一丁23円の豆腐を売っていた大蔵市場の豆腐屋さんと、死んだドンキーが言いたかったこと

60年前、まだ小学校3年生の秋。私は「大蔵市場」の近所、歩いて1分、同じ大蔵中町にある借家に引っ越してきました。この大蔵市場には、学校から帰ると毎日のように「豆腐」を買いに行かされていたので、当時の市場の様子は、はっきり覚えています。

もちろん豆腐の値段も。その豆腐屋さんで、豆腐一丁は23円でした。記憶に間違いはありません、これが昭和40年(1965)の豆腐の値段だったのです。

ちなみに私は今も明石市民で、明石にはこの頃から京都の大学に行くまでの11年と、帰ってきてから2025年で3年、通算で14年間在住。これまで福山(広島)で6年、淡路島で3年、神戸で20年・京都で14年(神戸と京都は重複年数あり)、大阪で9年、東京で6年暮らしてきたので、名実ともに京都を抜いて「第二の故郷」と言える街になりました。

その、明石での生活が始まったころから京都の大学に行くために明石を出るまでの11年間に、「友達になってくれたけど死んでしまった」友人の思い出を書いていきます。

大蔵市場、焼失前の消失

その大蔵市場が、2017年10月25日午後3時50分ごろから火が出て、周囲の住宅まで燃え広がる大火事になり、市場は全焼した。

私はたまたま火事の数年前に、懐かしの大蔵市場を訪ねていたが、多くの店舗が消失以前にシャッターを下ろしていた。私が通い詰めた豆腐屋さんも、すでに廃業されておられた。「焼失」する前に「消失」していた店舗が多かったのだ。

消えていく豆腐店

豆腐の製造事業者(製造販売している豆腐店)が最も多かったのは昭和30年代から40年台の初めということなので、まさに私が大蔵市場におつかいに行っていたころだ。多い時には全国に5万件以上もあった豆腐事業者だけれど年々少なくなって、今では10分の1近くまで減っていると言うことだ。

2024年には豆腐店の倒産や廃業が急増したことが、帝国データバンクの調査で明らかになっている。豆腐店の倒産(負債1000万円以上の法的整理)と廃業は年間60件を超え、前年2023年の年間最多記録であった46件を軽く上回ってしまった。

日本の食卓を支えてきてのあまりの理不尽

豆腐店の経営環境は、輸入大豆の価格高騰、電気・ガス代、物流費、容器代の値上がりなど、いつの時代も何かのコストの増加があって常に圧迫されてきた。豆腐は長い間「物価の優等生」として日本の食卓を支えてきたため、いつの時代も値上げが許されない?庶民の味方だったからだ。

それになお豆腐店の多くはコストの上昇分を販売価格に反映させることができず、半数以上が赤字経営に陥っていると言われている。

ドンキーは毎日夜中に起きて休まず働いた

ドンキーも、そんな豆腐製造業を経営する一人だった。明石の「田中食品」を兄弟で継いで、長年豆腐を毎日休まず作り続け、毎日深夜から朝にかけての配達を休みなく続けてきた。豆腐製造業の朝は早い、というか、ドンキーは毎日夜中に起きて働いていた。

前列左のオレンジ色の服を着ているのがドンキーだ(後列右で拳を突き上げているのが私)。高校を卒業してから、30代、40代、50代と、大小様々な同窓会で私たちはしばしば集まった。

ドンキーはいつもクーラーボックスいっぱいに詰め込んだ豆腐を土産に、皆勤賞で同窓会や小宴会に現れ、そして、必ず宴会途中から爆睡。なぜって、休みなく毎日寝不足の上、深夜からの配達が待っているからだ。朝方まで飲み歩いていて、トラックのクラクションに振り向くと、彼が運転席でにっこり笑っていたことも何度かあった。

ドンキーはなぜ死ぬことを選んだのか

そんなドンキーが、自ら命を絶った。

彼は生前、私が経営コンサルタントをしていると知っていたからだろうか、会うたびにいつもこうぼやいていた。

「豆腐は日持ちがせえへんやんか、せやし、休みないねん。スーパー(などの小売業者)からの値下げ圧力もすごいねん。安価なプライベートブランド(PB)つくるわ、大手メーカーによる大量生産品をちらつかすわ、とにかく無理な値段を要求されてる。どんなに経費を削っても、売上が経費を上回るのはムリや。商売続けるだけ、借金が増えていくばかりやねん」と。

