
「金勝(こんぜ)アルプス」は、アルプスといっても標高は一桁違って、標高605mの竜王山と鶏冠山491mが連なった山々のことで、稜線には奇岩が多く、眺望も抜群に良いことから「登山」というよりハイキングコースとして人気があります。

道の駅「こんぜの里りっとう」に車を置いて、ハイキングコースで金勝寺に行くこともできる。

その竜王山中に金勝寺(こんしょうじ)というお寺があるからでしょう、地元ではこの連山をまとめて「金勝(こんぜ)山」と呼んでいます。
金勝寺は、その金勝山、正確には竜王山の頂上近くの山奥にひっそりとたたずんでいますが、中世には源頼朝・義経、足利尊氏・義詮など錚々たる人々が帰依し、湖南仏教文化の中心をなしていました。


春夏秋冬いつ訪れても素晴らしいのですが、冬の平日なら、ほぼ誰もいません。
秋にはたまに来る場所で、この記事も秋の来訪時のものですが、2025年の1月9〜10に到来した寒波を狙って金勝山の冬景色を見たので、一部上書きしています。
紅葉の秋と、少し冬化粧をする冬の日には、京都市内のお寺にはまったく無い静寂がここにあります。その中で自分を見つめ、心を落ち着ける時間は、私にとって、とても贅沢なものです。
金勝寺を中心に宗教文化が花開いた地域
滋賀県の南部に位置した旧栗太郡は、栗東という地名が「栗太郡の東」に由来するように、大津市の瀬田川より東側、草津市と栗東市の全域、そして守山市の一部(物部地区)にまで跨っていた。この旧栗太郡一帯は、豊かな宗教文化が花開いた地域として知られ、その中心の一つが金勝寺だった。
令和5年(2023)は、金勝寺を開いた僧・良弁(689~773)の没後1250年の記念の年(1250年御遠忌)だったが、持統天皇3年(689)に相模国(神奈川県)に生まれたとされる一方で、近江国(滋賀県)の生まれという説もあり、その生誕、出身についてはよく分かっていないので、御遠忌のみ営まれるようだ。
法相学を学んだ良弁は、行基とともに東大寺(奈良市)の大仏造立の際に中心的な役割を担い、大仏開眼供養の後、東大寺初代別当に就いている。最晩年の宝亀4年(773)に僧正に任命されたことから、一般には良弁僧正と呼ばれる。
良弁が金勝寺を開いたのは天平5年
その良弁が金勝寺を開いたのは、天平5年(733)のことである。聖武天皇の勅願により、平城京(奈良市)の鬼門(東北)を守る国家鎮護の祈願寺として開かれた。その後、弘仁6年(815年)嵯峨天皇の勅願を受け、興福寺伝灯大法師願安により、大伽藍が建立され、大菩提寺と称した。8世紀中頃までに近江の25別院を総括し、法相宗興福寺の山岳仏教道場でもあった。
その後、天長10年(833年)仁明天皇により、鎮護国家の僧侶を育成する官寺である「定額寺」に列せられたが、その折の勅願の題字が、金光明最勝王経の金勝陀羅尼品の「金勝」であり、金勝山金勝寺と改称した。寛永9年(897年)宇多天皇は、国費支給による学業僧である年分度者試度の太政官符を下賜せされ、菅原道真公が勅命により登山されている。(続日本書紀)
歴代天皇は論旨を下し、仏燈料を施入せしめられ、源頼朝、義経、足利尊氏、義詮等の武将は下知状を下され、当山を保護してきた。
織田信長の安土へ
室町時代、栗太郡河辺(川辺)出身の僧・隆堯(1369~1449)は、金勝寺に草庵(浄厳坊)を構えた後、東坂にも草庵を開いたのが現在の阿弥陀寺である。隆堯は東坂の草庵を開く際、阿弥陀立像を本尊とした。この像は、隆堯が伊勢神宮で修行した際に天照大神から授かったとされる「天照仏」であり、その後、阿弥陀寺は近江の浄土教団の中心的な役割を担っていく。
戦国時代も終わりに近付いたある日、金勝山が歴史の転換点に大きく関わる出来事が起こる。織田信長(1534~1582)が、金勝山で鷹狩りを楽しんだ際に、阿弥陀寺第8世・応誉明感と出会う。その人柄に感銘した織田信長の命により、天正6年(1578)、応誉明感は安土へと移った。
これによって近江の浄土教団の中心としての阿弥陀寺の役割は安土の「浄厳院」へと移っていくことになるのである。その浄厳院の名は、隆堯が金勝寺に構えた草庵・「浄厳坊」に由来し、その山号は「金勝山」。金勝山・金勝寺とのゆかりを今に伝えている。
山道から仁王門、正面の本堂、手前右の二月堂へ
16世紀末の大火により、残念なことに全ての堂がことごとく焼失してしまったが、その後徳川家康の時代に再建の懇願をしたものの実現には至らなかった。現在の本堂は約400年前の仮堂であり、全盛期とはかけ離れた寺容ではある。消失を免れた寺宝の本尊釈迦如来坐像、軍茶利明王立像、虚空蔵菩薩半跏像、毘沙門天立像、地蔵菩薩坐像などは、この本堂や二月堂、そして山下の里坊に安置されている。

