
今日は須知城へやってきました。城跡の見どころもさほどの知名度もないのですが、織田信長が好きではないというか、はっきり言ってその人間性が嫌いな私は、彼を突如として本能寺で討った明智光秀にずっと興味を持っていまして。
しかしながら光秀の謀反の動機がはっきりしていないことから、彼が信長に命じられて丹波攻めをして落とした城はすべて回って、彼の「心の闇」を探っている次第です。
1579年(天正7年)、織田信長の命を受けた明智光秀による丹波侵攻では、光秀に対抗していたはずの須知城主・須知元秀は翻って光秀方として参戦しますが、その途中で今度は光秀を裏切って離反したため、光秀の軍勢に攻められて落城し、須知氏は滅亡してしまうのです。
この体験だけでも、裏切られた側としても、裏切り者を責める側としても、謀反というものを光秀は体感しており、その得るものと失うものの怖さは十分にわかっていたことでしょう。
須知(しゅうち)=志内=志宇知
須知城は丹波地方の有力国人、須知氏の居城である。須知氏は、丹波国船井郡須知村に拠った中世武家で、『平治物語』に志内六郎景澄が左馬頭(源義朝)の郎党としてあらわれ、南北朝期の『太平記』に足利尊氏が篠八幡で討幕の旗揚げをしたときに馳せ参じた丹波武士として志宇知氏が出てくる。おそらくより確かなのは、天永2年(1110)須知慶吉が源為義に従って功があり、近江国周智郡から丹波国船井郡へ移ったのが始まりという説だろう。
須知の地に残る須知氏の屋形上野館跡の一角に、須知氏の古い墓石群が祀られている。傍らの墓誌には「六条判官為義二従ヒ、遠州周智郡ヨリ丹州舟井郡迫分村二移リ迫分村ヲ須知村二改メ在中ノ須知城二仍(碑文のママ)」と記されている。この碑文を信じれば、遠江を周智郷を本貫とした武家で、十二世紀の中ころには丹波国(船井郡)に土着していたということだ。
須知氏の裏切り体質は南北朝時代から
須知氏が居城とした須知城は、最初の築城は天永年間(1110~13)に須知慶吉によって、あるいは南北朝時代に須知景光よって築かれたとも伝わるが、いずれにしても観応三年(1352)に、丹波守護代荻野朝忠に与した中津川遠山秀家が、須知城を最初に落としている。
南北朝時代、須知氏は北朝方と南朝方の間を揺れ動き、その進退は定まらなかったようで、この頃から須知(しゅうち)なのに羞恥心がない、日和見の「謀反体質」だったようだ。
やがて、室町幕府管領・細川京兆家が丹波守護職に就くと、須知氏は細川氏に従うようになった。ところが、 延徳元年(1489)丹波守護代職の上原元秀の搾取・押領に反発した大槻・位田・荻野氏らの丹波国人衆が武力蜂起(位田の乱)すると、須知城主・須知源三郎は謀反体質を暴露して細川政元を裏切り、国衆の一人として一揆方に加わるが、細川政元の討伐軍と戦って敗れ、没落した。
裏切って、また裏切って、またやり返されて滅んだ須知氏
その後しぶとく復活した須知氏は、明智光秀の丹波攻めが始まると、須知元秀は八木城主内藤貞勝に 従ったが、すぐに離脱して光秀に与した。そして八上城攻めに加わり、かつて従っていた八木城内藤氏を攻めたときに負った矢傷がもとで、天正七年(1579)に死去した。その喪中に明智光秀に攻められ須知城は落城、 須知氏は滅亡したのだった。須知氏は十二世紀から十六世紀までの実に四百年、丹波国に紛れもなく足跡を刻む有力国衆であったが、代々誰かを裏切ってきたその体質が、最後は命取りになったのか。
その後、丹波の国主になった明智光秀は、須知城を拠点城郭の一つとして改修。築城名人として知られる本領を発揮して、主体部を高石垣を有する山城とした。曲輪に、石垣が残る虎口が二つあるのが特徴で、高さ約5mの高石垣は丹波屈指の威容を誇った。また、光秀が明智の性を須智氏に与え、城を改修したことが分かる資料が麓の玉雲寺に残っている。

