与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑めぐりから、道の駅「シルクのまち かや」へ(トイレ○仮眠○休憩◎景観○食事○設備△立地△) 

兵庫県との県境近い京都府北部にある与謝野町は、鉄幹・晶子夫妻の苗字「与謝野」のルーツ。道の駅「シルクのまち かや」には、ここが鉄幹の父・与謝野礼厳の生誕の地であったことにちなんで歌碑が立っている(礼厳の本職は僧侶)。

与謝野町、旧加悦町には鉄幹・晶子夫妻を始め多くの歌人・俳人が訪れて歌や句を詠んだことで知られ、その名残は歌碑や句碑といった石碑として現存しています。その歌や句が詠まれたであろう場所に存在するものも多く、鉄幹・晶子夫妻の歌碑や句碑を訪ね歩けば、二人が見た風景を追体験できます。

二人だけでなく、著名な歌人・俳人たちの歌碑や句碑は、与謝野町全域にあります。鉄幹・晶子夫妻の歌碑があるのは、日本三景 天橋立を一望できる「大内峠エリア」、「板列八幡神社」、そして与謝野文学の発信拠点であり芸術家のアトリエが立ち並ぶ「江山文庫エリア」です。

歌碑・句碑所在地図

与謝野町で、鉄幹・晶子夫妻が読んだ歌

<大内峠エリア>

海山の青木が中に螺鈿おく 峠の裾の岩瀧の町 (与謝野晶子)

たのしみは大内峠にきはまりぬ まろき入江とひとすぢの松 (与謝野鉄幹)

<板列八幡神社>

御柱にわが師の御名の残るにも ぬかづき申す岩滝の宮 (与謝野鉄幹)

海の気と山の雫の石濡るゝ 八幡の神の与謝の御社 (与謝野晶子)

<江山文庫エリア>

いと細く香煙のごとあでやかに しだれざくらの枝の重る (与謝野晶子)

飛ぶ雲に秋の日ひかりそのもとに 大江の山の盛れるうず紅 (与謝野鉄幹)

こうして、与謝野町では夫婦競い合うように歌を読んでいたのに、やがて晶子は絶好調、鉄幹は絶不調と明暗を分けていくのだった。与謝野鉄幹に焦点を当てて、夫婦の歩みを振り返った。

-新世界をわが手にて開きたく候  鉄幹-

与謝野鉄幹(本名、寛)は、明治6年(1873)、西本願寺支院、願成寺の僧侶であった与謝野礼厳と商家出身の母・初枝の間に、京都市の岡崎で生まれた。明治16年(1883)、大阪の安養寺・安藤秀乗の養子となる。1889 年に西本願寺で得度の式をあげた後、山口県都濃郡徳山町(周南市)の寺にいた兄の赤松照幢を頼り、その寺が経営していた徳山女学校の教員になる。

同寺の布教機関誌の編集も始め、1890 年に「鉄幹」の号を用いるようになった。翌1891 年には、養家を離れ、与謝野姓に復している。

赴任先の女学校でも、歌人としても「ますらおぶり」を発揮

さて 徳山女学校では国語の教師をしていた鉄幹だが、その本領を発揮するのは早かった。まず、生徒の浅田信子に手を出したのだ。鉄幹の本領とは、公私混同の「ますらおぶり」。要するに最悪の「女癖」である。鉄幹は赴任した先で、決まって女生徒と「そういう関係」になった。そして、その都度子供が生まれている。当時、避妊具がなかったのかもしれない…てか、そもそも仏門に入った人間がよくもそんなことを繰り返せたものである。

女学生をはらませ徳山女学校の教師をクビになった鉄幹は、信子と結婚。上京して出版社に入り、副業として跡見女学校(現・跡見学園)で教鞭をとるようになった。それにしてもまた教職に就くとは、懲りない男である。採用する方も採用する方だが、当時はその辺の申し送りはなかったようだ。

生活が落ち着いて性欲だけでなく創作意欲も湧いたのか、鉄幹は『東西南北』『天地玄黄』といった歌集を続けて出版する。この頃が歌人としての最盛期で、その作風は「ますらおぶり」=率直で素朴と絶賛された。

1900年に『明星』を発刊 、8年後100号で廃刊

一方、私生活ではやはり本領の「歪んだますらおぶり」は健在。この時期、鉄幹は早くも最初の妻・浅田信子と別れ、林滝野という別の女性と同棲していたが、これまたかつての教え子だった。信子からすれば「世間や学校から後ろ指を指されながらついてきた男が、自分を捨てて別の(元)女生徒と暮らすなんて、普通は耐えられないし、よく刃傷沙汰にならなかったものである。その頃3人目の伴侶となる晶子出会うが、これまた不倫だった。懲りないというか、ドスケベというか、もはや病気だろう。

鉄幹は晶子の歌才に惚れ込んだというが、また手を出して、滝野と離婚して晶子と結婚する。仕事の面では月刊文芸誌『明星』を創刊。翌年に晶子の歌集『みだれ髪』を刊行したことで、同誌は充実し、晶子の成功で明星の知名度も上がった。しかし明星は第100号で廃刊する。創刊は明治33年(1900)年、あまりにも有名な晶子の「君死にたまふことなかれ」が明星に掲載されたのが明治37年(1904)、そして廃刊は明治41年(1908)だった。

