
石田三成は、1560年(永禄3年)坂田郡石田村(現・長浜市石田町)に生まれ、関ヶ原の戦い西軍大将として敗れたあと処刑された1600年(慶長5年)10月1日までを生きた戦国武将です。
三成は、豊臣秀吉のもとで戦乱を治め、世の中の平和を実現しようと太閤検地など多くの政策に携わり、制度を整えていった時代の立役者でした。
そして、最後まで豊臣家に忠義を尽くし、秀吉の死後、天下を狙った徳川家康と対立。天下分け目の「関ヶ原の戦い」で西軍を率いますが惨敗し、京都六条河原で刑死しました。
以降、徳川から徹底的に悪者にされ、秀吉の家臣時代には出来過ぎを疎まれ堅物で人望がないともされてきた石田三成。
しかし私は、賢明で優しく、何より最期まで信念を持って生きた彼が大好きで、彼の居城だった佐和山城跡と、その佐和山城の部材を使って建てられた彦根城(写真)にはしばしば訪れて、彼を偲んでいます。
初対面でのおもてなし 「三献の茶」
石田三成は永禄3年(1560)に、坂田郡石田村(現・長浜市石田町)で、在地の土豪・石田正継の次男として生まれた。その頃の湖北は、浅井氏の勢力が伸長していたが、近隣国の美濃や尾張では、織田信長の台頭によって時勢が大きく動こうとしていた。
三成は少年時代を隣町(米原市朝日)の観音寺に預けられ、幼年時代を過ごしていた。


大原観音寺の門の西側には蓮池があり、その周囲を巡る遊歩道の桜並木は見事だ。

元亀元年(1570)三成10歳の時、姉川の戦いがあり、湖北をめぐる情勢は大きく変わる。浅井氏滅亡の後、信長の命を受けて湖北を統治したのは羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)だった。
観音寺は、石田町からほど近い米原市朝日にある。長浜城主になって間もない秀吉は、鷹狩の帰りに、当時三成が預けられていた観音寺に立ち寄った。
のどが渇いていた秀吉が、出てきた小姓にお茶を出してくれるように頼むと、小姓は大きめの茶碗にぬるめのお茶を入れて出した。すぐに飲み干してしまった秀吉はもう一杯頼む。すると今度は茶碗半分ほどに先ほどよりもやや熱いお茶が出てきた。秀吉は気になってさらにもう一杯頼むと、出てきたのは小さな茶碗に入った熱いお茶だった。渇いた口でも飲みやすいぬるめのお茶からはじめ、徐々に熱くしたものを出す。飲む相手を思いやったおもてなしをしたこの小姓こそ、石田三成だった。三成の生誕地の近く、長浜駅前には、秀吉と三成の観音寺での出逢いを再現した「殿様と茶を献じる小姓」の像がある。また、観音寺境内には三成がお茶の水を汲んだとされる古井戸も残っている。

秀吉に気に入られた三成は、長浜城に連れ帰られ、秀吉のもとで武将としての人生を歩み始める。三成は秀吉の帷幕にあって次第に活躍の場を広げてゆき、天正10年(1582)に織田信長が本能寺の変で最期を遂げると、三成はいよいよ頭角を表すのである。
智将・三成出世のはじまり 「賤ヶ岳の戦い」
織田信長亡き後、行われた清州会議を経て、信長にかわって天下取りを目指した羽柴秀吉と柴田勝家の直接対決となる。
三成はこの戦いにおいて諜報役を担い情報の収集と分析を任される。三成は敵方のことや地形、気候などあらゆる情報を集めて分析。

賤ヶ岳山頂から奥琵琶湖を望む。写真中央、はるか遠くに竹生島も見える。
山頂から見下ろす余呉湖。合戦で地に染まった湖だ。

大将である秀吉に伝え、それを元に的確な戦略が練られたことで、秀吉軍は勝利。秀吉の天下人への道がほぼ決定づけられた。
スポーツしかりビジネスしかり。あらゆる場面で大事なのは、情報を集め的確な判断をすることだが、三成は情報を扱い分析するのが大の得意だった。「情報が人間を熱くする」は、私が在籍していた頃のリクルート企業CMの決め台詞だが、「情報を制するものが勝負を制す」ということを、三成はすでに戦国時代に知っていて、実践していたのである。
秀吉と家康の直接対決
三成は翌年、秀吉と家康の直接対決となった小牧長久手の戦い(1584)にも挑む。

