ジョンもジョージもブーヤンもたっちゃんもニシキ屋楽器店もエレッセも、みんな死んだ。

私がこの世に生まれて、初めて「レコード盤」なるものを購入したのは、明石駅前交差点角の「ニシキヤ楽器店」でした。

当時はどこで買っても同じ値段でしか買えない「再販制度」というものを全く知らず、明石ステーション内のレコード屋とこの「ニシキヤ」を何度も何度も往復し、値段を見比べて(笑)、値段が同じなのは当たり前なのに、今度は目をサラのようにして、ちょっとでも綺麗な状態でビニールに入った方を買っていました。

買ったレコードを抱えて向かったの先は、たいていブーヤンこと「中村和隆」君、友人の家でした。なぜなら彼がうちよりずっと高級なステレオを持っていて、めちゃくちゃいい音でレコードを楽しめたからでした。

友人保護者の大迷惑

もう2軒、いい音がするステレオを持っていた「国東大資」君と「太田泰史」君の友人宅もあるにはあったが、国東君の家も太田君の家も、最高級ステレオはお父様の応接室にあって、そこに入って勝手に聞くことはなかなか困難だった。

ちなみにこの二人とは、高校生になってロックバンドを組んだ仲間である。

二人の家にもたまには突然押しかけて、二人が持っているレコードを楽しみ、国東君の家では勝手に出前をとるなど、当時の私は?いや、当時も私は無茶苦茶な人間だった(笑)。

レコード店の大迷惑

もちろんレコードを売っている両店の店員にしてみれば、たった一枚のレコードを買うのに何時間もかけて何度も来店する「異常者」でしかなく、さぞや「鬱陶しい丸坊主の子ども」だったろう(笑)。

ニシキ屋レコード店の店員、おそらく店主は、細身で長身。異様にこけた頬の、あの神経質そうな顔を歪めて始終私を睨みつけていたし、ステーションデパートの、シュークリームで有名な「くるみや」の前のレコードコーナーで暇そうにしていた小太りの女子店員さえ、私が行くと鬱陶しそうな顔をして私を見ていたものだ。

ブーヤンの大迷惑と楽しいひととき

さて、買ったレコードを持って私はぶーやんの家に向かうわけだが、ニシキ屋レコードから向かう場合は、店のすぐ北側を走る国道2号線を東に5分ほど歩いて、そこから人丸山を左手に北方面に坂を登っていく。ステーションデパートのレコード売り場はJR(当時は国鉄)明石駅と同じ建屋にあるので、まず駅の北口を出てすぐ東に向かい、明石のランドマークである天文科学館を左手に見ながらやり過ごして、今度は北に向かって坂を登り始めるとすぐの場所にあった。

てか、ここまで買いて、「一体ぶーやんて誰やねん」と、読む人は何もわかっていないことにようやく気がついた。

ビートルズとストーンズ

上の写真で、つまらなさそうな顔をしているのがブーヤンだ。「ブーヤン」こと中村和隆君は、明石市立大蔵中学校入学と同時に知り合って意気投合した友人である。

中学時代の私たち。手前で顔半分しか写ってないのがブーやん、左奥が私。ちなみに、中央が小学校時代からの友人・遠藤君、左下は安藤君。みんな中一では丸坊主で、途中から頭髪自由化を勝ち取った、そんな世代だw。

写真の4人にしても、意気投合はしても微妙にズレた価値観ゆえ会話が弾むという、なかなかイケた関係だった。たとえばプロ野球にしても遠藤君は南海ホークスファンでパリーグを語り、私は阪神タイガース命でセリーグを語った。安藤君も私もともにひょうきんな男だったが、安藤君の笑いはシュール、私はベタだった。ぶーやんと私も、おそらく彼もそう思っていたと思うが、互いにちょっと違うものが好きだから話すのが楽しい、そんな仲だったのだ。

だから、私が彼の家に持ち込むレコードも、彼の好みとは違い、私が彼から勧められて聴いたレコードも、私の「趣味」とは違った。典型的な例を挙げれば、私が持ち込むのは「ローリングストーンズ」で、逆に彼が私に聞かせたのが「ビートルズ」だったのだ。

