ノンフィクション「餃子の王将殺人事件」 〜加藤一族V.S.大東隆行V.S.餃子大王〜

私は、神生 六、探偵だ。

ある人の依頼を受けて、2013年12月に起こった未解決事件「餃子の王将前社長・大東隆行殺人事件」の全容解明という厄介なことに首を突っ込むことになった。探偵には守秘義務があり、まだ依頼者の名は明かせない。

というわけで事件を調べ始めたわけだが、現在私が「臭い」と睨んでいる線は、4つある。
一つはズバリ、越生康之ではないかと。彼は学生時代に「餃子大王」の異名をとった人物だが、「王将」への「出禁」をめぐってガイシャと大揉めしたたことがある。

写真は、八坂神社の境内に1981年11月の秋の日、一日限定で鎮座ましました「餃子大王」の姿だが、越生康之はもちろん人間だ。まず、この人物は、かなり臭い。相当臭い。臭い臭いごめん臭い、そのぐらい臭う。そういえば、彼はチャーリー浜に似ている。ごめん臭いはずだ。

その越生康之が若くして「餃子大王」となったその歩みに、その過程で、餃子の王将1号店の店長(その後社長)大東隆行氏を相手に繰り広げられた壮絶極まる「大バトル」があり、その後彼は大東から出禁を喰らっており、その際大揉めしていて、そこに十分な「殺害」の動機が存在すると。私はそう睨んでいる。
しかし、厄介なことに、臭いと思われる人物は、他に何人もいる。
そんな中で、私は第二の線、第三の線、そして第四の線。私は一つ目の線を含めて4つの線に絞っているが、とにかく実行犯が闇の世界の人間であり、彼にガイシャの殺害を指示した動機のある人間がウヨウヨいる。警察の捜査が難航するのも無理ないことかもしれない。


2013年12月に大東氏が殺害されてから12年目を迎えてなお未解決の、この難事件。

彼はなぜ殺されなければならなかったのだろうか。
ヒットマンに、殺害を命じたのはいったい誰か。
これは、探偵・神生 六の、犯人に肉薄する「短編ノンフィクション&サスペンス小説」である。

衝撃のラスト。

最後まで、クサすぎて息をもつかせない。

大東隆行死す

2013年12月19日は、未明から冷たい雨が降っていた。

京都の冬は寒いが、本格的な寒波到来はまだ先だ。

なので、雪にはならない、しかし冷たい雨が、未明から降りしきっている。

晴れているなら空は白み始めてくるのだろうが、熱い雲が立ち込めていて空はまだ真っ暗な午前5時半、大東隆行は自宅を出て、社長を強める王将フードサービス本社に向かっていた。

カーラジオから流れてくるクリスマスソングを聴きながら、大東は呟いた。

「一年はあっという間やなあ、もうクリスマスか。寒いはずやで。」

「でも今日はこんだけ雨降っとるから、水撒きはせんでええな。」

大東が運転する車は、京都市山科区の王将フードサービス本社前の駐車場にゆっくり滑り込んだ。
5時44分、いつもの時間だった。

大東はエンジンを止め、運転席のドアを開けて、車を降りてドアを閉めた。そしてドアロックをする。
誰かが、近づいてきた。

「パン、パン、パン、パン!」

立て続けに、雨を切り裂くように乾いた4発の銃声が響く。

大東はゆっくりと、車の横に崩れ落ちた。

第一発見者は、大東の友人・富岡正和

午前5時45分。京都市山科区の王将フードサービス本社前の駐車場で、大東隆行前社長=当時72歳=が4発の凶弾に倒れた。

1時間後、夜が明けきらない午前6時45分ごろ、携帯電話を握りしめて倒れている大東隆行を見つけたのは、京田辺市に住む、大東の友人・富岡正和だった。大東の趣味であるハトレースを通じて知り合い、王将本社の屋上で小鳥の世話をしていた。

「心筋梗塞やろか。えらいこっちゃ。」

富岡は焦って心臓マッサージを繰り返したが、既に瞳孔は開き、大東さんの体は冷たくなっていた。よく見ると、左の腹部にパチンコ玉ほどの穴がいくつか空いているのが見えた。

「ピストルや」。

それは、撃たれた痕だった。

富岡は行天し、慌てて消防や警察、王将幹部に連絡した。

手の中に開かれた携帯、そこにダイイングメッセージ?

 「待て!動くな」。

駆け付けた京都府警の捜査員が近くで銃弾の薬きょうを見つけ、叫んだ。

大東のワイシャツは雨に濡れ、かすかに赤くにじんでいたが、大量の出血はなかった。

大東が握っていた携帯電話は、開かれた状態だった。

そして、彼の人差し指は、死の間際にキーボードに並んだ文字の、「K」と「M」とを押したらしく、後日そこから彼の指紋が検出された。

もちろん大東自身の携帯電話である、指紋はキーボード上だけに残されたのではなかったのは、当たり前のことだ。

事件を担当している刑事は私とは旧知の仲だが、「K」と「M」の上にあった指紋を警察は特に重要視していないということを彼から聞いた。逆に私は探偵の第六感、「(銃撃されて)倒れながら、「K」および「M」がイニシャルの人物に、電話しようとしたのかもしれない」という線に、食いついた。

