人間はなんで働くの?-15 社会に貢献したい、ナイスな存在でありたい

自分の仕事も、事業を成し遂げた結果も、世の中にとって「ナイス」でありたい。そして、次世代にも貢献したいという目的で仕事に邁進する人がいらっしゃいます。

そんな人たちを私は「Nice worker(ナイスワーカー)と呼び、彼らの働く目的を「Nice work(ナイスワーク)」と名付け、ビジネスマンの最高ステージと位置付けています。

ただ、サンプルを見直していると、この最高ステージを一括りにするには、率直に申し上げてやや無理があると感じました。

そこでまず、自分の業務をささやかながらNice workで完遂した個人をファーストステージ。

そして、業界や世の中への貢献が評価に値すると思われる企業経営者をセカンドステージ。

そして最上位に、世の中を変えるほどの貢献があり、オンリーワンの貢献を後世にバトンを渡して継続し得た、まさに偉人とも言える人物を、ファイナルステージとさせていただきます。

以下、この3つのレベルに、分けて述べていきます。

目的⑨顧客にも世の中にも「ナイス」でありたい、貢献したい(世の中軸)→ Nice Work

Nice workの3つのステージの仕分け基準

2000のサンプルのうち、Nice Woeker に属するサンプルは1割に当たるおよそ101名いらっしゃったが、この3段階に仕分けした結果、ファーストステージにおよそ74人、セカンドステージ25人、そしてファイナルステージに到達されたのは2人。あくまで私の持つサンプルの中だが、出現率は0.1%という極めて稀なお二人ということになった。

「三方(さんぼう)よし」の原点 

この言葉は、近江商人の言葉として有名だ。

三方よしとは「売り手」「買い手」「世間」の三方にとってよい取引をしろという意味だが、その起源としては、『売り手によし、買い手によし、世間によし』を唱えた伊藤忠の初代・伊藤忠兵衛とされ、伊藤忠の商売心得のルーツとなってもいる。

近江商人独自の商売のスタイルを長年続ける過程で到達した精神が『三方よし』の源流には流れていて、それを最初に明確に言語化したのが、初代伊藤忠兵衛だった。

日本で『三方よし』を『創業の精神』とまで言い切れるのは、この伊藤忠兵衛を創業者に持つ伊藤忠商事と丸紅だけである。

社会人駆け出しの頃、私は上司からよく「三方よしの前に、まず、客を思え」と諭された。衣類を売り歩いた近江商人の「その国の人々が皆気分よく着用してもらえるよう」という言葉は、「その国の人々」すべてを客と考えろとも受け取れる。

他国へ行ったら自分以外はすべて客であり、そう思うと、常に居住まいを正せということに繋がる。三方よしの起源には、「客はすなわち世間だ」という原点がある。

「三方(さんぼう)よし」の実践者とは

ただ、商人とは売り手、買い手と立場が固定される存在でもない。商社の人間は品物を仕入れて、売る。つまり、売り手でもあるけれど買い手でもあるのだ。さらに商人はその取引が正しいか正しくないかという第三者(世間)の目を持っていなくてはならない。

つまり三方よしという言葉は3人の人間がいる前提の言葉として解釈されているが、現実の商人はひとりで売り手、買い手、世間という3つの立場を経験しているわけである。

するともうひとつの意味が生まれてくる。

それは「自分だけを起点にして商売を考えない。自分だけが儲かる仕事にしない」という意味だ。

私は、これを理解した上で、そうでありたいと仕事に取り組み、そしてそれができている人を Nice worker に仕分けた。

エビデンスは多数あるが、典型的なNice worker として、小出圭吾氏を紹介しておこう。

カメラマンとしても、人としてもNiceな人

カメラマンって素敵な人が多かった

私は、実に個性的で魅力的なカメラマンの皆さんと一緒に仕事をさせていただいた。

「写真」については学生時代から勉強してはいた私だが、いざ仕事を始めてみると、たちまちプロのカメラマンの方々の技術とプロ意識の高さに圧倒された。プロフェッショナルとアマチュアの「レベルの違い」を思い知らされたので、以降は仕事で同行させていただくことは得難い機会、貴重な時間となった。少しでも学ぼう、盗もうと、彼らの仕事ぶりをガン見していた毎日だったことを思い出す。
彼らの多くは私よりちょうど一回り上、12歳前後の先輩にあたるいわゆる「団塊の世代」の方々ばかりだったが、みなさん誰一人として似通っておられない、まさに個性の塊のような人たちばかりだった。