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ビートルズとストーンズといえば互いに相入れないと思われているが、ブーヤンと私は、もちろん大きく違う彼らの音楽性に「ブルース」という共通項もちゃんと見出していて、そこに楽しい会話が常に生まれていたのだ。

サッカーと野球、ペレと江夏

彼との話題は、音楽談義だけではなかった。私たちが中学で出会う前、メキシコオリンピックで日本サッカーが銅メダルに輝いたことで、それまで野球一辺倒だった小学生が中学で選ぶスポーツが、私たちの世代から野球とサッカーに分かれたのだった。そしてサッカーを選んだのがブーヤン、相変わらず野球大好きだったのが私だった。

ブーヤンは「ペレ」を神と仰ぎ、私は「江夏」を神と仰いで、熱心に語り合ったものだ。一体どんな会話だったのだろう、録音しておけばよかった(笑)

この際、「格が違う」とか「比較にならん」とかのツッコミは野暮というもの。ブーヤンは私の話にも耳を傾けてくれたのだから(笑)。

明石北高校と明石高校

ブーヤンは明石北高校、私は明石高校へ。進学した高校は別々になった。

私は高一になって大久保〜明石間を電車通学するようになると、レコードを求めて足は神戸元町、三宮へと伸びた。時には授業をさぼり、しばしば神戸まで足を伸ばした。元町のヤマハ、三宮の星電社、その間にあるレコード屋や楽器屋(ロッコーマンや国際楽器など)をくまなくハシゴし、同じように何時間もかけてレコードを選んでたまには買ったが、楽器は買いもしないのに、正確には金もなく買えもしないのに、高級な楽器を穴が開くほど凝視していた。

欲しいレコードを買うためにパチンコに賭けて、帰りの電車賃が無くなって三宮の警察でしばしば電車賃を借りたのもこの頃だ。

もちろん大学も別で、就職先も別だったが

ブーヤンと私は、もちろん、大学も別々だった。

ブーヤンの大学時代には詳しくないので私のことだけ書くと、エキセントリックを絵に描いたような私は、大学入学の1978年から卒業する1982年まで、たったの一枚たりとも、レコードも自分で買わなかった。レコード屋にはしばしば行っていたが、私は美大に進学してグラフィックデザインを専攻しており、レコード屋に行く目的が「ジャケットデザインの研究」に変わっていたのだった。

In the Court of the Crimson King

二人は別々の大学を卒業し、当たり前だが別々の就職先を選んで社会に出た。
そんな二人が再開したのは、社会人1年目、新大阪駅の構内だった。

その日、確か夜の9時過ぎだったろうか、私は新大阪駅から電車で自宅に帰ろうと、新大阪駅前のリクルートビルを出て駅への道を急いでいた。新大阪駅の1階は、サラリーマンの殿堂である。居酒屋やラーメン屋などがひしめく一大飲食店街なのだが、駅へ急ぐ人の流れとその飲食店街から出てきた人の流れが合流する場所、そこで、私とブーヤンは偶然の再会を果たす。

勤務地が同じ新大阪だった

ブーヤンはエレッセ(運営はゴールドウイン)、私はリクルート。

業種業態は違うが、同じ「カタカナ名」の会社に就職し、偶然ではあるが勤務地が同じ新大阪だったからこその再会だった。二人が駅の飲食店街に向かったのは言うまでもないだろう。ブーヤンは全く変わっていなかった。「ブーヤン」というニックネームがつくぐらいだから小太りなのだが、そこを含めて、おっとりとした性格は全く変わっていなかった。

やっぱりなんだかゆるく気の合う私たち二人は、その日からたまに連絡を取り合い、会って、楽しく飲んだ。

20年の空白を経て電話が

バブル景気で社会がイケイケどんどんになる中、私は神戸、大阪、東京へと転勤し、そしてリクルートを辞めて1991年秋に起業した。それから阪神淡路淡路大震災もあり、生きていくのが必死の慌ただしい時間があっという間に過ぎていったが、この間にブーヤンと会う機会は一度もなかった。

あれは2000年代になって私が経営コンサルタントに転身し、何年か経った頃だったと思う。大蔵中学校の同窓会があり、私はブーヤンと再会した。ブーヤンは見た目は相変わらずブーやんだったが、エレッセ(ゴールドウイン)をとうにやめていて、いくつか転職を経験したと言っていた。私たちは互いに新しい連絡先が書かれた「最新の名刺」を交換し、再会を約束して別れた。