第一発見者は完全に「シロ」

殺人事件の場合、まず「第一発見者を疑え」。

これはイロハのイ、鉄則中の鉄則だ。

「M」と言えば、第一発見者の富岡正和(Masakazu)のイニシャルM.T.の「M」が該当する。

しかし、彼には全く動機がないし、直後に警察の聴取に素直に応じていた彼の手からは、何らの硝煙反応も検出されたなかった。

大東は生前、メディアから「生まれ変わったら何になりたいか」と問われ、
「鳩やな」
と即答したほど、鳩が好きだった。

富岡は20年ほど前、滋賀県内の放鳩地でそんな大東と知り合っている。ハトの世話役を頼まれ、山科区に移り住んだという。午前4時ごろに大東さんの自宅を訪れて数百羽のハトの餌やりや訓練をした後、王将本社の屋上で大東さんから朝食を振る舞われる、事件までそんな毎日を送っていた。

 「ここは王将の看板や」。

大東はそう言い、本社前の掃除を日課にしていた。

「社員には厳しい一面もあったが、普段の会話は冗談ばかり。まるで友達のような関係に見えた」。

事件前日の夕方にも大東の自宅で言葉を交わしたが、いつも通りの気さくな様子だったと、富岡は事情聴取で述べている。

実行犯とはまったく別のところに指示者がいる

王将フードサービスの前社長射殺事件は19日、未解決のまま12年を迎える。

銃撃の実行役は、事件から9年後に逮捕されている。
警察は福岡県の特定危険指定暴力団・工藤会系の暴力団幹部、田中幸雄を銃撃の実行役として2022年10月に逮捕。殺人と銃刀法違反の罪で起訴したが、田中被告の裁判は「工藤会の組員らが裁判員に危害を加えるおそれがある」などとして裁判員裁判から除外され、裁判官だけで審理することになったが、いまだ初公判すら行われていないはずである。

実行犯逮捕にも実に9年もの時間が要したわけだが、これは、実際に現場に行って大東を殺害した実行犯と、殺害しなければならない動機を持っていた人物、組織はまったく別の存在だから、捜査に想像以上の時間がかかったと見られる。

つまり、殺した容疑者が動機を持っていたわけではないというところで、事件解決の難しさがあるということだ。

逮捕に至っても自供は得られず、全容解明できるか

実行犯と思しき人物が、殺人などを生業としている容疑者、つまりプロ中のプロであることは、事件解明をより困難にする。今回の場合はその典型だ。

北九州市に拠点を置く特定危険指定暴力団「工藤会」の名前が出てきているが、そのなかには「ふくろう部隊」という秘密チームがある。

「ふくろう部隊」は荒事を専門として、九州の山に籠って拳銃の分解から組み立て、射撃訓練まで特殊訓練を行う。そういう秘密チームがあり、手を下したのはどうも「ふくろう部隊」ではないかと見られるのだ。

逮捕に至ったとしても、彼らはプロ中のプロである。供述するかどうかはまったくわからない。私はしないのだろうと思う。そういったことを行う連中というのは、捕まった後もプロ。口を割らずに出所の時を待つノウハウを身につけているのだから。

おそらく「自供は得られない」というなかで、はたして全容解明、公判維持、有罪判決に持っていけるだけの材料が集まるかというところで、今もなお操作が続けられているのである。

いずれにしても「工藤会」の田中被告は大東と何らの関係も見つかっておらず、面識もない。

事件の真相は、「指示役が誰だったか」を特定できない限り闇の中だ。

疑わしい人間多数の過去を洗う

まず、第一発見者が完全に「シロ」ということで、私が次に疑ったのは、大東の「ダイイングメッセージ」イニシャル「K」が該当する人物として「餃子大王」の越生(Koshio)、王将創業者の一族で事件前から大東と揉めていた加藤(Kato)一族、一族で動機がある人間は何人もいる。

そして、かつて「餃子の王将」と揉めに揉めた「大阪王将」の裁判当事者・中村謙二(Kenji)の怨恨の線も完全には消せない。

そして「M」が該当する人間としては、王将との不適切な取引があり福岡でかつてゴルフ場を経営していた上杉昌也(Masaya)氏等々。
イニシャルが一致し、尚且つ動機も存在すると見られる該当者は実に多く、そのすべての関係性を明らかにするために、私は王将創業者加藤朝雄と大東隆行の過去から全てを、徹底的に洗うことにした。

大東隆行19歳。商売人デビュー

大東隆行は、1941年、大阪市に生まれた。

幼少の頃、長男であった兄が硫黄島で戦死し、父も終戦間際に亡くなった。年頃になった子どもは家の仕事を手伝うのが当たり前で、大東は中学1年生の頃から、自転車で毎日炭の配達をしていた。当初は高校進学を考えていたが、「商売に必要なことだけ覚えればいい」と関西経理専門学校に進む。