玉雲寺は須知出羽守慶吉が開山した寺で、落城の際に兵火で焼失したものを光秀が再興した。
須知城跡に行ってみた
須知城は京都縦貫道丹波icの南東に聳える標高384mの山に築かれている。現在は町指定史跡となり登山道が整備されている。まず玉雲寺、琴滝を目指して車を走らせる。琴滝公園駐車場を利用し、琴滝左手の登山口から須知城跡を目指した。
駐車場に車を停めて、まずは琴滝へ。数分歩くと琴滝が現れる。

名勝「琴滝」は観光スポットとして有名で、須知城跡よりここを目当てに訪れる人の方が多いだろう。
ここに須知城跡行きの看板が立っていて、それを目印に山の斜面を頂上へと向かう。
須知城は山頂から東西に伸びる尾根に曲輪を配しており、東西おおよそ300m程の規模がある。主郭部は石垣造りに改修され、主郭背後の高石垣は鈍角で四面を繋ぐ石垣となっており最大の見所である。
主郭は山頂にあり、東背後に高石垣を用い、西に虎口を開く。虎口は石塁で固められ折れがある。その西下の曲輪も西端南側に虎口を開きこちらも石垣を用いている。主郭の東下に堀切があり、その先はわずかに石積が確認できる程度で、切岸と土塁の付いた曲輪が続いている。琴滝北側の山頂に位置し、京丹波の入り口として見晴らしのよい場所だ。

麓にある道の駅「丹波マーケス」は、経営者(町長)の負債を税金で返した

道の駅「丹波マーケス」は、京丹波町にあるテナント参加型の大型商業施設である。




これを経営するのは「丹波地域開発株式会社」で、第三セクターで設立された株式会社。この会社の初代社長は寺尾豊爾氏。なんと、当時の現職町長である。ここに、町は全体の約4割にあたる3億円を拠出した。