参道を登りつめると仁王門、そして一段高く正面に400年以上仮をつとめる本堂、その手前右に二月堂が立っている。本堂の左側の虚空蔵堂(写真)に安置されている木造虚空蔵菩薩半跏像は、知恵と福徳のある菩薩で「十三詣りの仏」として信仰されている。

道の駅「こんぜの里りっとう」へ
金勝寺に行くには、名神高速道路の栗東ICを降りて栗東市内から県道55号線、県道12号線(栗東信楽線)にて信楽方面へ向かう。しばらくして住宅地を抜けると、右手に緑に囲まれた日本中央競馬会・栗東トレーニングセンターの施設が見えてくる。
さらに進むと、左前方に阿星山、正面には頂上付近に金勝寺がある竜王山。これに向かって進むのだが、やがて道は、小さな水田に囲まれた曲がりくねった山間部の道へと入り、葛折の道の途中に、道の駅「こんぜの里りっとう」がある。

この辺りは冬になると雪が降る日も多いので、1月2月に訪れる際は冬用タイヤの装着は必須である。ちなみに私は年中スタッドレス(笑)。今回私はそのまま山道の急坂を上り、先に金勝寺に行って、それから道の駅に戻ってきた。

道の駅の駐車場は、施設規模なりで、どこに停めてもトイレや施設までの距離はたいしたことがないので、便利だ。

トイレは、古いなりによく清掃していただいていてありがたい。



休憩環境は抜群である。






アウトドアを楽しむ道の駅
「こんぜの里りっとう」は、自然を満喫することができる道の駅だ。 この一帯は、全国植樹祭も開かれた「金勝山県民の森」で、周辺を木々で囲まれた緑の広場があり、緑の公園として滋賀はもとより奈良、三重の県民にも親しまれている。




このあたり一帯は野鳥観察ポイントでもあり、秋から冬には山麓に降りてくるカラ類や冬鳥ルリビタキ、トラツグミ、ウソなどが見られる。秋にも来たので、一部紅葉の写真も。


一般的な道の駅施設の物産館やレストランも備えているが、建物はかなり古い。
トレセングッズとジビエ商品が充実

物産館は、一般的な道の駅と比較すると小規模である。

珍しいのは、栗東トレセンとコラボした商品。 実際にレースで使われたゼッケンを用いたトートバッグなどが販売されている。 値段は1万円程度。さほど有名な馬ではなくても馬名が入ったゼッケンのトートバッグは少し高くて1万5000円以上する。縁起物の「馬勝ったハンカチ」「馬勝った缶バッチ」はワンコイン圏内で、手が出しやすい。勝負事が好きな人はぜひ。



ジビエ、特に猪肉を使った商品も本駅の名物だ。「猪突猛進カレー」「猪カレー」「猪肉缶詰」等がある。 その他「栗東いちじく」、滋賀県の伝統商品である「丁字麩」「味付き赤蒟蒻」、近江牛肉を使った「近江牛ごはんだれ」「近江牛ニンニク肉味噌」も美味しそうだ。
「猪肉コロッケ」が名物のレストラン



レストランは定食類と麺類が中心。定食類では「とんかつ定食」「唐揚げ定食」等、 麺類では「ざるそば」「山菜うどん」等。 猪肉がトッピングされた「こんちゃんラーメン定食」「こんちゃんうどん定食」猪肉に野菜を合わせて煮込んだ「しし丼」、季節限定(11月~3月)にはなるが「ぼたん鍋定食」などは、本駅ならではだ。

テイクアウトできるものとしては、「猪肉コロッケ」。 栗東いちじくを使った「いちじくソフト(3月中旬~11月限定)」もある。