
写真は、吉田亨盛(こうせい)と仰られ鶴林寺の先代住職をつとめられた方です。彼は、私の高校時代の恩師(日本史を教えていただいた)でもありました(以降吉田先生)。
つまり吉田先生は、鶴林寺および真光寺の住職にあって、私の母校である明石高校の社会科教諭として教壇に立ってもおられたのです。
18年前に77歳で没されましたが、今からちょうど50年前の1975年、先生が45歳のとき、そのすばらしい声と、教科書には触れられていない日本史の底流を掘り下げて教えていただいた授業が昨日のことのように思い出されます。
教科書には鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府への変遷が淡々と書かれているだけですが、その背後でずっと続いていた律令政治、その時々の朝廷がやはりこの国の中央集権政治にあった、常にその根幹部分を深く掘り下げ、時代との適応ぶりをお話しくださった。
板書はほとんどなく、圧倒的な話力で、教科書を開くことなく、日本の歴史が頭に入ってくる、そんな吉田先生の授業にだけは惹きつけられていました。
誰しも一人ぐらい「恩師」と呼べる方がいらっしゃると思いますが、吉田先生は、私に「日本に生まれてきた意味」を教えてくださった、かけがえのない「恩師」です。
阪神淡路大震災で被災した鶴林寺を復興
その後吉田先生は真光寺と鶴林寺の住職を兼務されますます忙しくされておられたちょうどその時、平成7年(1995)に阪神淡路大震災が起こり、鶴林寺も大きく被災した。
吉田先生は、本堂建立後ちょうど600年になる平成9年までになんとか鶴林寺を復興しようと、地域の方々、地元企業を奔走して寄付を集め、そして見事に復興を果たされた。
西国薬師霊場、関西花の寺霊場、西国霊場など、さまざまな霊場に名を連ねる鶴林寺の復興は重大案件であった。西国薬師霊場49霊場会の一番が奈良の薬師寺、49番が鶴林寺の本山である比叡山延暦寺であることからも、鶴林寺の復興は重大案件だったのだ。

高田好胤薬師寺元管主・法相宗管長の最後の説法
そして、その西国薬師霊場49霊場会大法要が、復興果たした鶴林寺で執り行われるすることになった。そこには、重病で病院に入院されておられた高田好胤薬師寺元管主、法相宗管長がなんと病を推して病院から抜け出して駆けつけられた。
分かりやすい法話により「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」とも呼ばれ、そこから百万巻写経勧進の道を切り開いて金堂、西塔など薬師寺の伽藍の復興に道筋をつけるなど、薬師寺の再生に生涯を捧げられた歴史にその名を残す偉大な方である。
その高田好胤薬師寺元管主、法相宗管長が、気力を振り絞られ鶴林寺で最後の説法をなされた。説法後容体が悪化し、翌年旅立ってしまわれたが、薬師寺の本坊での説法ではなく鶴林寺での説法が最後の説法であったこと、そしてその説法の内容は、吉田先生の心に深く刻まれたことだろう。
吉田先生は、鶴林寺にて特攻隊を弔う
鶴林寺境内の一角に、特攻隊の碑がある。
地元中村屋旅館の宮田館主が旅館の継続を断念した際に吉田先生にこう陳情されたという。
「うちの旅館は特攻兵の皆さんを迎えては送り出してきたが、旅館を続けることが叶わなくなった。どうか鶴林寺で彼らを弔う碑を受け入れてくれないか」。
吉田先生はこの申し出を快く受け入れて慰霊碑の開闢法要を執り行った。その際には、生き残りの若鷲隊訓練生もたくさん来られ、その際に碑の左右に植えられた桜の木は、毎年美しい花を咲かせるようになった。

また、吉田先生が住職にあった時代には、観音様が盗難に遭うという一大事もあった。
悲嘆に暮れていた吉田先生に曾根崎警察から電話があり、盗まれた本体と台座の痕跡とがぴたり一致したため、観音様は鶴林寺に帰還したという。
本当に良かったね、吉田先生。
鶴林寺(加古川市)とは
鶴林寺は、高僧・惠便法師をしたって播磨を訪れた聖徳太子の命で創建された刀田山四天王寺聖霊院が始まりとされる。天永3年(1112)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたことから寺号が鶴林寺と改められている。
![鶴林寺 本堂・太子堂 | 鶴林寺 [兵庫県] | 国宝を巡る旅](https://kokuho.tabibun.net/img/spot/l/280603.jpg)

写真は、本堂。この建立は応永4年(1397)のことで、平安時代の和様から鎌倉時代初期の大仏様、禅宗様が導入された折衷様式の代表例とされている。
一方、写真下の国宝「鶴林寺太子堂」は天永3年に「法華堂」として建てられたが、太子信仰の流行に伴って「太子堂」とされ、礼堂が付け加えられた。


太子堂は、桁行3間、梁間3間、一重、檜皮葺、宝形造の建造物として、平安時代後期の藤原建築の美を今に伝えている。
江戸時代のものといわれる「鶴林寺縁起」に鶴林寺の始まりに関する記録が残っている。そこには「蘇我氏と物部氏の争いを避け、高麗出身の僧・恵便(えべん)は播磨の地に身を隠していた。聖徳太子はその恵便の教えを受けるためにわざわざ播磨を訪ね、後に3間4面の精舎を建立させ、刀田山四天王聖霊院と名付けた」とあり、その崇峻天皇2年(589年)が鶴林寺の始まりとされている。

太子堂の中に鎮座ましますこのお方こそは、聖徳太子であろう。