伊木山城から犬山城と木曽川を望む。小牧・長久手の戦いの際、家康と手を組んだ信長の次男・織田信雄の家臣で犬山城主だった中川定成は伊勢に出陣中で不在。留守居として定成の叔父・清蔵主(せいぞうす、龍泉院の住職)が城を任されていた。1584年3月13日の夜、池田恒興・元助らが木曽川を渡り、犬山城背後の急峻な崖側から城に侵入、急襲した。手薄であった犬山城はわずか一日で落城する。
4月になると家康の本拠を狙った秀吉軍の「三河中入作戦」が行われ、9日には、池田恒興、森長可、堀秀政らが長久手へと進出した。しかし、この作戦は家康に察知され、秀吉軍は大敗。池田恒興や森長可らが戦死した。この4月9日の戦いは家康の大勝利だったが、その後、秀吉軍は尾張西部へと戦線を後退させつつ、信雄領の伊勢を攻撃する。以後一進一退の攻防が続いたが、11月に入ると秀吉軍は北伊勢へと進出して戦いを優位に進め、秀吉と信雄の間で和睦が成立、長期に渡った戦いは終結を迎えた。
小牧長久手の戦いは、秀吉の三河侵入を防いだ家康と、信雄に勝利して信長後継の地位を得た秀吉、それぞれに意義があった戦いに終わった。しかし政治面では秀吉が勝利を収めたも同然で、秀吉の天下統一事業はさらに一歩進んだのである。
佐和山城主としてきめ細かな民政に着手
事務的な才能も買われていた三成は、天正13年(1585)に秀吉が関白となって天下人としての地位を固めたその時、弱冠25歳にして従五位下治部少輔に叙任されている。
その後も三成は、九州での島津氏との戦いや関東の北条氏との戦いに臨む一方で、豊臣政権の基盤整備に力を尽くし、ついには五奉行と呼ばれる重臣に登りつめていった。
石田三成が再度湖北と深く関わるようになるのは、佐和山城主となった文禄4年(1595)頃からだ。この年は秀吉の甥で後継者と目されていた関白秀次が高野山で自刃に追い込まれた年で、豊臣政権内部で大きな構造改革が行なわれ、三成は次代を担う政権のリーダとしてさらに大きな役割を担っていく。

佐和山城を得た三成は、一方で知行する村々に掟を発行してきめ細かい民政に着手した。三成の出した九カ条あるいは十三カ条からなる掟書は数点が現存しており、為政者としての彼の独自能力を垣間見ることができる。
佐和山城と彦根城
「三成に過ぎたるものが2つあり、嶋の左近と佐和山の城」と詠われたほどの名城が、三成が居城とした佐和山城だ。
佐和山城は古来より近江の要衝を守る城として重視され、織田信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、信長自身も佐和山城を近江制圧の拠点として利用した。秀吉も堀秀政、堀尾吉晴を経て、五奉行筆頭の石田三成を入城させ、佐和山城に重きを置く姿勢は変わらなかった。
天正18年(1590)、石田三成が佐和山城主となってからは山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、山下は東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷・足軽屋敷・町屋などの城下町を形成した。佐和山城は5層の天守を見事に構えていたとされているが、内部は非常に質素なものであったという。大切な嶋の左近に禄の半分を与えたという、いかにも三成らしい城の在り方だ。
その後、三成が関ヶ原の戦いで敗れ、彦根城築城にともなって佐和山城は廃城となるその際に、石垣や建物の多くが彦根城へと運ばれた。こうして城の部材は、井伊直政によって現在も残る国宝・彦根城に多くが転用され、現在彦根城にその威容を見ることができるが、佐和山には遺構のみが残っている。



私は彦根城が大好きで、桜の季節には必ずといっといいほど訪れるが、それは彦根城が三成の居城だった佐和山城の部材によって造られたということが大きい。今はなにも残っていない佐和山城址からは、彦根市街の中に誇らしげに立つ彦根城を眺めることができる。

