「角力灘」の南に浮かぶ「軍艦島」を右手に「野母半島」を縦断。道の駅「夕陽が丘そとめ」から(トイレ△仮眠○休憩○景観◎食事○設備○立地○)

ご存知「軍艦島」と呼ばれるようになった島の名は、端島。
長崎の離島航路や連絡船の発着地・大波止港から直線距離で南西方向19㎞、野母半島からは4.5㎞にある端島は、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになった。

元は「瀬」でしかなかったが、埋め立てによって、南北に細長く長さ約480m、幅約160m、周囲1.2㎞、面積約6.3haの人工島となった。島全体は護岸堤防で覆われ、海岸線は直線的だ。

なぜこんな島が作られたかというと、石炭が掘り出せたから。

1810年に石炭が発掘されて以来、炭鉱で採炭される石炭は八幡製鐵所の製鉄用原料炭として供給し、日本の近代化を支え続けてきた。

その後エネルギーの主役は石炭から石油へと移り、戦後初めてのマイナス成長となった1974年1月15日に閉山。4月20日に全島民が島を離れ、その後は無人島になった。

軍艦島(端島)に一般の観光客が渡って一部区域を見学できるようになったのは2009年のこと。

私も一度だけ立ち入ったことがあるが、もう2度と行きたくない。その時も完全な廃墟だったが、石炭を掘り尽くすとなんらの後片付けもせずにそのまま放置されたそんな場所など見ても、寂しく虚しい気持ちにしかならないからだ。

今回の旅では、朽ち果てゆく廃墟の街を遠目に眺めた。

日本最先端だった未来都市は、今や廃墟

石炭の採掘には多くの人手が必要であり、船で通勤すると大変だったため、採掘する人々が島で暮らせるようにアパートが次々に建てられていった。
人や建物が増えていくごとに埋め立ても進み、最終的に端島は、元々の面積の3倍にもなった。
それでも高層のアパートが必要となり、日本で初めて、鉄筋コンクリートのアパートが建てられたのだった。

日本初の鉄筋コンクリートのアパート

最盛期の1960年になると、狭い島内に5267人もの人々が暮らし、ダントツ世界一の人口密度となった。
島内にはアパートだけでなく、売店・病院・理髪店・飲食店、映画館やプール、学校など、生活や娯楽に必要な施設が作られ、島内で不自由ない生活が送れるようになっていった。
炭鉱で働く人々は所得が高く、カラーテレピも普及率が10%しかなかった時代に、島内では100%の人が所有していた。
当時の最先端の技術を駆使したエレベーターがあるなど、進歩的で裕福な、当時の日本最先端で「未来都市」の生活がそこにはあった。

最盛期には世界一の人口密度を誇った「軍艦島(端島)」

炭鉱の閉鎖、無人島、そして世界文化遺産へ

しかし主なエネルギー源が石炭から石油に変わったことをきっかけに、軍艦島は沈んでいく。
1974年1月15日に炭鉱が閉鎖となり、同年4月20日には全島民が島を離れた。

無人島となった「軍艦島(端島)」は、安全面を考慮して、一般立ち入りは2009年まで35年間禁止された。この間、2001年には所有者が「三菱マテリアル株式会社」から長崎市高島町に変わり、現在は長崎市が所有している。
そして10年前の2015年。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の1つとして、世界文化遺産に登録された。

世界文化遺産にもなった「軍艦島(端島)」
日本初の構造を兼ね備えた「ドルフィン桟橋」
日本一高層だった7階建ての端島小中学校の廃墟
日本一高層だった7階建ての端島小中学校。当時最先端だったエレベーターが設置されていた。今や廃墟でしかない。
見学可能なエリアの中で最も近くで廃墟を見られる「第二見学広場」

そして2015年。
私に言わせれば、カラスが残飯を食い散らかしたゴミ捨て場も同然と思うが、それがなんと世界文化遺産に登録された。

崩れ落ちるままに、再び立ち入り禁止の無人島へ?

しかし、実は軍艦島は、いつまで維持できるかわからない。

軍艦島は常に潮風を浴びている上に、台風が来ると強い風と高い波に襲われる。潮風と海水に含まれる塩分は、鉄筋コンクリート造建築の最大の敵。建物に染み込んだ塩分が鉄筋を腐食し、劣化を進める。

