生態までを、そしてある一時代に平家文化を咲かせた人間の集団と大自然との融合までを心ゆくまで書いてみたいと思っている」と。
那須大八郎がついた「一世一代のウソ」
1185年源平最後の戦壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たち、道なき道を逃げ平家の残党がようやく辿り着いたのが、山深き椎葉の里だった。
しかし、この隠れ里も源氏の総大将・源頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうように命じる。
生憎、那須与一は病気だった。そこで、代わって弟の大八郎宗久が追討の命を受けることになったのだった。
椎葉に向かった大八郎は、険しい道を越え、やっとのことで隠れ住んでいた落人を発見した。
「さあ、いよいよ任務完遂の時!」
しかし彼は、かつての栄華などそのかけらもない、ひっそりと農耕をしながら暮らす平家一門の姿を見て、彼は追討の戦意を失った。そして、幕府に嘘の報告をしたのだった。
「我、平家討伐を果たせり!」と。
普通ならここで鎌倉に戻るところだろうが、大八郎は十根川に屋敷を構え、この椎葉の里にとどまった。そればかりか、平家の守り神である厳島神社を建てたり、農法の方法を教えるなど彼らを助け、協力し合いながら暮らしたのである。


鶴富姫と恋に落ちて…
椎葉村にとどまった大八郎は、ほどなく平清盛の末裔である鶴富姫と出会う。
そして、姫と大八郎は、恋に落ちた。
民謡「ひえつき節」にもあるように、姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音を合図に二人は逢瀬を重ねた。そして大八郎は、この椎葉の里に永住する決意を固めるのだった。
鶴富姫が子どもを身ごもると、村中が祝福した。
そこへ、大八郎に幕府からの召還命令が届く。
幾度となく拒んできた大八郎だったが、それは最終通告。今度ばかりは逃れられそうになかった。
「其方懐妊我覚えあり、男子ならば本国下野に差し超すべし、女子ならば遣わすに及ばず宜しく取り計らうものなり」
この言葉と、名刀「天国丸」を残し、那須大八郎宗久は、涙をのんで住み慣れた山里を後にしたのだった。
生まれたのは女の子だった。
姫は大八郎の面影を抱きながらいつくしみ育て、後に婿を迎ると、愛する人の名前「那須下野守」を名乗らせた。
源氏と平家の恋物語の舞台「鶴富屋敷」
源氏方・那須大八郎と平家方・鶴富姫の恋物語の舞台として知られる鶴富屋敷は、別名・那須家住宅として、昭和31年に国の重要文化財に指定された。椎葉村の中心部・上椎葉地区にあるこの屋敷は、今では村で最もポピュラーな観光名所となった。



鶴富屋敷(那須家住宅)は、大きくて太い木材を使用して建てられており、家屋前面に縁を横一列に長く配置している。平地が少ない椎葉の土地で傾斜をうまく利用した、この独特の建築様式は「椎葉型」と呼ばれている。


もちろん銅板葺きの装いは、800年以上前の当時ではあり得ない。火災防止の観点から昭和38年に銅板葺きの装いに変更されたものである。元々はもちろん茅葺き屋根だった。
現在は、鶴富屋敷の隣に旅館が併設されており、宿泊することもできる。
経営されておられるのは那須家の、なんと32代目である。
ちなみに、村の北東部には、昔ながらの特徴的な石垣が残る十根川集落がある。
ここにある全10軒の家うち、 なんと9軒が〝那須〟姓だ。

