娘に「餃子」と名付けかけた「餃子大王」の最後の晩餐は「赤萬」

『美味しんぼ』の山岡士郎氏は、「餃子はそれだけで完全食になり得る」と言いました。

曰く「皮は小麦粉で炭水化物、中の餡はひき肉と野菜。だから餃子はそれだけで必要な栄養分をほとんど取ることができる完全食なのだ」と。

冷凍餃子でお馴染みの、味の素(株)も「For ATHLETE(フォーアスリート)ギョーザ」というものをスポーツ選手向けに開発。真面目に一流アスリートたちをサポートしているのは、餃子がスーパーフードである何よりの証拠です。

人体実験のエビデンスもあります。

私自身、1978年から1980年のまるまる2年間は、「餃子の王将」が餃子5人前を食べたらタダ、1年後少しハードルを上げて10人前を食べたらタダ、というキャンペーンをやっていたので、私は毎日その恩恵に預かって、まるまる2年間、餃子だけを食べて生き抜いたのです。
青年期に餃子だけしか食わなかった2年間があっても、体調と成長を維持、後遺症も出ませんでした。「餃子はそれだけで完全食になり得る」ことを私は22歳にして証明し、以降「餃子大王」と呼ばれるようになったのです。

毎日餃子を食って、67歳になったという事実

20歳から22歳までのまるまる2年間、毎日餃子(とビール)だけを食べて生き抜いた私は、この頃「餃子大王」と呼ばれるようになっていた。

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「八坂神社(写真下)」を出発し、市内目抜き通りを練り歩く「餃子大王」。私「神生 六」はブログネームで、本名は「越生」。なので「越」の一文字が胸に描かれている(笑)

私は「餃子大王」として、その後の人生も「餃手(ぎょうて)」を守って生きてきた。

「餃手(ぎょうて)=餃子ローテーション」というのは、私の地元明石〜神戸で楽しめる「赤萬本店」「赤萬三宮店」「餃子の王将」「眠眠」の4店は毎週1回ずつ、「ひょうたん」「元祖ぎょうざ苑」は2週に一度、少し遠方の大阪の「天平」、京都の「ミスターギョーザ」「泉門天」あたりは月に1回ずつ、ほぼ毎日餃子を食べるという、私「餃子大王」が守ってきた餃子専門店巡りのヘビーローテーションのことである。

上記を基本に、長かった京都勤務時代は、「ミスターギョーザ」と「泉門天」と「眠眠」と「王将」、大阪時代は「天平」と「眠眠」と「大阪王将」、東京勤務時代は「UMINECO」と「東風餃子」、それに「味の素」と「大阪王将」の冷凍餃子のヘビロテ。環境が変わるたびにローテーションの内容は大きく変わった。(写真下は東京時代にお世話になった「東風餃子」)

最近全国各地に車旅をするようになってからは、全国チェーンの「餃子の王将」と、その地の美味しそうな感じの地元店に飛び込むことが増えてしまって、「餃手」はすっかり崩れてしまったが、「日々餃子を欠かさない」「餃子が主食」という食生活自体は変わっていない。

何が言いたいかというと、『美味しんぼ』の山岡士郎氏が言った「餃子はそれだけで完全食になり得る」ということを、私は67年間の人生を通じて証明し続けている、ということである。

創業65年、不滅の赤萬

かつてこのローテーションをきっちり守っていた時、「本店」と「三宮店」の交互に楽しむ「赤萬」が他の店の2倍以上の回数、週2のペースだった。

そう、赤萬こそは、私が思うナンバーワン餃子なのである。

「餃子大王」の使命として、野菜多めの餡が特徴の栃木県の「宇都宮餃子」も、ゆでもやしの付け合わせで有名な静岡県の「浜松餃子」も、旅をして食べ歩いた。

まあ、それなりだったが、好みだけはどうしようもない。「赤萬」の上を行く餃子は、私の前に未だ現れていない。

赤萬の創業は1960年。私が1958年生まれなので、赤萬は今年で満65歳になる。通い始めたのは高校生の頃なので、かれこれもう半世紀近くにもなる。

それでも、全く飽きない。
50年食い続けて飽きないのは、おそらく、変なクセがない、素朴な味だからかもしれない。

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皮は透き通るような薄皮。餡は、野菜や肉など具材が細かめに切り刻まれていてその中に生姜はやや多めだろうか、ニンニクはもちろん入っているが、あまり匂わない。優しい風味と甘味が特徴だ。