そこで商売の基礎、算盤勘定と経理を習得し、すぐに加藤朝雄の仕事を手伝い始めた。

加藤朝雄は大東の姉の結婚相手、すなわち義兄にあたる。大東の姉と結婚した当初、加藤は燃料の卸と小売を手がけていた。
大東は19歳にして、姉と結婚して義兄となった加藤氏から任され、薪炭業を個人事業主として営むことになった。初めて自らの手で手がけた商売だったが、大東はこれを8年間続けた。

取り扱っていたのは、薪炭と氷である。薪炭が売れる冬と、氷が売れる夏以外は基本的に体が空いた。夏に稼いだ金で秋に豪遊し、冬にたまった金で春に散財。すべて自分の都合で動いていたに過ぎず、大東は後年、この時期を「お客さんやモノの流れについて真剣に考えれば、もっとまともな商売ができていたはずだった」と振り返っている。

加藤朝雄は、実行犯と同じ福岡県出身

ただ、現場で汗を流し、人と接して金銭をやりとりする商売に、大東はハマっていった。頑張るだけお金が入ってくることが、たまらなく面白かった。大東が、自分で事業を手がける面白さを知ったのがこの時期だったことは間違いない。

一方、商売気が旺盛で、またそれを現実にする実行力も人一倍あった義兄の加藤朝雄は、薪炭業は大東に任せ、ほかにさまざまな業種で商売を手がけていた。ホテルの経営、金融業、そば屋の運営…。そのなかで加藤がずっと目標にしていたのが、中華料理屋の経営だった。

加藤朝雄は1924年、九州の福岡県飯塚市の貧困集落の出身。加藤は戦時中満州あるいは中国に出兵しており、18歳で出兵していたとしても終戦時には21歳、軍ではまだ下っ端だったはずだ。

中華料理はこの時に覚えたらしい。また、ここから日本の中国人社会との繋がりもできたようだ。現在でも王将は店内では中国語で注文を通していて、単なる中華料理好きでは無いと想像できる。

福岡県出身の加藤朝雄は、王将の1号店を1967年に、遠く離れた京都(四条大宮)で開業した。

餃子の王将1号店は四条大宮

中国で終戦を迎えた加藤朝雄は、現地で中華料理、なかでも餃子のうまさとその大衆性に惚れ込み、大きな可能性を確信していた。

実際、日本では戦後にスタートした大手中華料理チェーン「珉珉」が店舗を増やし、中華料理は大衆に大きく受け入れられていた。

そんな1967年、加藤氏は京都四条大宮に餃子の王将第1号店を出店して、その夢を叶える。

したがって、王将フードサービスの創業者は、加藤朝雄である。

2年後の1969年に、加藤からの誘いを受けて入店した大東隆行は、王将での歩みを1号店の「店舗責任者」としてスタートさせている。

大東隆行と越生康之の運命の出会い

大東が、他の事業にも忙しい加藤から任されたのは、「王将1号店(大宮店)」の経営全般だった。
店を任された大東は、皿洗い、仕込み、調理、サービス、何でもやった。

のちの「餃子大王」越生康之が高校生だった1974年の夏、京都に遊びに行って四条河原町から烏丸、そして大宮を歩いてうろうろしていると、餃子のタダ券を配り歩いていた男が目に入った。大東だった。越生はそのそのタダ券を受け取って大東に案内されて店に入り、彼が焼いた餃子をこの時、タダで食べている。

これが、大東と、私が臭いと睨んだのちの「餃子大王」との運命的出会いだった。

大東自身が焼いてくれた餃子にむしゃぶりつく高校生の越生を見ながら、大東はしきりにぼやいていたという。

「タダやのに、なんでみんなもっと、食べに来てくれへんねやろ…」

越生康之と大東とは、「餃子の王将」がブレイクするその前に、接点があったのだ。

王将の店舗展開に火をつけた「餃子無料キャンペーン」

越生が大学生になって祇園で一人暮らしを始めた頃には、大東の餃子タダ券作戦が功を奏し、王将の店舗展開が勢いよく始まっていた。そんな1978年、大東は営業本部長に就任した。

大東と越生が4年ぶりに再会したのは「王将西木屋町店」、営業本部長となった大東は店舗指導に訪れていた。この日は「オープン記念」のイベント中で、客は餃子五人前を30分以内に食べたらタダだった。

越生は大東に4年前高校生だった自分に餃子をタダで食わせてくれたお礼を言ってからイベントに参加。5人前を軽く平らげ、また金を払わず、一言お礼を言ってから店を出た。

大東の戦略は、京都市内へのドミナント出店。たとえば、四条河原町という繁華街では徒歩圏内に5店舗を次々に出した。新しい店がオープンする時には大東はスタッフに餃子の焼き方初め、店のオペレーション全般を指導しに来ていたが、その度に、越生はオープン記念の餃子5人前タダ食いを重ねていた。次第に、大東がタダ喰いを重ねる越生を見る目は厳しいものに変わって行った。

越生は当時、西木屋町店、三条店、四条河原町店の三店舗を中心に毎夜巡回して各店舗の餃子5人前タダの客引き企画を「ハシゴ利用」。金を払うとしても大盛りライス代とビール代を払うだけで、毎日の夕食代を浮かせていたのだった。

