大相撲史上最高の名勝負から52年、北の富士を偲んで相撲発祥の道の駅「かつらぎ」へ(トイレ△仮眠✖️休憩△景観△食事○設備○立地○) 

北の富士勝昭さんが、2024年に82歳でこの世を去りました。最期までカッコよく、NHKでの名解説も人気でしたが、古い話で恐縮ですが私は彼の現役時代、玉の海、貴ノ花という足腰が素晴らしい両力士と繰り広げた名勝負、それだけが彼の思い出です。

まだ小学生、そして中学生になったばかりの頃の私は、ライバル横綱玉の海と北の富士の千秋楽の名勝負が大相撲を観戦する最大の「目当て」でした。

今も忘れられないのが、玉の海が27歳で急逝したことを、その日の夕刊の1面で知った時のこと。

そしてその翌年、昭和47年(1972)初場所中日に組まれた、横綱・北の富士対新進気鋭の関脇・貴ノ花の一番です。私は今でも、この一番こそは大相撲史上最高の名勝負だと思っていますし、現役最高潮時に急死した玉の海こそが、名横綱数多しといえど、私にとっての最高の横綱像でした。

史上最高の名勝負の結末は…

なぜ玉の海と貴ノ花が、超攻撃型の北の富士と名勝負を繰り広げられたかというと、それは二人が各界一二を争う足腰の強さ、粘り腰を持っていたからに他ならない。

この一番は、立ち合い、左四つに組み止めた横綱は、右上手を取り一気に寄る。左外掛けを飛ばしたが、貴ノ花はこれを返し、逆に上手投げを打つ。長い勝負になると不利と判断した横綱は、土俵中央で、今度は右の外掛けを飛ばし、まるで跳び箱でも跳ぶように、細身の関脇の上に覆いかぶさった。

勝負あったと誰もが思った次の瞬間、貴ノ花はほぼ倒れながらも弓なりになって耐え、横綱をうっちゃり気味に投げ飛ばしたのだ。そして、貴ノ花の背中よりも先に、横綱の手が土俵についたのである。

玉の海も貴ノ花も最期までかばった紳士

やむを得ずかばった手なら北の富士、うっちゃりにたまらずついた手なら貴ノ花の勝ちだ。

立行司・木村庄之介は「つき手」と見て、軍配は貴ノ花。しかし物言いがつき、「かばい手」とみなされ、判定が覆る。結果、行司差し違いで勝利は北の富士の手に…。場内は騒然、相撲協会には抗議の電話が殺到。物言いがついた後は行司に発言権はないが、あくまで「つき手」を主張した25代木村庄之助はこの「行じ差し違え」を受け容れず土俵を去っている。彼もまたプロだった。

翌日以降も、好角家だけでなく、超絶人気力士・貴ノ花への判官びいきも加わって、いわゆる「つき手・かばい手論争」に発展した。北の富士は生前、玉の海の急性の際には「俺が死んだ方がよかった」と号泣。晩年に「やり残したことは?」と問われた北の富士は、「国技館に大型スクリーンを設置できなかったこと」と答えている。「2階席からじゃ視力の衰えたお年寄りは、決定的な瞬間を見逃してしまう。お客さんあっての相撲だから……」と、貴ノ花の粘り腰を称えた。

角界は本当に惜しい人を亡くした。こうした北の富士節がもう聞かれないと思うと、とても寂しい。

強靭すぎる足腰には常に引退の危険が伴った

この大相撲史上最高の名勝負以外にも、軽量力士貴ノ花の相撲はしばしば最後までもつにもつれた。そしてそのハラハラドキドキの勝負を生んだのが、貴ノ花の「膝から下に魂が宿る」と評された脅威の粘り腰だった。

その前年初場所の5日目、横綱大鵬と小結貴ノ花との対戦も、粘りすぎて危険な相撲だった。左四つでの激しい攻防があり、体重100キロに満たない貴ノ花が、当時では大型で150キロ近い大鵬を吊って東土俵へ追い詰める。さすが大鵬、土俵を割らない。そしてこの時、残した大鵬の体重が貴ノ花に乗ったままの勢いで大鵬が勢いよく寄り返した。貴ノ花は最後まで倒れまいと踏ん張った左足が、土俵に正座をするような形で後ろに倒れ、そこへ大鵬がのしかかった形で決着した。

貴ノ花の20歳での引退を救った大鵬の「かばい手」

貴ノ花が負けると毎度悲鳴は上がるが、素人目にも分かる危険な体勢に、館内からいつもとは違う種類の悲鳴が上がり、そして静まりかえった。貴ノ花は左足首挫傷の大怪我を負い、翌日から休場した。貴ノ花20歳の時だった。

大怪我の2場所後、貴ノ花は復帰し、その大鵬に直接対決で引導を渡した。

ケガの影響はその後の土俵生活で消えることはなかったが、こうして土俵に復帰できて大鵬と再戦し、翌年以降も伝説の名勝負を残せたのは、大怪我を負ったこの相撲で大鵬の「かばい手」があってのことだった。

大鵬はのしかかりながらとっさに貴ノ花の肩越しに両手をつき、足は左膝を土俵につけて右は流していた。そして勝負がつくとすぐに抱き起こし、「大丈夫か」と貴ノ花の左足に手をあてがった。もしあのまま大鵬が体ごと上に乗っていたら、貴ノ花の怪我の程度は2場所休場では済まず、おそらく力士生命はそこで終わっていただろう。