そして、なんといっても秘伝の「味噌だれ」、そしてビールである。

ビールがビール以上のものになるのは、赤萬の餃子、味噌ダレと、キンキンに冷えたキリンラガービール大瓶を組み合わせた時だけだ。

この3者は、「黄金の大三角」、余物をもって代え難い、完璧なトライアングルなのだ。

タレは、味噌をベースに、ラー油、お酢、ラー油などの調味料を好みで調節してつくる。

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赤満の5つの「掟」

神戸には、赤萬の他にも餃子専門店はたくさんある。その中で「老舗餃子屋」の域にある店では、(一般的には、餃子のタレは酢醤油に近いのだろうが)昔から「味噌ダレ」でしか食べない。

もちろん、赤萬もそうである。

「味噌ダレ」が、一つ目の「掟」なら、二つ目の掟は「並ぶこと」、三つ目は「餃子以外の注文はビールのみ」、そして4つ目が「追加不可能」、最後5つ目が「黙って食べること」の5つだろう。

赤萬の店の前には行列があるのが普通だ。「ひょうたん」もかつては行列ができたが、休業を経て味がガタ落ち、行列ができる餃子店はすっかり少なくなった。神戸の南京町の路地にあった「ぎょうざ大学」、震災後の三宮再開発で姿を消した「ユニコーン」なども健闘していたが。
少なくとも赤萬には、今も行列ができる。65年間変わらず、昔ながらの狭い店内である。お客さんはお行儀よく黙って並んで、順番が来たら店に入り、だいたいの人が2人前とビールを注文。黙々と食べると長居は禁物、さっさと店を出ていく。2人、4人のテーブル席でも、会話はほとんどない。周りが静かすぎて、食べることに専念するしかない、本店も、三宮店も、それが暗黙のルールである。

2人前ぐらい食べて、追加の注文ができればいいのだが、待合の客が多いこともあって、赤萬では最初に食べる量を決めないといけない。ビールだけ追加できる。「餃子大王」の場合、ここの餃子なら12人前ぐらいは軽いが、餃子とビールだけで5,000円を超えるのはいかがなものかと思うので、いつも「5人前とビール大2本」に決めている。注文数を控えめにして満腹にならなければ、近所に立ち並ぶ天下一品などのラーメン店で仕上げればいいだけのことだ。

神戸餃子は味噌ダレで味わう

焼き餃子は酢や醤油、ラー油を合わせたタレをつけて食べるのが一般的だろう。しかし、神戸では味噌ベースのタレをつけて食べる「味噌だれ餃子」が当たり前だ。

味噌だれは、餃子の風味を引き立てるために特別に作られたタレで、その特徴は使われる味噌の種類によって異なる。赤萬もそうだが、各店それぞれ工夫を凝らし、「うちこそが一番」と秘伝のレシピを完成させて勝負しているのだ。逆に言えば、神戸餃子を一般的な餃子ダレでいただくと、おそらくあまり美味しくないだろう。餃子自体の皮も餡も具材も味も、全ては各店の味噌ダレと合うように設計されているからだ。

各店秘伝のレシピは門外不出なので、オーソドックスなタレだけを先に紹介しておく。

1. 白味噌だれ:白味噌は甘みが強く、まろやかな風味が特徴だ。発酵期間が短いため塩味が控えめで、優しい味わいである。餃子の餡、キャベツや豚肉などの素材の味を引き立て、餃子の風味を優しく包み込みむから、甘みとコクが餃子のジューシーさとの相性が抜群である。

2. 赤味噌だれ:赤味噌は発酵期間が長く、濃厚で深い旨味と塩味が特徴だ。強い風味を持ち、力強い味わいが楽しめます。特に豚肉の旨味を引き出し、餃子全体に深い味わいをもたらす。しっかりとした味付けが好みの方におすすめだ。

3. 合わせ味噌だれ:白味噌と赤味噌をブレンドした合わせ味噌は、両方の味噌の良さを兼ね備えている。甘みとコク、塩味のバランスが配合によって変化し、豊かな風味が楽しめる。まろやかさと深みを兼ね備える万能だれで、各店ごと餃子の皮、餡の特徴に合わせて、味噌の産地やの配合に工夫を凝らしている。

4. 肉味噌だれ:ひき肉や野菜を加えて炒めた肉味噌は、味噌の旨味に加えて、肉のコクと野菜の甘みが融合した複雑で豊かな味わいを持つ。そして、餃子の具材と相まってボリューム感も風味も増す。食感にもアクセントが加わり、一口ごとに異なる味わいが引き出せる、贅沢な味噌だれだ。

味噌ダレのルーツは「元祖ぎょうざ苑」?