これで5人前。10人前は、これが2皿だ。

大東V.S.餃子大王「バトル」勃発

越生が各店舗で「五人前タダ喰い」を繰り返していると、大東は「10人前を30分以内に完食したらタダ」というルール変更を決断する。流石に10人前は難しいだろうと考えたのだ。

それでも越生は王将各店舗に通い続け、軽く10人前を平らげ続けた。1週間に70人前を平らげた(タダ)時には、大東も呆れて、王将西木屋町店の「チャンピオン」として店舗入り口に名前入りの垂れ幕をかけて、越生を「表彰」した。

そんなある日、いつものように餃子10人前を平らげて店を出ようとした越生を、大東は呼び止めてこう言った。

「君はちょっとやり過ぎやで」

大東は、「君にはタイムトライアルという特別ルールを適用する」と越生に告げた。

完食する時間の自己記録を更新すれば、タダにしてやる、という「特別ルール」だ。

越生は、当時棒高跳びの記録を意図的に1センチずつ35回にわたって世界記録を更新したセルゲイ・ブブカ選手に倣って、29分、28分と1分ずつ短縮していく。
この間、大東はストップウォッチを持ってレフェリー役。彼が店舗に来る日を事前に教えてもらい、彼の前で達成しないと「記録更新」は認められないというルールだった。10人前一気に出てくるとだんだん冷めてくるので最初の頃は楽勝だったが、大東もさるもの、5人前を先に出して、私がそれを完食する寸前に、次のアツアツの5人前を持ってくるようになった。量より、口のやけど。熱さがタイムトライアルの最大の敵なのだ。

上の写真は、6日連続60人前を平らげて記録更新を続け、22分まで記録を縮めた際に、王将西木屋町店の店頭に貼られた越生のポスターだ。

大東隆行プロデュース「餃子大王」

最終的には12分。口の中を大やけどして挑戦をやめるまで、大東V.S.越生の、計18度にわたる10人前タダ喰いバトルは続いた。

そして、こうしてポスターまで貼られて、知名度が上がってしまった越生は、この頃から「餃子大王」と呼ばれるようになっていた。

「八坂神社(写真下)」を出発し、市内目抜き通りを練り歩く「餃子大王」。彼の名は「越生」。なので「越」の一文字が胸に描かれている(笑)

大東と餃子大王の「裏取引」

実はこの「バトル」が繰り広げられていた頃、大東と越生は、プロレスのように表向きには「対立関係」を大袈裟に装い、実は「裏」では取引していて(笑)「君がタダになるのは諦めてる。だから君、来る日は必ず友達を連れてきてくれよ」と大東と越生は「裏取引」をしていた。

越生は連日、大学の野球部やラグビー部の大食い自慢の連中を片っ端から連れて大東が来ている場所と時間に店に通った。

彼らの多くは失敗して10人前分のお金を払うし、自らは挑戦はしないが「餃子大王のタイムトライアル見物」すなわち「王将営業本部長:大東隆行V.S.餃子大王のプロレス試合の観戦」を目的に大勢の人間が駆けつけては大騒ぎして飲み食いするので、商売人・大東と、「餃子大王」との「win-win」は見事に成立していたのだった。

大東の裏切り

しかし、1980年3月末日をもって、ついに大東は「餃子大王」を「出禁」にする。

越生は、「金を払って食う分には出禁扱いではないが、もう金輪際、餃子10人前をいくら速く完食してもタダにはしないよ」と大東に告げられた。
金を払うのなら何も「餃子の王将」でなくて「大阪王将」でも「眠眠」でもどこでだって餃子は食える。越生にとっては「餃子の王将各店舗への完全出禁」に等しかった。

「なんでですか?おかしいでしょう、一人だけ、どうして除外できるんですか?」

食い下がる越生。

「君はもう、十分得したやろ?」と大東。

「これは人権問題やで」と引き下がらない越生。
二人の会話は平行線で、次第に語気だけが強まった。

最後は、血気盛んだった若い越生が大東につかみかからんばかりの剣幕になったものだから、この、大東が「餃子大王」に「出禁」を告げた際の2人の激しい口論については、目撃した人間が何人もいた。
私は彼らの目撃証言を元に、こう睨んだ。
「大東のダイイングメッセージ「K」に該当する越生(Koshio)は、この時大東から一方的に「出禁」とされたことを理不尽に思い、その不満が恨みへと発展。日々恨みを増幅させた結果、ついに犯行に及んだのではないか」と。

ただ、越生には、実行犯である「工藤会」とつながる線が全くない。
私は、九州に何度も足を運び、越生と人間関係がある九州の人間を徹底的に洗った。

まず、越生の右の人物、名を「工藤」と言う。すわ、工藤会の人間かと疑ったが、彼は博多山笠の重職に就いていて、裏社会とのつながりは一切なかった。

次に、写真右の神品。これまた、越生のリクルート時代からの一方的な恋慕の対象で、事件には一切関わりがない。

写真左から大浦、彼女も越生の片思いの一般人、その右の遠藤は幼馴染で北九州勤務の経験はあるが裏社会とのつながりは皆無。その右の藤井は九州が長いが、これまた工藤会とは関係ない。そして越生の右の人物が「ふくちゃん」「ふくちゃん」と呼ばれていて福岡の工藤会、しかも「ふくろう」部隊と接点があるのではと疑ったが、これまた完全な一般人だった。