しかし親の代からの、長年の「家業」である。私が毎日大蔵市場で豆腐1丁を23円也で買って帰っていたその時代には、親御さんはきっと少しは儲かっていた、そんな時代もあっただろうし、ドンキーもそれを見ていたはずだ。でないと、親が兄弟に継がせるはずがないし、兄弟だって絶対に儲からない商売を継ぐはずもなかったのだから。

政府が公表している食品価格の推移を調べた。私が大蔵市場でおつかいをしていたころ、昭和40年(1965)と、ほぼ60年後の令和6年(2024)で、食品の価格がどれだけ上がったかを見てみよう。

私が朝いただいた食パンは6倍、牛乳は13倍。

昼ごはんはアンパン12倍、コーヒーが8倍。外食したとしてうどん・そばが15倍。

夕食は肉じゃがと湯豆腐、ご飯をいただいた。白米4,2倍、ジャガイモ8倍、牛肉6,5倍、豆腐は3,5倍。

こう見てみると、豆腐がもっとも値上がりしていない。しかも、牛乳のように加工工程があってコストアップ要因が多いにも関わらず、だ。「物価の優等生」ぶりは突出している。逆に言えば、昭和40年代の「利幅」は今よりは大きかったと推察される。

毎日休まず働くのは同じで、だんだん儲からなくなる苦しみ

ドンキーに最後に会ったのは、お互い還暦を迎える直前。気のおけない連中が集まったプチ同窓会だったが、この日もいつものように豆腐持参でやってきて、そして宴会途中で爆睡し、二次会には行かずに帰って行った。数時間後には工場からトラックを出し、夜明け前にはスーパーなどへの配達を終えたはずだ。

この最後の出会いから20年ほど前、ドンキーの工場に遊びに行った時のことが思い出される。車が趣味の彼は、倉庫には愛車を一台、そして、工場の壁沿いにびっしりとミニカーを展示して、自慢げに私に見せてくれた。その後、一緒に大蔵海岸に行ったが、その時には大好きな車の話が多かったので、この頃はきっとまだ商売はなんとかなっていたのだと思う。

豆腐屋、市場の「ライバル」の出現

ドンキーの親御さんも60年前はしっかり利益を取れていたのではないだろうか。同じ頃、私が毎日おつかいに行っていた豆腐屋さんも、大蔵市場全体も、活気に溢れていた。西の方には、JR明石駅中のステーションプラザ、駅の南には明石デパートもあり、そして魚の棚…も。すくなくとも60年前は、そのどれもが棲み分けできていて、それぞれの役割を果たせていた。

しかしその(明石駅と大蔵中町の)間にフタギ(スーパー)ができ、同じスーパーが北には太寺センター、東には朝霧センターができて、次第に客をとられるようになり、そしてダイエーの明石駅前進出は私が中学に入学した頃だったと記憶しているが、さすがにここで、大蔵市場はトドメを刺されたように思う。

競争の果てに勝ち残ってもやはり消えて

そして、コンビニやDRUGSTOREなどの新業態も次々に現れる。体験で言えば、私自身は小3のときには大蔵中町で毎日のように豆腐一丁のお使いに行っていた。小4のときには大蔵中町から急坂を登りきったところに山を削ってつくった台地「東野町」に移り住み、できたばかりの太寺センターにお使いに行くようになった。

中学では反抗期でお使いには行かず、駅前のダイエーの上階にあったゲーム機で遊びまくっていたが、高1で「大久保町高丘」に移り住んだころにはなんとか反抗期を終えていて、これもまたできたばかりの「モールおおくぼ」というスーパーと専門店が共存する商業施設で、買い物の手伝いは復活していた。そして、いつも。豆腐だけはいつも買った。

しかし、私が10年ほどそのどれもが、今やもうない。商業施設内の豆腐屋さんとともに、すべて姿を消した。ダイエーが明石に進出した時は、周囲の個人商店や明石デパートまでどんどんつぶれたが、当時独り勝ちを謳歌したその中内ダイエーも、今は跡形もなく消えてしまった。

大蔵市場やその中にあった豆腐屋さんをはじめ、勝ち残っていくものに潰されたものたち。そしてドンキーはじめ、言いたいことを胸に秘め死んでいったものたち。彼らがもしこういう顛末を見たら、何か言っただろうか。