
島原の乱は、「島原・天草の乱」、あるいは「島原・天草一揆」ともいわれるように、島原地方のみならず海を隔てた天草地方、両地域で領民らが一斉に蜂起した大事件として、そして鎖国政策に直結した事件として知られる。
島原と天草の民衆約2万6千人が、原城に集結し立てこもり、約12万人という幕府軍に包囲されて約3ヵ月、幕府は立てこもる民衆たちに投降を促したが、たった一人、自分だけ助かりたい男が裏切ったことで民衆たちの命懸けの戦いは幕府軍の総攻撃の一夜で終結した。
立てこもった民衆たちはその裏切り者一人を除いて、みな処刑されたのだった。
島原、天草共にキリスト教の盛んな地であったことから、島原の乱は禁教に反発を覚えるキリシタン達による一揆だともいわれてきたが、現在では、主原因となったのは連年の凶作・飢饉にも関わらず続いた過重な年貢負担や苛政、そこにキリシタンに対する過酷な取り締まりや迫害が絡み合ったものとされている。
島原の乱の舞台を訪ねた。
約3万7,000人(約2万7,000人との説もあり)が死んだ原城跡へ
寛永14年(1637)。数年前から島原と天草では天候不順による凶作が続いていたが、凶作はさらに酷く、地震などの天変地異にも見舞われた。にも関わらず、領主・松倉氏の年貢の取り立ては厳しく、キリシタン弾圧も激しさをより増していた。
民衆たちはたまらず、島原地方で村々の代官を次々に襲撃し、森岳城(島原城)を攻撃。また、天草では本渡城や、富岡城などに攻め入った。
各地でそれぞれ大規模な反乱を繰り広げた一揆軍は、その後島原で合流し、廃城となっていた原城に集結する。


わずか16歳で民衆の救世主として担がれた天草四郎時貞を盟主として、一揆軍は12月から翌年2月までの約3ヶ月間、原城に立て籠り幕府軍と対立したのだった。

これは、島原の乱で一揆軍が立て籠もった、地面を掘り込んだ半地下式の小屋跡だ。この竪穴建物跡群の発掘で、一揆軍の実態が少しずつ明らかになってきている。
一揆軍の数約3万7,000人(約2万7,000人との説もあり)に対し、幕府軍は最終的に約12万人の軍勢を動員。一揆軍は原城において約3か月に及ぶ籠城の末、幕府軍の総攻撃により寛永15年2月28日(1638年4月12日)に陥落。
落城時まで残っていた一揆軍の参加者は、女性や子どもも含め全ての者が討死、もしくは捕えられて処刑された。
島原の乱ただ一人の生き残りは、恥をかいて絵を描き続けた
そんな中、若干16歳で奮闘する天草四郎を支える立場に関わらず、己だけ助かろうと幕府軍に内通し、ただ一人生き残った恥知らずが南蛮絵師・山田右衛門作(やまだえもさく)だ。
私は67歳で絵師になったが、こんな野郎と同じ生業と思うとそれだけで吐き気がする。
まあ、絵描きもピンキリ、昭和の文豪も軍の言いなりで戦争を焚き付けた人間も多くいたわけで。職業に関わらずちゃんとした人間は一定数いて、絵師だから裏切りやすいということはないはずだ。
右衛門作は一揆軍の中では天草四郎に次ぐ副将で、参謀格としての役割を果たし、幕府側との矢文のやり取りを担当。しかし、一揆勢の幹部でありながらこの矢文を通し幕府側に内通した。
こうして一人だけ幕府軍に加担した結果、一揆軍の中でただ一人生き延びることになったのだ。
乱の後、一人生き残った彼は松平信綱に伴われて江戸に行き、絵筆をふるう傍らキリシタン摘発の仕事をさせられたが、晩年は恥というものさえ忘れたか、再びキリシタン信仰に戻ったといわれる。
ポルトガルと断絶し、一気に鎖国へ
近世最大の一揆・内乱へと発展した島原・天草の乱は、その後の幕府の政策に大きな影響を与える。
禁教令が徹底され、キリシタンではないことを仏教寺院で証明させる寺請制度(檀家制度)の導入などにより宗門改が強化された。
ポルトガルとの関係が悪化すると、幕府は翌年ポルトガル人の日本渡航を一切厳禁。


幕府の命を受けてポルトガル人収容のために築かれた「出島」は、たちまち無人の島となった。
そして、オランダと中国以外の国との通商を閉ざす鎖国体制が一気に整っていったのである。
島原地方の民衆に攻撃された島原城
島原の乱で島原地方の民衆に攻撃された島原城(森岳城)は、1616年に大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政が、1618年から7年余の歳月を費やして築いた城である。

「四壁山」「森岳」などと呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので、別名を森岳城とも呼ばれるこの城は、南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓は33か所。
内郭は堀にかこまれた本丸・二の丸を設け、その北には藩主の居館である三の丸。本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込めの五層の天守閣をはじめ、3か所に三層櫓がそびえ立つ豪壮堅固な城構えである。
島原の一揆軍はここを果敢に攻めたが、所詮は戦慣れしていない民衆のこと。
やはりここを攻め落とすのは無理だった。

道の駅「ひまわり」
道の駅「ひまわり」は、かつて「みずなし本陣」という駅名だったが、2023年4月にリニューアル。道の駅「ひまわり」として新たにオープンしている。

長崎自動車道の諫早ICから国道57号線沿いに東に約20キロ、途中から国道251号線に入り有明海沿いに約30キロの場所にあるのだが、私は島原半島南部の原城跡を訪ねてから道の駅に向かったため、左手に雲仙の山々、右手に島原湾の美しい海を眺めながらのドライブはとても素晴らしいものだった。

駐車場は、十分な広さがある。


トイレも大きく、独立した建物となっている。



休憩環境としては、観光案内所を含め、非常にレベルが高い道の駅だと思う。



大火砕流体験館
今でこそ道の駅が位置するここ旧深江町(現南島原市深江町)には、海と山の景色が美しく、そこに長閑な町の生活があるが、34年前の雲仙普賢岳噴火では多数の犠牲者を出し、壊滅状態となった悲しい過去もある。

その悲しい過去は、道の駅にある大火砕流体験館の中に残されていた。

火砕流発生当時のままの姿をそのまま保存した家屋は、屋根しか見えない。
つまり1階部分はこのように、火砕流に完全に飲み込まれているのだ。
言葉にならない。

物産館とレストラン
道の駅の商業施設としては、物産館とレストランが。



まず物産館だが品揃えの豊富さが素晴らしい。
長崎カステラ、長崎ちゃんぽん、長崎皿うどん等々、長崎の全ての土産品は、おそらくここで手に入るだろう。


憩い横丁の食事処では郷土料理を満喫できる。
長崎ちゃんぽん、皿うどんといった長崎の定番から、穴子そうめん、貝雑煮など南島原市の郷土料理まで。


デザートも、完璧だ。