今なら典型的なパワハラ、時には鉄拳あり足蹴りありでアシスタントをシゴいていたスタジオOZの山下さん、強面で難波写真道を地でいくスタジオ5アングルの山敷さん、美大志望で造形の基礎を学び卓越した美意識でブツ撮りの神様と崇められたスタジオKPの蔵本さん、人物を撮らせたらその魂まで写し込む人物撮影の酔いどれスナイパー原寛さん、共産主義革命の夢破れカメラマンに転身し、末期の膵臓癌を自力で消し去って今はヨット上の人となった中村昇治さん…。

男は黙ってシャッターを押した

そんな多士済済の中で、小出圭吾さんは実に物静かで穏やかな紳士だった。仕事を離れて彼がシャッターを切る対象には、いつも彼の優しい眼差しが向けられている。

相手が誰であろうと、それができの悪い新入社員であろうと、どんな無理難題を前にしても、彼の低い物腰と優しい言葉遣いは全く変わらず、当時から「三方よし」が確立しておられた。際立っていたことは、寡黙だったこと。黙ってこれぞプロという仕事を納品してくださった。

当時彼はまだ30路半ばだったが、時間を含め約束を守らなかったことは皆無。少しでも怒ったり気色ばんだりした彼を一度でも見た人がこの世にいるのだろうか。とにかく「紳士」を絵に描いたような人だった。しかし私の目は節穴ではない。ちゃんと察していたのである。

表には現れていなくても、彼の内には、別の格納庫があって、そこにとてつもない「エネルギー」が蓄えられているのではないか、と。

小出式2段ロケット発射

2024年3月16日。私は、小出さんのアジトが2つもあるという、奈良と三重の県境にある深野村を訪ねた。

私の見立ては当たっていた。
小出さんの2段ロケットは、35年前、43歳にして早くもその2つ目に点火し、新たな軌道へと向かっていたのである。
この地に購入した山林を切り開き、まさに「北の国から」の黒板五郎のように、小学生の息子さんたちと家を手作りし始めた小出さん。仕事の合間を縫って、しかも建築知識ゼロからの取り組みゆえ完成まで10年を要するも、ついに見事なセカンドハウスを完成させた。

さらに、その近くに農地を借地し、もう一つの活動拠点として「深野ファンクラブぴあ」を立ち上げていた。今や「深野ファンクラブぴあ」は、37家族100人が暮らす深野村になくてはならない存在となり、障がい者自立支援活動の一環としても機能している。

カメラマンという本業の傍ら、障害者の自立支援にも尽力しておられたことを知って、私は「この人、どこまでNice workerやねん!」と、思わず心の中で叫んだが、彼のNice workはまだあった。

災害被災地のためにも

小出さんは、東日本大震災の際にはボランティアとして現地に入り、被災者の人たちの津波に流された写真の修復再生や、今後の防災対策に必要となる記録としての現地記録の仕事にも無償で参加した。

そして2024年に能登地方を襲った大震災の後、たまたま50年前に撮影した能登地方の街並みなどの膨大な写真を、被災地の復興や被災者支援の一助とすべく、早くも被災地能登の各自治体に無償提供を申し出たのだ。
ボランティアだけではない。夢であったエベレストにも行ったというから、「第二の人生」への視野も世界レベルに広がっておられる。お金については「食べていければそれでいい」という考えで、失礼ながら、資産は全くないのだ。

社会人ペーペーの時代には、「プロフェッショナルとはどういう存在か」ということを私に教えてくださった小出さん。そしてセカンドライフを歩み始めた私に、今は「三方よし」で生きるということはどういうことかを、背中で見せてくださっている。

(つづく)

この記事は、連載第15回です。だんだん凄い人が登場していきます。

まだまだ続く連載に、乞うご期待!