人間はなんで働くの?-9  「メンツ」→「権力欲」の無限ループ

ロシアと同盟関係にあるベラルーシの大統領選挙で、中央選挙管理委員会は、現職のルカシェンコ大統領が得票率およそ87%で当選が決まったと発表しました。反対勢力を弾圧してきた強権的な統治が、なんと7期続くことになります。

しかし、いよいよ彼の末路は悲惨なことになることも確実になったと言えます。

なぜそう言えるのか。政治に起こることは企業にも起こると言われますが、政治の歴史が証明している権力者の末路はただ一つ、「悲惨」でしかないからです。

ルーマニアの独裁者・チャウシェスクの末路

かつてヒトラーから世界を救った男・ウィンストン・チャーチルは、ナチス・ドイツの独裁者に対して武力をもって断固たる態度で臨むべきであるという考え方を持ち、安易な融和策を採らないという強硬な立場を貫きました。

結果としてヒトラーから世界を救っと称された彼は、かつて、政治のあり方についてこう言っていました。

「民主主義は最悪の統治形態だ。他に試みられたあらゆる形態を除いては」。

ウィンストン・チャーチルが残した言葉の意味

この言葉の全文はこうである。「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

私たち日本人には馴染みのない、いかにもイギリス人らしい言い回しだが、要するに「理念上はもっと望ましい政治形態があるけれども、歴史上で実在したのは民主政治とそれよりもっと悪い政治形態だけだ」ということを、チャーチルは言ったのだ。

アリストテレスの理想はいまだ実現せず

ところが人類史の大半で、民主主義ならびに民主政治はあまり良いイメージを持たれてこなかった。

古代ギリシャの時代、アリストテレスは統治者の数(一人/少数/多数)と目的(自分のため/みんなのため)によって、政治形態を3×2=6種類に区別したことは有名だ。このうち多数者が自分たちのために統治を行うタイプが民主政治で、彼はその良し悪しでこの6種に順位を付け、民主政治を第4位としている。

6つのうちの第4位ということは、プロ野球で言えばクライマックスシリーズに行けないBクラス。では、彼が民主政治より良いとしたAクラスの政治形態はというと、王政、貴族政、共和政の3つである。そして、その中で彼が最高としたのは支配者がみんなのために統治を行う「王政」だった。確かに小田原評定で何も決まらない民主政治よりも、一人の「名君」が即断即決で課題を解決したほうが効率良さそうではある。

人々にとってもっとも「マシ」な政治形態が民主政治

ただ、アリストテレスの理想は、未だ実現したことがない。一人または少数のリーダーがもっぱら国民全体のために統治したことは、人類の歴史上、一例とて存在しないのだ。逆に、ひとたび独裁者や少数のエリートが「自分のための支配」に走った例は多数。代表例はヒトラーやスターリン、ムッソリーニ、チャウシェスク、フセイン。歴史を遡っていくとそれはもうキリがない。

独裁者が現在生きている例でもプーチン、習近平、そして冒頭に紹介した、自らを「ヨーロッパ最後の独裁者」と嘯くベラルーシ大統領アレクサンドル・ルカシェンコ。いかなる独裁者も必ず死ぬが、自然死できる者は極めて少なく、そのほとんどは失脚を伴う他殺、つまり殺されて生涯を終える。

民主政治は、論理的にあり得る政治形態としては「最善」と言えないかもしれない。しかし、実在し得る政治形態の中では「もっともまし」なのだ。にもかかわらず、今なお民主政治よりも良い政治形態を追求できると確信している、または、本当はウソと知りながらもそのように標榜する人たちがいるものだから、民主政治の世の中にある人は世界の中でたった3割にすぎない。

残りの7割は、習近平やプーチン、ルカシェンコ、金正恩(キムジョンウン)らの独裁のもと、もしくは、その他有象無象の政治形態の下で、幸せとは程遠い日々を生きている。

Mentsu Workの源泉と展開

権力欲の最終駅は悲惨なものであるが、人は権力を求めてやまない。論語には「死生命有り、富貴天に在り」とあるが、偉くなるかどうかは本来、天の配剤と考えるべきなのである。

私自身は、権力を手にしたいと思ったことなど、これまで一度もない。しかし、若いころは、結果として偉くならなければこの会社でやりたいことができない、つまり意味はないという気持ちはあった。心ならずもこれはMentsu Workの源泉として多くの人に芽生える気持ちではないだろうか。多くの人はそれほどメンツや権力を大切にしないため、自分の価値観によってMentsu Workの泥沼にはハマっていかないが。

会社で「偉くなる」というのは、人間的偉くなるとは全く別物である。むしろ負の相関さえあるかもしれない(笑)。とにかく会社で偉くなるためには与えられた仕事に一生懸命取り組むだけではダメで、突出した業績を残さなければならないということになる。

それができない人間は、上司のご機嫌取りとゴマすりばかりしていた。しかし、仮にそれによってバカな直属の上司から引き上げられたとしても、まともな経営者がそんな社員をさらに引き上げはしない。結局、権力志向のイエスマンであるだけで権力を手にすることはできないだろう。

会社で「偉くても」全然「偉くない」Mentsu Worker

つまるところ私は、大きな組織で権力を握ったことがないので、それを得るノウハウは知らない。

逆に、自分の努力や能力が正当に評価されない苦しさは十二分に知っている(笑)。しかし、知っているだけで、直属の上司に相談できない何人もの後輩たちから相談された時に、即効性のあるアドバイスは一度もできなかった。

「たいへん苦しいだろうが、今の状況を受け入れて、前を向くしかないんじゃないか。腐らずにやるだけやって、辞めるのはそれからでいいのでは」と。

何のアドバイスにもなっていないかもしれないが、清国の政治家だった曽国藩だって、冷遇に耐え、苦しみに耐え、忙しさに耐え、暇に耐えなければ大事をなすことはできないと言ったわけで、本当にそれしかないと思う。全ての人のすべての想いが理想どおり進むわけなんてあり得ないのだから。

もちろん上司に意見をしてもいいが、その場合は上司の人間力を見極めておかないと、たいがい逆ギレされて不幸なことになる。私の場合は残念ながら自分の出世しか考えていない上司だったので、辞める決心をしてから最後っ屁を食らわせてやったが。すべて自己責任と思える人は、好きにやったらいいと思う。

組織の中で「偉くなる」ことはMentsu Workerには容易いかもしれない。しかし本当に「偉い」存在であるためには、少数の部下でも、彼らのためになるのは大変なことだ。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば人は動かじ」といったのは山本五十六だが、私にとっては到底できることではなかった。

(つづく)
この記事は、連載9回目です。いよいよ仕事の目的の本質に迫ります。引き続き読んでいただければ幸いです。