「丹波マーケス」に入っているテナントの最大店舗は、サンダイコーというスーパーだ。なんと道の駅スタート時の代表者は寺尾豊爾町長だった。




その他のテナントも、寺尾町長一族が経営しているものが大半。




公私混同、我田引水も甚だしい。計画の最初から、きな臭く汚れまくった状態で、道の駅「丹波マーケス」はスタートした。
借金を税金で返済
「丹波地域開発株式会社」は平成9年、開業に当たって京都府から12億円の利子なし融資を受けており、5年間は返済が猶予されていた。しかし、返済が始まるやいなや条件変更をし、計画の半額しか返済しない状態が10年間続いた。また、その間の営業状態については、寺尾町長は「経営はうまく行っている、経営資料の開示には応じられない、裁判所を通じてやれ」など、町民からの要求をことごとく退けてきた。
ところが、2014年9月、議会に上記融資の返済残額6億円あまりを補助金等で全額返済する議案が突然提案される。もちろん議会では議論が沸騰。説明資料が不十分、町財政から特定の会社に6億円も支出するのはおかしいなどの意見が出されたが、提案されたその日に採決までされてしまい、結果、8対7の賛成多数で可決され、執行もされてしまったのだ。事前に過半数の議員に裏から手を回しての、よくある確信犯決議である。ちゃんと議論する気があれば、無理やりの即時議決などあり得ないのだから。
町民の怒り
さすがにここまでやると、町長と議会に対して非難の声が湧き上がる。その声をまとめるとざっと次のような声であった。
「本来町民のために使うべき巨額の税金を特定の会社に支出したのではないか」「町民の生活のためというなら町内全部の経営者に援助すべきだ」「本当は現町長個人が府の融資12億円の連帯保証人となっているので、自分が町長になっている間に税金で返したのではないか」「丹波地域開発株式会社の経営が行き詰まっているのであれば政府の方針通り清算会社にすべきだったのではないか」
おっしゃる通り、ごもっとも、と言うしかない。
監査請求を求める町民の運動が
町民たちは、議会で支出に反対した議員の「監査請求をしよう」との呼びかけに応じ、何度も公開の会議を開いて討論をし、京都市内からは市民ウオッチャー京都が地元に出向き、監査請求に向けて学習集会も開かれた。そして監査請求人を募ったところ大きな反響があり、その声を集めて、2015年8月26日、121人が京丹波町に住民監査請求書を提出するに至る。
監査請求では、「まともな再建計画もないまま京都府からの借金の返済だけを目的とした破綻会社の救済をするもので、地方財政法の財政健全化の趣旨に大きく違反する公金の支出である」「公益上の必要性の判断の裁量権逸脱・濫用である」と訴えた。
10月8日、監査委員会で意見陳述が行われ、10名の町民から「経営破綻会社に対する税金投入は許されない」「税金の不公平な支出ではないか」「自分の連帯保証を消す目的があったのではないか」など、怒りの意見陳述がなされた。
京丹波町の町長選挙で寺尾豊爾現職町長落選
京丹波町の町長選挙と町会議員選挙が2017年11月5日に行われた。京丹波町マーケス事件(6億700万円の公金を第三セクター丹波地域開発が経営する「丹波マーケス」に投入した事件)が町長選挙の最大争点になり、その是非が問われた結果、投入した寺尾豊爾町長は落選した。
立候補者は全部で4名(前回町長選は寺尾氏だけが立候補し無投票)、寺尾氏以外は皆、公金投入問題を選挙の第一の政策課題に据え寺尾氏を批判していた。投票率は74.44%に達し、公金投入に対する町民の高い関心があったことも裏付けられた。町民の怒りが寺尾氏を落選させたのだ。それは当然として、それでも寺尾氏の得票率は28.8%。それまでの公私混同の悪徳政治の甘い汁を吸っていた外道な奴らがこれだけいたということだろう。
町民が町側を相手取っての裁判となった、その内容
住民が問題としていた町の公金6億700万円の支出が、京都府からの融資12億円の残額を税金で返済する目的であったことは明らかだ。土地購入や補助金は支出の名目であり、地方自治法232条の2「公益上必要がある」支出といえるのかが裁判の最大の争点である。
町側は、マーケスは町民のために存在していて公共性がある、だから税金投入は正当であると主張している。それなら「経営者の経営責任を問うことが第一の責任のとりかたで、それでも税金を投入するというのであれば住民に情報を公開し、説得的な議論をしなさい」という総務省の指針に指針に基づき、丹波地域開発の経営資料の公開を求めているのだが、それに対しては「企業秘密に該当するので出さない」という全く筋が通らない主張を繰り返している。
請求は4つ、少なくとも文書提出命令だけは出されると信じた
そこで、文書提出命令の可否と言うのが、まずもっての司法判断となった。
原告が要求しているのは、各テナントの賃料、サンダイコーなど土地所有者に支払っている借地料、丹波地域開発の役員のテナントが支払わなかった未収賃料など。経営が行き詰まって税金を使った訳だから、それらの資料を公開して町民を説得する必要があったはずの文書を出せと言っているだけ。これがなぜ出せないのか、町民の憤りは募るばかり。
もうひとつ問題としているのは議会での承認プロセス。町は、平成26年度9月議会に「丹波地域開発株式会社に対する経営支援」「追加資料」及び「再追加資料」を提出し、高度化資金返済残高6億700万円を一挙に帳消しにする案を一般会計補正予算(第2号)として議会に提出た。その採決は9月24日で、本当にあっというまに採決してしまっている。原告の請求は以下のとおりである。
請求
1 被告京丹波町長は,被告補助参加人に対し,6億700万円及びこれに対する平成27年1月9日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払うよう請求せよ。
2 被告京丹波町長が丹波地域開発株式会社に対し平成26年12月22日にした補助金交付決定を取り消す。
3 被告京丹波町長は,丹波地域開発株式会社に対し,3億2529万円及びこれに対する平成27年1月9日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払うよう請求せよ。
4 被告京丹波町長は,丹波地域開発株式会社に対し,2億8171万円及びこれに対する平成27年1月9日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払うよう請求せよ。
2020年6月25日、京都地裁で判決が言い渡されたが…
主 文
1 本件訴えのうち,被告京丹波町に対する補助金交付決定の取消請求に係る部分を却下する。
2 原告らの被告京丹波町長に対する請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用及び補助参加によって生じた費用は原告らの負担とする。
(中略)
結論
以上の次第で,本件訴えのうち,被告町に対する本件交付決定の取消請求に係る部分は不適法であるから却下し,被告町長に対する請求は理由がないから,これらをいずれも棄却することとして,主文のとおり判決する。
京都地方裁判所第3民事部
裁判長裁判官 増 森 珠 美 裁判官 中 田 克 之 裁判官 藤 野 真 歩 子


これほど露骨で酷い、権力者による税金の歪んだ使い方は珍しいだろうが、この国の地方自治も中央政治にも、政治と金の問題はさまざまな形でとっ散らかっている。一体、人間という動物は、どこまで腐れるのだろうか。