鉄幹自身スランプに陥り、選挙に出馬して落選

鉄幹は極度のスランプに陥った。与謝野夫妻の活動は、まるで光と陰。晶子が輝けば、鉄幹は日陰になった。妻が成功して夫がダメになる例は、芸能界などにも散見されるが。まあ何人もの女性を苦しめた鉄幹が最も身近な妻の成功によって悩む……というのは、因果応報であろう。窮鼠猫を噛んだのか、鉄幹は地元・京都で選挙に出馬。選挙といっても地方議員の選挙ではない、第12回衆議院議員総選挙、国政選挙に無所属で打って出たのだ。が、普通に落選。まさか当選するとでも思っていたのか、落選後はまったくやる気がなくなって、生計は晶子が立て、鉄幹は完全にヒモとなる。

晶子との間に、なんと12人の子

ただ、やる気をなくしたとはいえ、やることはやっていて、晶子との間にはなんと6男6女、12人の子をもうけている。前妻、前々妻と併せて14人、「鉄幹」というのはあそこのことだったか(失礼)。

その後、ちょっとやる気を取り戻した鉄幹は、慶應義塾大学文学部で13年間教鞭をとった。この間にまた本領の女癖が出たかどうかは定かではなく、水上滝太郎、堀口大学、三木露風、佐藤春夫ら文人を「育てた」というが、彼らはみな慶應の文学部である。彼らは入学時にすでに育っていて、自力で開花して行ったというのが正しい言い方のだろう。

センバツの入場曲にも使われた「爆弾三勇士」

鉄幹は亡くなる三年前、「爆弾三勇士の歌」という物騒なタイトルの歌詞公募に応じて一等入選を果たしている。当時「センバツ」こと選抜高等学校野球大会の入場曲にも使われたため、鉄幹は死ぬ前にかろうじて再度脚光を浴びることができた。

「爆弾三勇士」とは、満州国建国で緊張が高まっていた中国で起きた陰謀がらみの軍事衝突で、爆弾を抱えて中国軍に突撃し、突破口を開いたという三人の兵士のことだ。思想家でもあった晶子だが、彼女もまた、戦争に賛成するような歌を詠んだことがある。夫婦ともに世の流れには逆らえなかったようだ。

鉄幹は、気管支カタルがもとで慶応大学病院にて逝去、享年62歳。晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」と、追悼の歌を捧げた。

道の駅「シルクのまち かや」は、絹とちりめんの里

与謝野夫妻ゆかりの地にある道の駅「シルクのまちかや」に寄った。宮津与謝道路の与謝天橋立ICから国道176号線を通って南に9キロ。この場所は現在与謝野町だが、かつて加悦(かや)町であったので、駅名の一部に「かや」とある。

その旧加悦町は、「絹とちりめんの里」。「ちりめん」とは、生地に細かい凹凸状の「シボ」と呼ばれる模様を付けた織物で、 加悦町で生産されていた「丹後ちりめん」は、鉄幹・晶子夫妻が生きた明治時代は日本を代表する織物だった。 町の中心部の、伝統的建造物が並ぶ通りは「ちりめん街道」と呼ばれ、ちょっとした観光地になっている。

駐車場、トイレ、休憩環境

道の駅の駐車場は、こぢんまりした施設の規模からしてちょうど良い広さだと感じた。

トイレは綺麗に掃除していただいて、気持ちよく使わせていただいた。感謝。

休憩環境だが、とてもリラックスできる。まず、立派な歌碑が目を引くが、これは与謝野鉄幹の父親である与謝野礼厳がこの町出身であることから彼が詠んだ歌を刻んで建てられたもの。鉄幹の父が僧侶だとは知っていたが、歌も詠んでいたとは。血は争えないというが。もしそうならば、父親である与謝野礼厳もドスケベだったのだろうか(失礼)

野菜、絹製品、佃煮、漬物を中心に特産品を販売

農産物の直売は、青物を中心にとても充実していた。

物産館では、シルクのソックス、絹入りのハンドタオル、絹の洗顔パフ等かつて町の特産品であった(今も?)絹製品を販売している。

食品では、京都北部地区に古くから伝わる「麦ポン」「玄米ポン」や、「釜炊き佃煮」「山椒ちりめん」「松茸昆布」「葉唐辛子」「田舎もろきゅう」、漬物では「ゴマ高菜漬け」「山くらげ」「高菜漬け」「おばあちゃんの麹漬け」等が販売されている。

レストランは、

シルクソフトクリームはすぐ溶けるが抜群に美味い

シルクパウダーを配合した「シルクソフトクリーム」が抜群に美味い。シルクソフトは建物の奥のレストラン入口付近で販売されていて、ソフトクリームを渡されたら、建物の外のベンチへ。このソフトクリーム、溶けるのが早いので、もう溶け落ちそうになったのを慌てて舐め、また舐めての繰り返しで、写真を撮る間もない。すぐに「汁」になるからシルク?知らんけど。あっという間になくなってしまったが、味は抜群だった。ベンチから加悦SL広場なる有料施設が見えたが、現在はどうやら閉館しているようだ。