写真左の中堂園も九州出身。素行が良くないとの噂があって疑ったが、彼もまた工藤会とのつながりは一切なかった。下の写真左の岩田も九州での越生との接点は何度も確認できたが、同様(工藤会とのつながりはなし)だった。

越生には動機と状況証拠はあっても、工藤会とのヒットマンとの接点が、全く確認できない。

大東隆行、火中の栗を拾う

2000年4月、大東隆行は「餃子の王将」4代目の社長に就任した。

当時、会社の経営状況は「火の車」とでも言うしかない状態で、有利子負債額は最大で470億円もに上っていた。前述のように、代表権を持った前社長と弟の専務(どちらも創業者・加藤朝雄の子)が会社を無茶苦茶にして倒産寸前の崖っぷちまで追いやっていたのだった。

大東はその全責任、まさにババ抜きの「ジョーカー」を、人の良い大東が敢えて引いた形の社長就任であった。

越生はそんな大東の社長就任を何故か喜んだ。

表向きには、「彼を助けたい」。そう周囲に語りながら、越生は「出禁」になっていた王将に再び通い始めた。

以来、彼は毎年、最高7%OFFが適用される餃子クラブのゴールド会員となり、限定グッズのコレクターともなったが、それは社長に登り詰めたが店舗の現場が大好きな大東との「接点」を狙っての行動ではなかったのかと。
実行犯との接点が見出せないものの、私はまだ越生犯人説の線を消してはいない。

財務から手をつけた大東

一方、大東は会社建て直しのために超多忙となる。真っ先に手を付けたのは財務だった。

悪化しすぎた財政状況では、銀行はお金を貸してくれない。だから、膿が溜まりに溜まってカオスのような財務の中身を、大東は必死で整理した。

彼が社長に就任する7年前、創業者の2人の息子が代表権を持つ社長と専務に就任した1993年から、会社の財務はおかしくなっていた。創業家つまり加藤氏亡き後実権を握った子息2人(加藤姓なので当然「大東のダイイングメッセージ「K」に該当)と、一族や知人や彼らの関係企業各社および個人と不適切な取引を繰り返し(その相手には「大東のダイイングメッセージ「K」「M」に該当する企業・人間多数)、結果として計約209億円もの大金を流出させていたが、不正の実態は闇の中。解決は最も困難と思われた。

それでも大東は、社長就任後の2年間で、業績不振だった30店舗を閉めて不良資産を処分し、財務の適正化を徹底的に進める一方、創業家をめぐる不適切な関係をも完全に解消しようとした。
大東は創業家関連の取引を徹底的に調べ、社内報告書(非公表)をまとめて極秘書類として二冊作成。一通は会社の金庫、一通は自身が持っていた。

この書類こそ、「パンドラの箱」ではなかったか。

大東は危険極まりないこの箱を開けようとしたのだ。

ある役員は、大東から「完全に手を切った」という言葉を聞いたという。

そしてその約1カ月後。

2013年12月19日に、大東は殺害された。

問題の源流は、創業者にあり?

この第二の線は、動機としてはもっともあり得る線である。大東に暴露されると困る連中の誰かが大東殺害を画策したという線だ。私は徹底的に調べた。
創業時代からの何らかの遺恨があったのではないかと言われるその根拠を調べてみると、そこには王将の創業者、加藤朝雄氏に発する黒い人脈が見え隠れする。動機を持っているのではないかと思われる人物について、いろいろなメディアがすでに実名を出している。

例えば福岡でかつてゴルフ場を経営していた上杉昌也(「大東のダイイングメッセージ「M」に該当)という人物がいて、警察からも重要参考人として聴取を受けている。
私は結論から言うと、その人物ではないと見ている。

なぜなら、大東殺害事、彼にはすでに動機は消えていたからだ。

大東が社長に就任したのが2000年4月。約5年半後の2005年に、「餃子の王将」と上杉昌也は、それまでの貸借関係を全部清算し終わっているのだ(殺害は2013年)。

いま私の手元に「債権放棄合意書」という書面のコピーがあるが、そこでは確かにまったくやりとりがないという状況になっている。

だから2013年にわざわざ大東を殺害しなければならない理由がないのだ。

それにしても、王将創業者の加藤朝雄という人間が京都に来る前、どこで何をしていたのかは全く不明である。出身地すら正確にはどこなのか分からないのだ。一つだけわかっているのは、加藤は自身が被差別部落出身である事から、解放運動を支援するスポンサーになっていて、解放運動との関わりは非常に密接にあったということだけだ。

以降、餃子の王将が解放同盟や非合法組織にトラブルの仲介を依頼していたと言う人物も加藤朝雄の近くにいたが、加藤死去(1993年)以降は、死人に口無し。そうした事が表に出ないので、この辺りの真相が全くわからない。

