坂上田村麻呂を祀る田村神社、その向かいの道の駅「あいの土山」へ(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事△設備✖️立地◎)  

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、今からおよそ1270年前に生まれた、平安時代初期の人物です。天性の才能に優れ、また兵を用いるに神の如くであったと伝えられ、 恒武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の三代に仕えました。

当時、東北地方に住む人々は「異種な文化を持つ異民族」と大和朝廷に見なされて、「蝦夷」(えぞ/えみし)と呼ばれていました。奈良時代から平安時代にかけて朝廷は、彼らへの理解が及ばなかっただけで「異種な文化を持つ異民族」との決めつけをさらに「敵対」あるいは「反抗」しているとみなし、武力による討伐に踏み切っていたのです。

当時は特に、朝廷中心に何事も見ていますから、朝廷の思い込みであろうがなんであろうが、とにかく「蝦夷」は討伐すべしの対象となっていたのでした。
坂上田村麻呂は、最初は大伴弟麻呂の副将の一人として東征して功を上げ、後に征夷大将軍として蝦夷討伐を成功させた人物として有名ですが、彼は武力をもって蝦夷を討伐したのではありません。

彼を祭神として祀っている田村神社に行ってきました。

桓武天皇悲願の蝦夷征討を成し遂げた坂上田村麻呂

桓武天皇の時代になると、朝廷は蝦夷を服従させようと、いよいよ武力行使をするようになっていた。789年(延暦8年)、まず征夷大使となった「紀古佐美」(きのこさみ)が蝦夷に向かったが、蝦夷の激しい抵抗を受けて失敗。794年(延暦13年)には、「大伴弟麻呂」(おおとものおとまろ)が征夷大将軍となり、田村麻呂も副将軍として向かうが、これも失敗。しかし、797年(延暦16年)に田村麻呂が征夷大将軍に任じられると、801年(延暦20年)、初めて蝦夷征討に成功した。

しかし、田村麻呂はこのとき、実は武力で制したのではなかった。田村麻呂は、蝦夷のリーダーであった阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)に対して交渉を持ちかけた。それは、「蝦夷500余人を説得して降服せよ、そうすればお前たち2人の命は助ける」というものだった。

蝦夷は降服し、田村麻呂は2人を京に連行。彼らの「助命」を懇願した。しかし京の貴族達は反対し2人を処刑してしまう。田村麻呂は約束を反故にしたことになってしまったが、「誠意を持って対応してくれた」と、逆に蝦夷からの信頼を得ることになった。田村麻呂は蝦夷に胆沢(いさわ)城、志波(しわ)城を築城し、蝦夷/奥州を平定したのだった。

山崎朝雲《坂上田村麻呂》

山崎朝雲(1867-1954)が彫った、坂上田村麻呂像。山崎朝雲氏は高村光雲に入門し、木彫に洋風彫塑の写実表現を導入した優れた技巧の作品を残した。この像は1934年、67歳の時の作品だ。いままさに戦場へと出立する武人の威厳ある雄姿が、鎌倉以来の木彫の伝統を継承した彫技で捉えられている(京セラ美術館蔵)。

道路整備あってこそ可能になった東征

辺境の地だった奥州に行って、日本の国土に組み入れる戦いをするためには、まず道を通すことが肝要だったはずだ。当時、道路(街道)はどのような整備状況だったのだろうか。

道路整備のきっかけは、やはり田村麻呂の生誕から100年以上は遡った大化の改新(645年)である。日本は律令制国家に舵を切り、戸籍を作り税制や兵役を整備して中央集権国家に衣更えしたが、国土を守るためにも、租庸調を納めさせるためにもまず道路が必要となる。そこで、大化の改新以降、道路の整備をすべく大がかりな土木工事が始まったわけだが、律令制がとり入れられ戸籍が整備されたからこそ、大規模な労働力の動員も可能になっていたのだった。

坂上田村麻呂の東北遠征当時には、日本は五畿七道(ごきしちどう)に分けられていた。宝亀2年(771年)には武蔵国が東山道から東海道に編入され、だいぶ現在の地域区分に近い姿になっており、道路も駅制の整備とともに相当進んで、大規模な行軍も可能になりつつあった。

田中角栄「日本列島改造論」の原型?

坂上田村麻呂は優れた武人であっただけでなく、稲作や養蚕を蝦夷の人々に伝播することで文化的に懐柔していく方針を取った戦略家でもあった。武力衝突を繰り返して双方に多くの犠牲を出してきた蝦夷との戦いが終結をみて帰順が進んだ陰には、坂上田村麻呂の叡智だけでなく、道を築いた先人の努力が何より大きな役割を果たしていた。

古代の道には、実は近世の道より規格が立派なものが多い。「駅路」と呼ばれる大道では、幅が12mもあり、両側には雨水を排水するための側溝が造られていた。「伝路」と呼ばれる細いタイプの道でも幅は6mで、これにもきちんと側溝が備わっていたというからすごい。

道筋も真っ直ぐあるいは直線的で、たとえ障害となる丘陵地があっても極力迂回しないよう設計されていた。現代の高速道路建設の現場でよく遺構が発見されるが、その多くはルートが似ている古代の道路等の発見である。