椎葉村は民俗学発祥の地
『遠野物語』などの著書で知られ日本民俗学の父といわれる柳田國男は、当時農商務省の役人だったが、九州視察を任ぜられたその旅の途中、椎葉村に足を踏み入れた。
明治44年の夏のことだった。
当時の村長・中瀬淳は、7日間彼と同泊しながら、つきっきりで村内を案内したという。このときのことを柳田國男は、後に次のように語っている。
「山の中に入って狩りの好きな村長と一緒に方々を歩いたのです。その村長が話してくれた山の守の信仰、それが実に面白い。ふしぎでたまらない。これはぜひ調べてみよう。とまあ、そういうようなことが起因となってこの方に入ったわけです」と。
この土地の狩猟伝承に魅せられた彼は、村を後にした後も文通を通して村長との交流を続け、椎葉の『狩の儀式』について研究を続けた。
そして、この山里で聞き書きした狩猟儀礼の伝承をまとめ、1909(明治42)年に『後狩 詞記(のりのかりのことばのき)』を発表。狩が一般的になっていた時代でも、椎葉村では儀礼的な習慣が残っていたというこの地の秘境ぶりを伝えて、日本民俗学の誕生を告げる記念すべき名著となった。
以来、椎葉村は、民俗学発祥の地とも呼ばれるようになったのである。
狩猟儀礼だけではない、椎葉村の「焼畑」もあまりにすごい。
村の面積の96%を山林が占める椎葉村では、残るわずか4%に農地と集落が存在するが、そこで営まれる「椎葉の焼畑」が、2015年、高千穂などとともに世界農業遺産に認定された。
その起源は何と縄文時代。5000年以上の積み重ねを、現代に応用させて受け継いでいるものである。
火を入れる箇所は毎年変え、火を入れた箇所は4年をかけて、森に戻す。
1年目は蕎麦、2年目は粟や稗、3年目に小豆、4年目に大豆。そして、大豆を取り終えるとまた森に還る。森に還す際には、クヌギやカシを植える。若木から育てると、光が森全体に回り光合成が効率よく行われる。
その知恵には、もう感動するしかない。
宮崎県との県境に近い熊本の「五家荘」へ
次に向かったのは、宮崎県との県境にほど近い「五家荘」。
五木の子守唄で有名な五木村から、さらに宮崎県寄りの、周囲を標高1300~1700メートル級の山また山に囲まれた隠れ里。まさに秘境中の秘境である。
ここに残る伝説によると、壇ノ浦の戦いで敗れた平清盛の孫、清経は追討を逃れ逃れてこの地にたどり着き、5本の矢を射って仁田尾、樅木、椎原、葉木、久連子の集落に住居を決めたのだとか。その
5つの集落を総称して「五家荘」と呼ぶようになったということだが、人里離れたこの地は、平家の子孫だけでなく菅原道真の子が逃れてきた隠れ里でもあった。
椎原(しいばる)、久連子(くれこ)、葉木(はぎ)の3地区には平家の子孫が、そして仁田尾(にたお)、樅木(もみき)の2地区には菅原氏の子孫が住んだといわれ、合わせて5つの庄屋があった。

これは「左座家」。左座家は平安時代に活躍した貴族、菅原道真の子孫が暮らしていたと言われている。藤原一族の追手を避けるために左座を名乗っていた。

これは「緒方家」。壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平清経の子孫3人が、追手の奇襲を避けるために緒方と名乗ってここで暮らした。
「平清経」一族が隠れ住んでいた?
あれ?
一般的に語られる史実では、たしか「平清経」は屋島、壇ノ浦で破れ、父、平重盛の家人であった太宰府の緒方維義には叛旗を翻されて、そこからり逃げ延びて大分の柳ケ浦から船に乗ったものの、行く末を悲観して入水自殺をしたことになっているのではなかったか?横笛の名手で、享年21歳。世阿弥が書いた能の演目にもこのストーリーが展開されているではないか。
しかし、五家荘の史家の説では、「平清経」は大分の緒方家の姫をさらい、この地に辿り着いて緒方三郎と名乗り五家荘で出発したとあって、『五家荘』は、平清盛の孫「平清経」一族が隠れ住んでいた村とされている。
根拠はこうだ。
父である平重盛は、内大臣をつとめ、小松内大臣と呼ばれていた。そして、嫡男「平清経」も内大臣となった。五家荘の美里町砥用には、「内大臣」という地名があって、その奥には「小松神社」があるというのである。
「平清経」が平家落人の中に本当にいたかどうかは別にして、彼らの逃亡が容易でなかったことは確かである。
源頼朝を温情で生かしていたがために仇討ちされてしまうということは、頼朝本人が証明している。人一倍臆病な頼朝は、草の根分けても平氏一門は皆殺しにしようと、どこまでも追い続けたのだから。
「五家荘平家の里」や「樅木の吊橋」へ
そんな厳しい逃亡から、村人たちと共存して子孫を繋いでいった歴史を今に伝える施設が「五家荘平家の里」だ。
ここには平家ゆかりの品を数多く展示する資料館のほか、神楽やイベントが行われる能舞台や、茅葺きの古民家を移築した食事処などがある。