とにかく、越生と九州との接点、加藤の飯塚での痕跡は徹底的に洗った。

王将を潰しかけたのは、創業者の息子2人

さて、第二の線に話を戻す。
1992年になると、「餃子の王将」初代社長の加藤朝雄が大きく体調を崩した。

たちまち社長としての役割が果たせない体調へと悪化し、急遽、飲料メーカーのアサヒビール元副社長の望月邦彦(「大東のダイイングメッセージ「M」「K」にピッタリ一致)が臨時社長(2代目)に就任する。

当時から王将のビールは「アサヒ」一本槍、アサヒは現在王将の筆頭株主なので、当時から相当の蜜月関係だった。飲食業では、取り引きのある大手飲料メーカーと資本関係を持つのは良くあり、しかも救援としての急遽の登板、これ自体は何らの不自然ではなかった。

だが1993年に加藤朝雄が逝去すると、臨時社長・望月はたちまちお役御免となる。一流企業のサラリーマンとして副社長にまで登り詰めた人物、短期間とはいえ大変だったろうし、今更大東殺害に関わるような動機もなかったと推察される。しかし彼だけが、加藤朝雄との関係が深かった謎の怪人物をよく知っているのだ。

その人物について、望月は、「王将の拡大期を支えた『恩人』だった」とだけ語り、固く口を閉ざしている。
創業者の長男・加藤潔が3代目の社長に就任し、次男の欣吾氏が専務となって二人で代表権を持ち、創業者一族が完全に経営権を握った。

そして、王将の暗黒時代は、ここから始まる。

創業家やりたい放題の7年間

ハワイの土地(18.2億円)、京都・祇園のビル(5.3億円)、貸付金(87.8億円)――。適正な評価額とかけ離れた価格で不動産を購入したり、巨額の資金を貸し付けたりし、創業家が関連する企業グループとの不適切取引は2005年までの10年間に総額約260億円。うち約170億円が回収不能になっていた。

実際に王将と、創業家関係者との不適切な取引が始まったのは加藤朝雄氏が死去し、代表権が長男の潔氏と次男の欣吾氏に移った、この1993年からである。

この兄弟は二人とも、「大東のダイイングメッセージ「K」に、名前だけでなく苗字も「K」「K」で完全一致する。

創業家関係者と呼ばれるが、創業者一族とは加藤朝雄氏の息子や孫達で、総じて非常に世間の評判は悪い。加藤潔3代目社長も元々素行が最悪だった上に、創業者から「解放同盟」「非合法組織」の人脈を受け継ぎ、解放同盟関係者や非合法組織に度重なる乱脈融資を行って王将の経営に大きな損失を与えたが、株主である一族に地位を守られて社長の座に座り続けた。

クーデター、そして創業者一族の一掃

現場も荒れに荒れた。乱脈無担保融資で会社に損失を与えるだけでなく、店舗は放置し、ひどい店では虫が沸いたという。「餃子の王将の肉はみみず」「ひきがえるのひき肉」という都市伝説も広まった。

しかし加藤潔はその後も乱脈融資と業績悪化で王将の危機を拡大。この間、創業者・加藤朝雄と息子・加藤潔が解放同盟や非合法組織にずっと関わっていたとき、実際に彼らと応対していたのは大東だったと言われている。

大東隆行は、誰より人望があり仕事もでき、会社と闇社会との付き合いを表に出さずにそうしたことについても上手く処理していたようだ。

しかし、ついに2000年に社内クーデターを起こされて、王将を倒産危機にまで転落させた加藤潔は社長の座を追放され、後任の大東が火中の栗を拾うことになった。

特にクーデターの前年、1999年に創業者の出身地である福岡のゴルフ場や、解放同盟の関連企業に89億円を貸し付けた独断専行が、流石に背任とも言える大問題となり、さしもの創業者一族も今度ばかりは社長交代を阻止できなかった。

どうしても創業時まで遡る闇

実は創業者・加藤朝雄の一族は現在の王将とは対立関係にあり、王将の関連サイトにも創業時や創業前の事は書かれていない。加藤(Kato)一族、その知人等を含めて一族関係者には、加藤潔、欣吾意外にも動機が存在する人間が、他に何人もいる。

ただ、問題になった融資は初代の加藤朝雄が始めた事業や人間関係で、どれも息子の加藤潔・欣吾の兄弟が始めた訳ではない。

遡れば、王将創業者の加藤朝雄は、王将創業の翌年の1977年ごろに同郷の企業グループ経営者と知り合い、この人物に建築関係の許認可を巡る口利きなどを依頼していたという。

この人物も臭いのだが、いくら調べても、この人物の素性には辿りつかない。ここに突っ込むのは命懸け、非常に危険な香りがする謎の怪人物だ。

創業社長の加藤朝雄氏の体調悪化で急遽2代目社長となった望月邦彦は、この経営者について「王将の拡大期を支えた『恩人』だった」とだけ語っている。やはり殺害動機に繋がる糸を手繰っていくと創業者の九州のこの「知人」との、1977年からの今となっては「死人に口なし」の関係にまで遡ってしまうのだ。

とにかく創業家はしっちゃかめっちゃか

これとは別に、創業者の孫で加藤潔社長の息子の加藤貴司(大東のダイイングメッセージ「K」に該当)が、息子を連れて2008年から失踪しているという事実がある。彼が自分の意思で失踪したのかも分からないが、警察によると日本から資産を持ち出している形跡はどうやら無いようだ。