かつて相撲は、本当に命を懸けた大勝負だった

相撲は日本を代表する競技だが、その起源を問われると、答えられる人は少ないかもしない。初の天覧相撲がその起源とされ、そこで闘った「當麻蹶速」の出身と言われているのが、奈良県の葛城市だ。葛城市が相撲発祥の地とされている由来は、日本最古の歴史書「日本書紀」にある。そこには、4世紀初めに怪力の持ち主として知られた地元力士・當麻蹶速(たいまのけはや)が野見宿禰(のみのすくね)と天皇の御前で力比べの対戦をしたと記述されている。

「大和の国當麻の邑に「當麻蹶速」という人物がいた。蹶速は常日頃から「この世で自分と互角に力比べができるものはいない、もしいればその人物と対戦したいものだ」と豪語していたが、天皇はその話を聞きいて家臣に「當麻蹶速と互角に戦えるものはいないのか?」と尋ねたところ、家来の一人が「出雲の国に野見宿禰なる人物がいます。この人物を呼び寄せ蹶速と戦わせてはいかがでしょうか?」と進言した。天皇は喜んで、垂仁天皇7年7月7日に「野見宿禰」と「當麻蹶速」の対戦が実現。お互いに足を上げて蹴りあい(当時は蹴りもあって喧嘩のようなものだったらしい)、長い戦いの末、蹶速はこの対戦で命を落としてしまった。」という内容だ。

勝負に負けて命を落とすとは大袈裟な、とも思ったが、実際、貴ノ花はそのあまりに強靭な粘り腰ゆえ常に力士生命をかけて闘っていた。もし相撲に土俵もルールもなければ、勝負は相手の死によって決まったということに納得もできる。

「相撲発祥の地」の奪い合いは続く

今や葛城市の名所の一つとなった「相撲館けはや座」と供養塔「當麻蹶速塚」が、相撲の開祖として歴史に名を刻んだ地元の英雄「當麻蹶速」を偲んで建てられている。

この「宿禰」と「蹶速」の「対戦」が国技相撲の発祥とされ、また、我が国初の天覧相撲ともされていることには異論がないようだが、葛城市は當麻蹴速の出身地であること、香芝市には二人の決闘地とされる腰折田(こしおれだ)があること、桜井市にも天覧相撲をとった場所とされる相撲神社があること、そして兵庫県たつの市は野見宿禰が戦いを終えて大和の国から故郷へ帰る途中に病死した場所であること。4つもの市が、それぞれ勝手な理由をつけて「相撲発祥の地」として名乗りを上げ、「我が市こそは」の主張を今も続けているというから、町おこしもつらいよ。

混んでいる道の駅「かつらぎ」だが相撲関連の展示には誰もいない現実

田畑が広がるのどかな農村地帯・葛城市は、奈良県の中西部にあり、西にそびえる二上山を挟んで大阪府に隣接している。2県を結ぶ南阪奈道路に乗れば、近畿自動車道の松原JCTまで約15分、大阪市内まで約50分の場所だ。南阪奈道路沿いにある「道の駅かつらぎ」は、葛城市内では道の駅「ふたかみパーク當麻」に続く2カ所目の道の駅として2016年11月にオープンしている。

最初に、この道の難点を二つ挙げるとすれば、それは駐車場、そして屋外トイレが見当たらないことだ。施設規模や立地の割にあまり広くなく、満車のケースが多い。トイレは、大きな館内にはいくつかあるが、このぐらいの施設規模だと、駐車場の側に一つぐらいないと利便性が良いとはいえないだろう。

休憩環境としては、場所的にはあっても、ぼーっとできる休憩スペースは乏しい感じ。

観光インフォメーションには、葛城市と周辺各地の観光情報パンフレットがたくさん置いてあるほか、本物の木材や木製チップに触れながら、木の香りに包まれて過ごせる「木育スペース」がある。

「相撲発祥の地」を名乗るだけあって相撲関連の展示もあるのだが、客数は多くてもそこには誰もいないのが悲しい。

逆に食の施設や農産物販売は超満員

「道の駅かつらぎ」の一番の魅力はなんといってもレストラン・カフェの充実具合だろう。地元野菜を使った「健康からだ食堂」や、葛城で栽培した桑の葉メニューが推しの地元農家直営「寺口ファーム」、地元の果物や野菜、日本酒を使った本格イタリアンジェラートがおいしい「葛城茶房フェレストカフェ」などチャレンジショップを含む6店が出店し、ひっきりなしに客が訪れる。

フードコート(カフェ9:00~18:00/レストラン11:00~19:00)は連日大盛況。

人の顔が映らないように写真を撮るのが本当に大変な道の駅だ(笑)

広い農産物直売所には、花や葛城名産のイチゴをはじめとする果物、旬の地産野菜などがずらりと並ぶ。10月~12月は柿、12月~3月はホウレンソウ、12~5月はイチゴ、6~9月はトマトやナスを求めて、年中買い物客で賑わっている。第1日曜に開かれる特産市「感謝祭」(9~16時)では、うまいもん屋台も出てさらに大にぎわいになるという。

また、葛城市に限らず奈良県各地の名産品や工芸品、奈良にはない海の幸(淡路島から直送)といった生鮮食品まで取り扱っていて、観光だけでなく、普段使いにも役に立ちそうな充実度だ。品添えからも、地元の人の利用比率はかなり高いことが推察できる。