この味噌ダレと神戸餃子を語る上で外せないのが、発祥の店とされる神戸元町中華街の「元祖ぎょうざ苑」。頃末灯留(ころすえとおる)さんが3代目の店主である。「餃子大王」が調べたところ、ここが「神戸味噌だれ餃子のルーツ」である可能性は非常に高い。

頃末さんによれば、「神戸味噌だれ」の歴史は、餃子祖父で初代の芳夫さんが先の大戦で中国・満州に渡ったことに端を発するという。芳夫さんは岡山の名家に生まれ、英語が堪能だったことから、現地で諜報員を命じられた。活動のカムフラージュと情報取集を兼ねて、現地で日中に日本人向けの食堂を営んでいたという。

中国では当時、ギョーザといえば水ギョーザを意味し、祝いの席で提供する特別な料理とされていた。一方の焼きギョーザは、火を通して食べる「残りものの水ギョーザ」という位置づけだった。鍋に貼り付けるようにして焼くことから「鍋貼(ワーテル)」と呼ばれ、主に使用人の間で食されていたそうだ。

しかし同じ満州で暮らす日本人はと言えば、文化の違いもあってか、各家庭で焼きギョーザを好んで食べていた。そして次第に募る「ふるさとの味」への郷愁から、みそをつけて食べるようになったという。

満州から引き揚げた芳夫さんは戦後の混乱を経て流れ着いた同市兵庫区の新開地で、昭和26年に「元祖ぎょうざ苑」を創業した。満州時代の食堂で人気だったみそだれのギョーザを提供すると、引き揚げ者らの間で話題を呼び、市内の他店にも広がることになった。

つまり、神戸でみそだれが広がったのは戦後のこと、おそらくここより早く神戸で餃子専門店を始めた店はないはずである(餃子大王調べ)。

ちなみに、元祖ぎょうざ苑では、神戸ビーフを使用した贅沢な餡を、満州風の伸びる皮で包む。みそだれの調合はもちろん「企業秘密」。頃末店主は「従業員が帰ってから1人でこっそり仕込むという。各店ともレシピは店の命綱、どこも門外不出なのである。

京都で創業した「餃子の王将」のタレは味噌ダレではなかった

第二次大戦前、満州に住んでいた日本人の間では、当時、中国人が食べていた水餃子ではなく、焼餃子が好まれていたというのは、「餃子の王将」の創業者からも聞いたことがあった。

彼も戦時中満州にいて、日本に帰ったら焼き餃子で勝負してやろうと思っていたという。

しかし、彼が1966年に京都で創業した「餃子の王将」の餃子のタレには、味噌の選択はなかった。

神戸の他の餃子専門店の多くも、おそらく満州から帰ってきた日本人、あるいは中国人が戦後の神戸で店を始めたのだろう。しかし戦後直後に近い昭和26年以前に創業し、味噌ダレ餃子を提供し始めた店は、「元祖ぎょうざ苑」のほかに見つけられていないし、「赤萬」以上の味を提供してくれる店もまた見つけられない。

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私は、「最後の晩餐」を決めた

私は、長女の名前を、本当ならば「餃子」にしたかった。

キラキラネーム(?)をつけてしまう親に堕ちてはいけぬと踏みとどまったが、私はそれほど餃子を愛してやまない餃子大好き人間だったし、何より「餃子大王」であるのだ。

しかし、妻は餃子をもっとも忌み嫌う人間だった。結婚して30年間、彼女は一粒の餃子も口にしてこなかった。餃子どころか、ニンニクの匂いを嗅いだだけで、倒れると言った。

あろうことかそんな二人が結婚し、二人の子ができた。

子どもたちが社会に巣立った今、思うことは、こんな夫婦の組み合わせはやはりありえなかったということ。結婚式当日、「あんな正反対な二人がいつまでもつか」という賭けごとが始まっていた、そんな二人だったのだから。

単身赴任が多かった私より時間的に洗脳チャンスに圧倒的に恵まれた妻は、「餃子=悪」という教育を、子どもたちに対して徹底的に貫いた。二人の子どもに、娘も息子も、餃子という食品、料理を食べる…という機会が与えられることはまったくなかった。

我が家の食卓に、餃子という食べ物、ニンニクという食材が登場したことは一度もないし、そうした類の外食の場が選択されることもまた、一度たりともなかった。

そして、兎にも角にも2023年の春、私たち夫婦は、ついに、晴れて、2人の子どもの素晴らしい自立を見届けることができた。

私は、犯した最大の「過ち」を改めた。

私「餃子大王」の、私が私であるに相応しい「最後の晩餐」はひとりでいい、その場所は「赤萬」と決めたのだった。