
私のようなお調子者の人間を、大阪では「いちびり」と言います。この言葉は、元をただせば語源は「市振る」で、商売が栄える様子を言っていました。小中同級生のたっちゃん(本名:永井達也は、明石では知らぬものはない「永楽堂」の社長として会社を「市振る」大活況へと導きました。そういう意味では、たっちゃんも、めちゃくちゃいちびりだったのです(笑)
たっちゃんは、2020年4月、62歳で亡くなりました。彼との思い出、そして彼を生涯苦しめた糖尿病の怖さについて書きました。
たっちゃんとの出会い
私は、小学校3年生の2学期に、淡路の「北淡町立富島小学校」から、その10倍近い規模のマンモス小学校「明石市立人丸小学校」に転校した。私は早く友達がほしくて、休み時間のたびにギャグをとばしていちびっていた。
するとある日、淡路弁をからかわれた挙げ句、「おまえダボやな(間抜けでアホという意味)!」と言われてしまう。方言を揶揄ったのは別の子達で、「お前ダボやな!」と私のギャグを笑ってくれたのが、たっちゃんだった。
強打者で、肩がめっぽう強かったたっちゃん
永楽堂の創業は1940年。たっちゃんも私も8歳、ちょうど私たちが出会った頃だ。たっちゃんは野球が抜群にうまかったが、放課後、私たちが校庭で暗くなるまで野球をしていた中に、彼の姿はなかった。おそらく、ご両親が商売を始めたばかりだったので、子どもなりに色々ご両親を手伝っていたのではないだろうか。
私たちは同じ明石市立大倉中学校に進み、たっちゃんは野球部、私はテニス部に入った。たっちゃんは肩が滅法強く、野球部ではいきなりエースだった。一球一球、投げる瞬間「ほっ!」と気合いを発してのマサカリ投法が懐かしい。直球も速かったが、カーブが鋭く、打者をキリキリ舞いさせていた。

しかし、たっちゃんは先輩と衝突、野球部をやめてしまった。その時の後悔を、彼は文集に残していた。
「(前略)クラブは野球部にはいった。絶対やめないとちかった。しかし、がまんにがまんをかさねたが、ついにやめてしまった。でも、ぼくは、野球が好きで好きでたまらなかった。やめたあとで後悔している。こんど高校にはいると、野球をしてみようと思う。いままでは、すぐに腹をたてて、なんでもかんでもやめてしまった。これからは、がんばっていこうと思います。」
私とたっちゃんは、中1、中3と同じクラスで過ごした。お互い育ち盛り、しかしたっちゃんは別格、食べる量は半端なかった。

そして、体育祭の棒倒しなど、格闘系の競技は彼の独壇場だった。

甲子園には行けなかったが、商売人として成功
彼は、甲子園も狙える、県下有数の野球名門校に進学したが、肩を壊して夢は叶わなかった。
しかし、その後の彼は、早くして亡くした父親の後を継ぎ、当時まだ小さな「町の煎餅屋」だった永楽堂を、明石では知らぬもののない会社に成長させた。

その原動力となったのが、彼自身が考案し、開発した「たこせん」と「ぺったん焼き」の二大ヒット商品だった。
たっちゃんはずっと「明石のマダコを使っておせんべいを作りたい」と考えていた。彼は巨大なプレス機を探し求め、ついに最適な機械を見つけた。

そこから、試行錯誤の日々が始まった。その結果、でんぷん粉をベースにピリッと辛口の特製ダレを混ぜ込んで生地をつくり、新鮮なマダコとチーズを乗せて、190~200℃に熱した鉄板で一気にプレスするというやり方が確立。こうして、人の顔よりも大きく焼きあがる、永楽堂オリジナルの「ぺったん焼き」は誕生した。

熟練の職人の手により一枚一枚プレスされるぺったん焼き。瑞々しいマダコはプレスした際に、水分が蒸発することで「キューキュー!」と、まるでタコが鳴いているかのような音を出しながら焼き上がっていく。

鉄板からはみ出すほどの大きさに焼き上がる。
もう一つの名物「たこせん」も、彼が開発し、育ててきた。

糖尿病との異種格闘技は30年続いて
たっちゃんは、野球をやめてからは、ボクシングをやった。しかし昼夜を問わず働き、また夜の交際も毎日のように続いていたという彼は、早くから糖尿病を患った。ボクサーとしての選手生命は短く、そこからはボクシングジムを支援し、多くの後輩ボクサーの育成に情熱を燃やしたのだった。
自身が戦う相手は、ボクサーから、若くしておかされた糖尿病にかわっていた。同窓会でも、個人的にスナックのカラオケを楽しんでも、食事を共にしても、彼は「医者から絶対あかんと言われてるんや」と言って一滴の酒も飲まなかった。
時々、体調を崩している知らせも耳にしたが、その度に「仕事は休んでない」ということで、おそらく入院が必要なところを、彼らしく無理を続けていたのだと思う。
2017年6月30日、たっちゃんの還暦パーティが地元のホテルで大々的に開催された。そこでの入場は、ボクサーや格闘家との交流を重ねてきたたっちゃんらしく、赤いチャンチャンコならぬ、世界チャンピオンが入場するかのような「赤いガウン」を身にまとっていた。

事業を成功させ、大々的な還暦パーティで多くの人たちの祝福を受け、晴れ姿を披露してからわずか3年後、2020年の春。
たっちゃんこと永井達也、永眠。
糖尿病との長い長い戦いも、ようやく終わった。30年も粘ったのだから、やられたとは思わん。引き分けだな、たっちゃん。
それより、あっちで7年半も待ってたブーヤンに、いきなり技をかけたり、まさか1発パンチを見舞ったりしてないやろな?暴力はあかんで、たっちゃん。