その同窓会から3年ほどは経っていたと思う、ある日、ブーヤンから電話がかかってきた。話を聞くと、転職先での仕事がうまくいかず、仕事がなくて困っていたのだが、「なんかウチ(永楽堂)でやるか?」と同級生のたっちゃん(本名:永井達也:下写真)が手を差し伸べてくれたという。で、永楽堂で新しい仕事に取り組むことになったのだが、私に手伝って欲しいということだった。

118)あかしたこせん-永楽堂 甘辛く飽きない味人気 ...

私は、独立起業した会社経営者時代に友人と5年間経営を共にしてきたが、阪神大震災後の難局を切り抜ける際に意見が合わず、佐藤博幸という友人を無くした苦い経験があった。この時から「友人とは絶対にビジネスをしない」と決めていた私は、「手伝うのは構わないが、金は要らない。ボランティアということでなら手伝うよ」と答えた。

かくして、同じ中学の同級生・たっちゃんが経営する「永楽堂」の本店で、私はブーヤンとたっちゃんと3人で会った。下写真は中学の卒業アルバムで並んで写っていたブーヤン(左)とたっちゃん(右)。

以降、3人で何度も会って、ブーヤンの資質を活かした事業を考え、マーケティングを行い、収支の検討、事業計画策定、そしてブランディングに至るまで、じっくりと取り組んだ。もちろん無償だ(笑)。

「さあ、あとはブーヤン、お前が頑張るだけやで!」と言って、私は彼と全力のハグをして別れた。

その、ちょうど1年とすこし後だったか、とにかく2012年の秋のことだった。今度は永楽堂社長のたっちゃんから電話がかかってきた。

「ブーヤンが癌で倒れてな、それもかなり進行した状態で見つかって、病院に入院したんや。相当悪いねん。長くないかもしれん。見舞いに行ってやってくれ」

私は翌日、単身赴任先の京都から車を飛ばして、ブーヤンが入院している神戸市立西神戸医療センターの入院病棟に向かった。

この病院の8階で、ブーヤンは病魔と闘っていた。面会の前に、奥さんに容体を聞いた。「医師によると、残された日はあまりない」のだと。動転したが、意を決して病室に入る。ブーヤンは変わり果てていた。体は細くなり、顔と足が、ひどく浮腫んでいた。

痛みはひどいのだけれど、それをクスリで止めると(意識がとんで)ぼくらとの会話ができない…ということで、点滴を外して痛みに耐え、私に話し始めた。

「お前にいっぱい手伝うてもろうた、あの事業なあ、頑張ってたんやけど、軌道に乗る前にこんなことになってしもたわ…」

遮るように、私は言った。「ガンなんかやっつけて、復帰して、ちゃんと軌道に乗せろや!」と。
奥さんによれば、ブーヤン自身も残された日が少ないことを知っているのだと。私の励ましに、ブーヤンは力無く笑い、「まあな」と言って、あとの言葉は飲み込んだ。

2週間後、ブーヤンは天に召された。

たっちゃんは言った。

「スタートさせた永楽堂の新規事業は、ブーヤンのものやし、他の誰もやれるもんはおらへん」。
事業成功の夢を抱えたまま、ブーヤンは天国に行ったのだった。

人生は儚く、時代は、変わっていく

ブーヤンが大好きだったビートルズの、ジョンレノン、ジョージハリスンが先に逝き、そしてブーヤンが2012年に逝って、その8年後の2020年、たっちゃんもブーヤンの後を追った。

中学生のときにブーヤンの家に持ち込んで聞いたレコードを買った「ニシキヤ楽器店」は、2017年に廃業。私が2018年に訪ねたときには更地になっていた。

そして、ブーヤンが胸膨らませて就職したイタリアブランド「エレッセ」の事業も、ゴールドウインが2024-25年秋冬シーズンで終了した。「エレッセ」はゴールドウインが日本における商標権を保有して80〜90年代のテニスやスキーのブームをけん引し、私もブーヤンへの思いもあってウエアはすべてエレッセだったが、その「エレッセ」も、ここに息絶えたのだ。

人生は儚く、時代は、変わっていく。