稚児になつかれた「毘沙門の化身」

このように、奥州の平定にあたった武人として、あるいは戦略に優れた政治家としても有名な田村麻呂だが、彼はいったいどのような人物だったのだろうか。

坂上田村麻呂は、758年(天平宝字2年)生まれ。私のちょうど1200歳年上だ。走る馬からの弓を射る馳射を得意とする百済から来た一族を祖先に持ち、祖父の時代から大和朝廷に仕えた「貴族の出」である。

身長は175cm。当時としてはかなりの長身で、胸板厚い立派な体格。赤ら顔で目は鷹のように鋭く、黄金色の顎鬚は伸ばし放題で、武術に優れ、とにかく強かったから「毘沙門の化身」と恐れられていた。

伊勢の鈴鹿山にいた鬼の美女「悪玉」と結婚し、その妖力も手に入れたと言う伝説もある一方で、「怒って目をめぐらせば猛獣もたちまち死ぬ程だが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」と、ただ怖いだけでなく、メリハリがきいた人間味はずいぶん慕われてもいたようだ。

田村麻呂は30歳で近衛少将となり、36歳で副将軍として「蝦夷征討」という重要職を拝命している。奥州平定はすでに述べた通りだが、田村麻呂はその後、参議(現在の内閣大臣に相当)・中納言・大納言と出世し、政治の中心で活躍した。しかし病に倒れ、54歳でその生涯を終えた。官位は大納言正三位兼右近衛大将。死後従二位を贈られた。時の嵯峨天皇は彼の死を悼み、一日喪に服したという。

田村市における坂上田村麻呂伝説

田村市内に残る坂上田村麻呂の伝承は、大滝根山を本拠としていた賊あるいは鬼の首領である大多鬼丸を討つための戦いに関するものが非常に多く、陣を張ったところ、戦勝祈願したところ、進軍中でのものごと、戦勝報告とそのお礼として祀った神社に関することなどが多い。田村市内の地名の由来の多くが田村麻呂伝説に結び付けられており、田村市内に所在する神社仏閣の多くが田村麻呂の建立・奉祀によるものとされている。
伝承の多くは田村麻呂が正義で、田村麻呂に退治された大多鬼丸は悪(賊あるいは鬼の首領)とされているが、地域によっては、大多鬼丸は実は地元の豪族で、民を守るために朝廷の支配に立ち向かっていたが、朝廷に敗れたために賊あるいは鬼にされてしまったと伝承されている。

田村麻呂が戦ったのは賊?それとも地元を守ろうとした豪族?

「昔むかし、陸奥国霧島山(現在の大滝根山)周辺で大多鬼丸を首領とする賊が悪逆非道を繰り返していました。時の朝廷は、この賊を征伐するため、坂上田村麻呂を大将とした軍を田村の地に送りました。田村麻呂の軍は各地で戦勝祈願しつつ進軍し、ついに大多鬼丸の軍と激突しました。最初は苦戦していた田村麻呂ですが、神託や白鳥の導きにより、ついに大多鬼丸を洞穴(達谷窟)に追い込んで自決させました。首領を失った大多鬼丸の軍は降伏し、この地の戦いは終結しました。田村麻呂は大多鬼丸の武勇を惜しみ、その首をあぶくま一円が見渡せる仙台平に丁重に葬りました。」

これが、田村麻呂が戦ったのは賊であるという伝承で、実際、退治された鬼が残っている。しかし、「「地元を守ろうとした豪族だった」と言う伝承は以下の通りで、その銅像も全く違う姿だ。

「昔むかし、陸奥国霧島山(現在の大滝根山)の白銀城に大多鬼丸という豪族が住み、七里ヶ沢(現在の滝根町周辺)を平和に治めていました。ある日、大多鬼丸の元に朝廷から、「この地と人を朝廷に差し出せ」という要求がありましたが、大多鬼丸はそれを拒否しました。怒った朝廷は、大多鬼丸を討伐するため、この地に坂上田村麻呂を大将とした大軍を送りました。こうして坂上田村麻呂と大多鬼丸との戦いが始まりました。大多鬼丸や部下の鬼五郎は勇猛に戦い、田村麻呂軍相手に善戦しましたが、兵で勝る田村麻呂に次第に追い詰められ、達谷窟で自決して果てました。かくして、大多鬼丸は悪鬼として後世に名を残すことになりました。」

田村神社の成り立ち

古来より東海道の難所のひとつとされてきた鈴鹿峠。そのたもとの閑静な森の中、野洲川の支流田村川沿いにあって、道ゆく旅人たちが交通安全を祈願した古社が、田村神社。平安時代の征夷大将軍として高名な坂上田村麻呂(758~811)主祭神として、第11代垂仁天皇皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)、第52代嵯峨天皇(786~842)が祀られている。