かつて島にあった映画館は、1991(平成3)年の台風で大破。世界遺産登録の一報が届いた時には瓦礫となっていた。

国内最古の鉄筋コンクリート造集合住宅であり、築110年の30号棟もじわじわと崩れ落ちており、西側の壁や床の崩落は甚だしいという。

日本最古の鉄筋コンクリートで作られた「アパート30号棟」
日本最古、つまり日本最初の、鉄筋コンクリートで作られた「アパート30号棟」

現在、軍艦島には30棟ほどの大型建築物があるが、半数以上は耐震性能が著しく劣化している。

これから10年、20年の時が経てば、軍艦島の多くの建造物が崩壊し、建物が密集した景色は間違いなく変わっていく。

では建物の延命措置が行われず、多くが崩壊してしまったら、島はどうなるのだろうか。

100年後の軍艦島

先例がある。

実は軍艦島の隣に“そうなってしまった元炭鉱島”があるのだ。「100年後の軍艦島」と呼ばれている中ノ島は、軍艦島から直線距離でわずか700メートル。古くは炭鉱だったが、上陸が難しいため、その存在はほぼ知られていない。

中ノ島を所有していたのは軍艦島と同じ「三菱」。

同社が中ノ島を入手して採掘を始めたのは1884年。軍艦島を買収したのは1890年であり、中ノ島では軍艦島より6年早く本格的な採掘が始まっていた。

しかし坑道での出水があまりに多いため、三菱は9年で採掘を断念。隣の軍艦島に勢力を注ぐことにした。その結果、元々中ノ島より小さい「瀬」つまり岩礁でしかなかった軍艦島は、埋め立てに埋め立てを重ねてあの姿になったのだ。

見捨てられた中ノ島もまた、軍艦島が閉山すると放置され、現役当時の炭鉱施設は廃墟化していった。稼働していた140年前、海岸沿いに築かれた人工地盤はほとんど崩れ落ち、その上にあった工場施設などは建物跡を確認するのも困難に。高台にあった火葬場と公園は緑に飲み込まれている。

手を入れなければ、軍艦島も100年後にはこうなるだろう。

中ノ島は、「100年後の軍艦島」の姿なのである。

道の駅「夕陽が丘そとめ」

道の駅「夕陽が丘そとめ」から軍艦島までは、南に直線距離で30キロ弱。

国道202号線から499号沿いに、美しいリアス式海岸、角力灘の景色を見ながら延々長距離ドライブを楽しむと、軍艦島は遠く、ほぼ常に視界に入ったままだ。

道の駅の施設は物産館、農作物直売所、レストラン。少し離れた所に遠藤周作文学館がある。

駐車場は、リアス式海岸に沿って、細長く。

トイレは、とても小さなものだ。

休憩場所としては、レストランぐらい。レストランではパスタ中心の料理がバイキング形式で楽しめる。

あとは敷地内からの景色がいいぐらいで、大した休憩環境ではない。

なので、海岸沿いに10分くらい歩いて、遠藤周作文学館でゆっくりするのがおすすめだ。

遠藤周作の代表作「沈黙」に登場するトモギ村のモデルになったのがここ外海(そとめ)町で、その縁もあってこの地に資料館が設立された。

施設の中には喫茶店があって、美しい海を見ながら軽食を楽しむことができる。

物産館ではド・ロ様の名を冠する土産品あるが、ド・ロ様とは明治時代に司祭として来日したマルク・マリー・ド・ロ神父のことで、外海町の開拓と発展に大いに寄与した人だという。

「ド・ロ様そうめん」「ド・ロ様パスタ」などが特産品として販売されていた。

農作物直売所では柑橘系果物が目につく。

施設の外の出店で販売されている「夕陽みかんソフトクリーム」も人気があるということだが、この日は休み。

軍艦島を遠く眺めながら権現山展望公園へ

499号線に入って15キロほど走ると、夫婦岩へ。

さらに走ると、軍艦島資料館がある。

ここからの軍艦島はこんな感じ。少しズーム。

野母半島のドライブも野母崎で行き止まり。野母崎港から権現山展望公園に向かう。

日本最西南端に位置する標高198mの山頂は、東に天草灘、西に五島灘、南に東シナ海を一望でき、朝陽と夕陽の美しい場所である。
眺望が良いため、1638年(寛永15)江戸幕府の遠見番所が設けられ、1895年(明治28)には海軍望楼、太平洋戦争時は電探基地・高射砲陣地が設置された。終戦後は、米軍のレーダー基地となり、現在も自衛隊が演習を行っている。

展望台には、国境のない世界地図を表現した「発起の鐘」がある。中には広島平和公園にある「悲願の鐘」の夫婦鐘「まごころの鐘」が吊るされ、鐘を鳴らして人類永遠の平和を願う場となっている。

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右中央の入り江が野母崎港、奥に長崎市が遠く見える。

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大物が釣れるという、釣り人には有名な三ツ瀬が見える。

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三ツ瀬から右には、左から端島(軍艦島)、中ノ島、高島が。炭鉱操業時はこの海面下に炭層があって、網目のように坑道が伸びていたのだ。

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主要都市の方角、距離を示す案内板を見ると、東京950km、上海780kmとなっている。ここからは東京より上海の方が近いのだ。

気を引き締めねば!