しかし加藤貴司氏の妻・カチェリーナ(大東のダイイングメッセージ「K」に該当)はウクライナ人だが、夫が行方不明になったとき、なぜか妻は息子を連れてウクライナに帰国していた。正確に言うと、加藤貴司はこの妻と復縁しようと親子3人でウクライナからエジプトへと旅行に出かけ、その旅行中に失踪したのだ。そして、夫が行方不明になっているのに、妻のカチェリーナは息子を連れて、再びウクライナに帰国したのである。

その後、妻のカチェリーナは、夫の失踪によって資産を相続する。

王将の大株主の一人となり、今なお年間数千万円を受け取っているという。
カチェリーナの金の匂いにすり寄ってきたウクライナ人の取り巻き連中の線も、決して消すことはできない。これが私が有力視している第3の線だ。

この加藤貴司とカチェリーナが絡み合う事件にも、疑わしい人物が取り巻きにもうじゃうじゃいることは確かである。逆にそうした人間が多すぎて、この事件については失踪した彼の発見も、失踪の全容解明についても、何も進展していないようなのだ。おそらく加藤貴司は殺されているのだろうが。

殺されるという予感

大東がトップに立ってからは、会社全体の雰囲気が目に見えて変わっていった。

現場が大好きで人の何倍も働いてきた大東の姿を見ていた社員からは、「よっしゃ、社長のためならやれる」と、そんなエネルギーが噴き上がり、そのエネルギーは目に見えない力になって社内に鳴動し、みるみるうちに全員を結びつけていく。

しかし大東は、業績も向上し、社内も明るくなった中で、射殺される1ヶ月ほど前から、幾度となく周りにこう漏らしていたという。

「わし、殺されるかもしれへん」
それでも大東は、本社に誰よりも早く出勤し、会社の周りを清掃ことから1日を始める習慣をやめることはなかった。

そして、あの寒い日も。

まだ辺りも暗いうちに、冷たい雨が降り頻る本社の駐車場に到着し、車を降りてドアをロックした直後に、プロのヒットマンに撃ち殺されてしまったのだ。

おそらく「不適切な関係」を解消しようとした大東が邪魔になった誰かが、ヒットマンに殺害を依頼した。これがやはり、おそらく最も有力な線なのである。

創業家の揉め事は他にも

「王将」と「大阪王将」は、何度も揉めてきた。

「王将」という共通の名詞が使われ、関連会社なのかな?と思っている人も多いようだが、知的財産に詳しい方は、混同が生じないのかな?商標で問題になるのでは?といった疑問もあるだろう。事実、その通り、過去には大いに揉めてきた。

①を餃子の王将、②を大阪王将として、その争いを振り返ってみる。

【1969年】「①餃子の王将(当時は京都王将)」からのれん分けをしたのが「②大阪王将」

【1985年】②大阪王将が ”王将” 等の表示を使用できるか否かの争いが起こる。両社間で混同が生じてしまうという主張で、不正競争防止法に基づいて①餃子の王将が裁判を提起。表記を「餃子の王将」「大阪王将」と分けることとして和解が成立した。

【平成18年】商標登録が維持されるか否かの争いが起こる。①餃子の王将(京都王将)側が保有する餃子の王将(ロゴ)、元祖餃子の王将の無効審決に関し、それぞれが審決取消訴訟を提起。いずれも審決が覆る形となり、餃子の王将(ロゴ):有効、元祖餃子の王将:無効となった。

「餃子の王将 vs 大阪王将」事件①:昭和の裁判

発端は、のれん分けだった。のれん分けい以降、両社は「京都王将」「大阪王将」としてそれぞれ商いを営んだ。②大阪王将が①京都王将から原材料を購入するといった契約を両社間で結んでいたというが、その真偽は不明である。

しかし「王将」という名前が共通していることから、仕入れ配達の誤配送や顧客トラブルが発生。いわゆる「混同」はやはり生じていた。そこで、①餃子の王将(京都王将)から訴訟の提起へと至る。これは商標権等の「権利」に基づく訴訟ではなく、「周知な名称の無断使用による混同」を規制する不正競争防止法に基づく訴訟だった。

そして『①京都王将側が「餃子の王将」、②大阪王将側が「大阪王将」又は「中華王将」と表示する』という和解内容で決着。

名前を変えれば棲み分けがなされて、混同が生じなくなるだろうという判断だった。

上記の、被告代表者・大阪王将の代表者は中村賢治(Kenji)。これまた大東のダイイングメッセージ「K」に該当する。

和解後は両社それぞれビジネスを拡大。昭和57年に店舗数100店であった大阪王将も、和解から20年後の平成18年には店舗数150店へと拡張していた。

しかし両社は再び、商標登録に基づく裁判で再び争うこととなった。

「餃子の王将 vs 大阪王将」事件②:平成の裁判(争点:商標法第4条1項11号)