弘仁3年(812)、嵯峨天皇の勅命により鈴鹿峠の二子の峰にて神事が執り行われ、弘仁13年(822)に現在の地に遷り社殿が創建されたとの記録がある。のち、天文11年(1542)、山中秀国と北畠具教の戦火に巻き込まれて、嵯峨天皇の宸筆(しんぴつ:天皇の直筆)含め大半が焼失した。これよりほぼ100年後の寛永15年(1638)に、後水尾天皇により「正一位田村大明神」の額が下賜されている。明治時代になって付近の氏神を廃して合祀、現在の壮大な姿になった。

社殿がある土山の地は、坂上田村麻呂が鈴鹿峠に跋扈していた悪鬼を討伐し、街道の安全を確保したことから選ばれたといわれる。

毎年2月には厄除大祭(田村まつり)

田村神社は、田村麻呂の鬼退治の伝説にまつわる「厄よけの神」としても有名で、毎年2月18日を中心に3日間、神社の大祭が盛大に行われ、数十万人の人々で賑う。

田村麻呂の伝説の一つとして、厄除大祭(田村まつり)の起源となった「鏡岩の伝説」が残されている。鏡岩とは、鈴鹿峠を三重県側に少し下ったところにある大岩(三重県指定天然記念物)のことだ。むかし、鈴鹿峠には一匹の鬼が住んでいて、峠を通る旅人の姿がその鏡岩にうつるたびに捕らえて食べていた。これを伝え聞いた坂上田村麻呂が鈴鹿へやってきて鬼を弓で射ると、矢を受けた鬼は岩の上にころがり落ちて息絶えたという伝説だ。

この日が2月18日だったので、田村神社の厄除祭は2月18日を中心に3日間行われ、厄除けの符として矢が用いられるようになったという。弘仁2年(812)、あらゆる作物が実らず疫病が流行して世の人々が苦しんでいたので、弘仁3年正月に、嵯峨天皇の勅命で厄除大祭が執り行われたのがその始まりだ。この際、2月17.18.19日の3日間、まさに三日三晩にわたる大祈祷が行われたという。

田村神社にお参り

田村神社の神域はかなり広大で、深く高い樹林に囲まれている。

大きな銅の鳥居をくぐって、森の中の参道を歩いていくと、正面に舞殿が見えてくる。その奥に、拝殿と本殿がある。拝殿は、軒回りや天井下に花鳥の彫刻があり、規模の大きな立派な拝殿である。本殿は、向拝に牡丹と孔雀と鳳凰を彫刻してあり、三重県下にある江戸時代の社殿として注目すべき建築であると評価されていたが、築後260年余りが経過していたことから平成24年の御鎮座壱千弐百年の記念事業の一環として、平成23年に造替されたものだ。もちろん新しく造替された本殿も旧本殿を受け継ぎ、銅板葺き三間社流造の様式を取っている。

本殿の前には、厄落としの太鼓橋がある。

伝承によると、ある夜、田村大神が現れ、悪い年に当たったとしても災難を取り除くには、社殿前の川に節分の福豆を年の数だけ東に向かって流せば厄も流れると告げられた。これにより、節分の豆を自分の年齢の数だけ太鼓橋より境内を流れる御手洗川に落して厄除を祈念する信仰が広まり、「厄豆落し」が慣例となったということだ。
坂上田村麻呂は武芸に秀でた将であったことから、武家・武人からも信仰を集めてきた。とりわけ田村麻呂の末裔といわれる奥州一関藩・田村氏からは篤い崇敬を受けている。また、第一鳥居の横にある「田村神社」の石碑は元帥海軍大将・東郷平八郎(1848~1934)の揮毫、第二鳥居の近くにある「田村神社由緒之碑」は陸軍大将・宇垣一成(1868~1956)の揮毫によるものだ。

道の駅「あいの土山」のリニューアルオープンは2025年春

田村神社から国道1号を挟んだ向かい側に、道の駅「あいの土山」がある。

「あいの土山」という駅名は、「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と鈴鹿の馬子唄に唄われる一節に由来する。

県内で最初に道の駅として登録された甲賀市の道の駅「あいの土山」は、甲賀市土山町の国道1号線沿い、田村神社のまさに向かいにある。昭和56年に建設され、平成5年に県内で初めての道の駅として登録された。オープンから40年が経過し、施設の老朽化などのため現在の道の駅の西側に新しく整備されることになり、現在は工事に入っていて営業はしていないのでトイレだけお借りし、お隣のたこ焼き屋さんで小腹を満たした。

ちょっと変わったたこ焼きで、青のりが欲しいと言ったら、「かけないで食べた方が美味しいので青のりは置いていません」と言われた。

リニューアルされる道の駅「あいの土山」は、延床面積が2200平米、駐車できる車が100台といずれもi以前から3倍の規模となり、施設建物のほか大きな屋根のある全天候型スペースを設けて、地域の交流拠点として活用するという。新たな道の駅は、令和7年4月にオープンする予定だ。

駐車場も決して狭くはなかったが、この3倍となるというのだから、相当広くなる。

この道の駅では、土山で育てられたお茶や、地元で作られる「蟹が坂飴」をはじめ、地元の特産品が好評を得ていた。

オープンする頃は桜の季節だ。ぜひ再訪しようと思っている。