五家荘一帯は紅葉の美しさでも知られ、私はその絶好の季節は外してしまったが、1ヶ月早く来ていれば、山の木々が赤や黄、橙に色づき峡谷を染める錦秋の風景を楽しめたはずだった。



深い谷を超えてとなりの山に渡る、樅木の吊橋がある。これは長さ72mの「あやとり橋」と長さ59mの「しゃくなげ橋」という親子吊橋で、どちらも木で作られたかなり原始的な橋である。
平家落人たちがつくった橋としては、源氏の討手が迫ってきた時には敵の侵入を防いでいつでも切り落とせるようにかずらを束ねて造った「祖谷のかずら橋」が残っていて、最も有名だ。
五家荘にかかる橋は、現在のものは安全面を考慮した設計になっているが、最初に架けられた頃のものはどれも村の営みのためになんとか渡れればそれで良い、そして、いつでもすぐに切り落とせるように。そんな橋だったろう。

道の駅「子守唄の里 五木」
秘境・椎葉村も五家荘も、失礼かもしれないが、私などひ弱な現代人にはおよそ人が住めるような気がしない、そんな秘境である。事実、道の駅も。両村の周り、九州のほぼど真ん中の熊本と宮崎の山間部はぽっかりと道の駅空白地帯となっている。
だから五家荘からもっとも近い道の駅というと、九州自動車道の人吉ICから九州山地を縫うように走る国道445号線を北におよそ40キロ、山間の小さな村、五木村にある道の駅「子守唄の里 五木」ということになってしまう。

その五木村でさえ、人口はせいぜい1000人程度。ここも、熊本県内屈指の過疎村の一つだ。
しかし、五木村の名前なら誰もが聞いたことがあるだろう。「五木の子守唄」の発祥の地としてあまりにも有名だから。
ただ、この「五木の子守唄」は、意味もわからず軽々に歌うようなものではないと私は言いたい。
ちゃんとその誕生の背景を知って、聴いたり歌ったりするべきだ。何が悲しいといって、こんなに悲しい歌はない。子守り唄であるのだろうが、子どものための歌などではなく、不幸な身の上、過酷な現実を歌って耐えるために生まれた歌なのである。
熊本県五木村などの山間部では、貧しさゆえに子どもが親元を離れ、金持ちの他人の家に「子守奉公」に出された。この「五木の子守唄」は、口減しのために子守奉公に出された五木村の貧しい家庭の子どもが、自身の不幸な境遇や寂しさ、奉公先の家との境遇のあまりの違いを嘆いて歌った。
歌詞の「おどまかんじん」とは、私たちは身分がとても低いという意味で、かんじんは物乞いのような貧しい身分のことで、旧い歌詞では「人非人」という漢字が当てられていた。奉公先の「よか衆(お金持ち)」とはまるで身分が違うのだと。
そして、「ぼんぎり」、つまり早く盆が来て実家に帰りたいと。さらに「私など死んでも誰も墓参りに来ないだろう、だから人通りの多い道端に埋めてほしい」と死ぬことを考える歌詞が続く。
私には、歌えない。
素朴な田舎生活が偲ばれる道の駅
道の駅の駐車場は、施設規模なりの広さ。

トイレもコンパクト。綺麗に清掃していただいている。これほど綺麗に便器を磨かれておられる方に、感謝しかない。



休憩環境としては、ここは最高だ。施設の中に入るだけでなく、外を散歩しないと勿体無い、そんな環境だ。







道の駅の施設は、物産館、レストラン、温泉施設。
物産館の一角では、村の農産物の直売が行われている。

寒暖の差が激しい五木村は蕎麦の生産に適した気候で自然薯そばやお茶が特産品として販売されている。蒟蒻、葉わさびといった田舎料理に必須の食材も。






本駅のレストランでは、五木豆腐を使った田舎料理を楽しむことができるようだ。

物産館から少し歩いたところには、温泉施設がある。