餃子の王将が有する2件の商標登録について、それぞれ審決取消訴訟が提起された。

事件A:餃子の王将(商標登録第4868675号)に関する無効審判認容審決(= 商標登録:無効)に不服の①餃子の王将が、審決の取消しを求めて提起した裁判。

事件B:元祖餃子の王将(商標登録第4559956号)に関する無効審判棄却審決(= 商標登録:有効)に不服の②大阪王将が、審決の取消しを求めて提起した裁判。

事件A(平成18(行ケ)第10519号)

・争点:餃子の王将(ロゴ:商標登録第4868675号)は、先願登録商標(商標登録第1673048号等)の存在によって、商標法第4条1項11号による無効理由(46条1項1号)を有するかどうか。

・判決:無効とする審決を取り消す(= 商標登録第4868675号は有効)。

大阪王将側が持っていた先願登録商標は「大阪王将」ではなく「王将」であった。これらと、餃子の王将(ロゴ)は類似するから、出所混同を避けるためにも、後願である「餃子の王将」(ロゴ)は本来登録されては駄目だろう?というのが大阪王将側の主張だった。

いずれも同じ「王将」が含まれていることから、特許庁の判断においては、「餃子の王将」(ロゴ)の登録は「無効」となってしまう。

一方、裁判においては、無効が取り消し…つまり商標登録が維持される判決となった。「餃子の王将」(ロゴ)と先願各登録商標(王将)は少なくとも観念が同一であるものの、指定商品を中心とした取引の実情を踏まえると、商品の出所に誤認混同をきたすおそれは無く、互いに類似する商標であるということはできないと判断されたのだった。

事件B(平成19年(行ケ)第10091号)

・争点:商標登録第4559956号は、先願登録商標(商標登録第1673048号等)の存在によって、商標法第4条1項11号による無効理由(46条1項1号)を有するかどうか。

・判決:無効とする審決を維持する(= 商標登録第4559956号は無効)。

事件Bにおいては、商標登録第4559956号は「無効」とする判決であった。「元祖餃子の王将」の使用事実がないことや両商標の「外観」「称呼」「観念」に基づいて類否判断をすると、両商標は類似しており、後発の商標登録第4559956号は無効とすべきということとなった。

下表は、事件Aと事件Bのまとめである。

この、第4の線は、私的には重視はしていない。
もちろん争いごとがあったことは事実であり、その後も表沙汰になった争いがないというだけで、裏では何か揉めていないかを完全に証明できない以上は完全に疑いを消すことはできないが。

何が本当のパンドラの箱で、大東はそのどれを開けようとしたのか

こうして私は、4つの線を徹底的に洗ってきたが、1つ目の線以外にはそれぞれ「パンドラの箱」が存在した(1つ目の線はパンドラの箱もなにも、全て曝け出されている)。

その4つの線の中で、私はついに、決定的な「証拠」を掴んだ。

警察の威信にかけて組織的に取り組んでいる捜査よりも早く、真犯人の特定に至ったのだ。

しかし私は探偵。依頼者への報告が仕事である。
私は、犯人を特定した報告書をまとめ、依頼者と会う約束をした。
約束の時間は2025年2月22日、22時22分。王将本社の駐車場が待ち合わせ場所だった。

その日、働き方改革の成果か、王将本社の明かりはすっかり消えていた。

かつては全国で深夜まで営業する店舗からの売り上げ情報を待って、王将の本社は不夜城だったが。
そんなことを懐かしく思いながら私は駐車場に停めた車から降りた。
折からの寒波が凄まじく、雨は雪に変わっていた。
約束の時間、依頼者は私の前に姿を現した。

私は依頼者に近づき、報告書を手渡した。

「お疲れ様、しっかり拝見するよ。」

「そうそう、報酬だね」

依頼者はそう言って微かに微笑み、そして静かに私に銃口を向け、黙って引き金を引いた。
「パン、パン、パン、パン!」

立て続けに、シンシンと静かに降り頻る雪を切り裂くように、乾いた4発の銃声が響く。
私は倒れた。

弾丸が貫通した腹が熱い。

そして、顔に落ちてくる雪の冷たさ。

倒れた私は、立ち去る依頼者を目で追いながら、こんなことを考えていた。

「パンドラの物語ほどよく知られている神話はないのだろうが、これほどまでに完全に誤解されてきた神話もおそらく他にはあるまい」と。

パンドラは最初の女性であり、美しき厄いである。彼女は禁断の匣を開ける。すると人間が背負うことになるありとある禍悪があらわれて出てきて、最後に希望だけが残ると言う物語だ。

私の大好きなニーチェは、最後に残るとされた「希望」について、こう反転をなした。
「希望は本当は、禍の中でも最悪のものである」

「希望などと言うものは、人間の苦しみを長引かせるだけのものにすぎないのだから」

大東がどのパンドラの箱を開けようとしたのか、突き止めたのは私だった。
しかし、その「パンドラの箱」には、いわゆる希望というものは残っていなかった。
遠のく意識の中で、私は思った。

私が突き止めた「パンドラの箱」以外も。
その箱がどれであったにせよ、そこにあったのは同じだったろう。
それは、ニーチェの言う「苦しみを長引かせるだけのもの」としての「希望」。

私は、最後の力を振り絞って、スマホに依頼者の名前の頭文字であり、そして希望の頭文字でもある「K」と打った。

(完)