佐和山は、写真の通りの独立峰である。だから頂上に行けば、周りを見るのに遮るものは何もない。

山頂からは北国街道や東山道、伊吹山はもちろん、南方の犬上郡の一帯をもぐるりと見渡すことができる。


佐和山城は、監視哨としても重要な役割を果たしていた。
「君臣禄を分かつ」、そして「生涯の友」
30歳で佐和山10万石の領主となった三成が、秀吉から4万石の領地を新たに与えられた(最終的には19万4000石となる)とき、三成はたった一人しか家来を増やしていない。その人物こそ、のちに秀吉をして「三成に過ぎたるもの2つあり、嶋の左近と佐和山の城」と羨まれたほどの名士・嶋左近だった。
4万石もの領地を与えられて一人しか家来が増えなかったことを疑問に思った秀吉が、誰をどれだけの禄高で召し抱えたのかを三成に問うて、嶋左近に領地の半分を与えていたことがわかる。秀吉は「主君と家臣の禄高が同じとは聞いたことがないと驚きつつも、「そうでもしなければ左近ほどの名士を部下にはできまい」と納得したと伝わる。嶋左近は義理と人情に厚く、融通のきかない石田三成の下でしばしば口惜しい思いをしつつも決して見限ることなく、軍師として参謀として石田三成を支え、関ヶ原に散っていった。
三成には、年の近い大親友もいた。若い頃からともに秀吉に仕えていた大谷吉継だ。
吉継は、ハンセン病を患っており、関ケ原合戦の頃には頭巾をかぶらなければならないほど皮膚が崩れ、視力も衰えていたといわれている。 今ではご存知のようにハンセン病は治療法も完成されているが、昔(近年まで)は不治の伝染病として差別されていた。
ある茶会で、茶の回し飲みをしていたときのこと、吉継の番のとき、彼の頬から膿みが茶碗に一滴落ちてしまう。ほかの武将たちはどよめき、吉継は茶碗を回せなくなった。そこに三成が「吉継、わたしは喉が渇いて待ちきれない。早く碗を回せ」と言うや否や一気にそのお茶を飲み干してしまったという。常に互いを思いやる二人の絆は真に深いものであり、吉継最期の地・関ヶ原まで運命をともにしたのであった。
生き方は最後までぶれず
秀吉が亡くなると、徳川家康が次の天下人になろうと動き出した。豊臣家を支え続けた三成は、忠義の心から家康の天下取りを阻止するために立ち上がり戦いを挑む。これが有名な「関ヶ原の戦い」だ。

この戦いについてはあまりにも有名だし、戦いの局面を変えた小早川秀秋の裏切り、徳川家康のやり方についても一家言あるが、また関ヶ原については現地にて詳しく書くと思うのでここでは触れない。

関ヶ原の戦いのあと、敗走した三成は近江まで戻り、母の故郷であったとされる長浜市木之本町古橋に、三成を慕ってやまない村人に匿われた。
村人は「集落にある寺では見つかってしまう」と進言。三成が隠れたとされるのが、山中にあるこの「大蛇(おとち)の岩窟」だった。



こうして村人によって必死に匿われた三成だったが、最後は田中吉政によって発見され、捕縛された。
敗軍の将として処刑される直前、三成は最後に水を求めた。しかし警護の人間に水はもらえず、渡されたのは干し柿だった。すると三成は「柿は痰の毒だからいらない」と口にしなかった。「これから死ぬというのに今更毒断ちして何になる」と警護の者達に笑われたが、三成は「大志を持つものは最期のときまで命を惜しむものだ」と相手にしなかったという。41歳の男盛りで命を絶たれる間際においても、三成の生き方はぶれていなかった。
「大一大万大吉」は、一人は皆のために、皆は一人のために

三成の生き方のすべては、旗印に掲げた「大一大万大吉」に表れている。

関ヶ原合戦図屏風絵より、三成本陣の様子。陣幕や幟旗に「大一大万大吉」が染められている。
石田三成が掲げたのは「大一大万大吉」(だいいち・だいまん・だいきち)。「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(大吉)になれる」という考えをシンボル化したものだ。ラグビーの合言葉“One for all ,all for one.”に通じるものがあって、誰にもとてもわかりやすい。三成が理想に掲げたのは、チームワークに溢れる世の中だったのだ。
ところが、この印は、江戸時代前期の史料からすっかり消えている。関ヶ原の戦いで勝利し天下を治めた徳川家康が、敗者・石田三成を徹底的に悪者として貶めるため、あるいはその理想の輝きに嫉妬して、この考え方を消し去りたかったと考えられる。「歴史は勝者が作る」と言われるが、敗者となった石田三成もまた、勝者に真実を貶められた一人であった。
生まれ、最後にまた帰ってきた湖北
石田三成は、湖北の地との深いゆかりがある。それは、まず三成を輩出した石田一族の根拠地が現在の長浜市石田町付近であったこと。次に、湖北が、三成がその所領として得た地域の中にあったこと。そして、関ヶ原で敗れた三成が山中を逃れて最後にたどり着いたのもこの湖北であったこと。
長浜市石田町には、石田氏の屋敷跡と推定される場所や、三成の産湯に使われたという井戸の跡などがあり、また「治部」という三成にゆかりがあると思われる小字名も残されている。
町内には石田三成の出生地の碑などが建てられていて、石田町の八幡神社の背後には、石田一族の供養塔が祀られている。昭和になって建てられた供養塔の周囲には、徳川家の追及を恐れて破壊された石田氏ゆかりの五輪塔の残欠も数多く祀られている。
石田町の石田三成の生家跡に建てられ、三成の生い立ちやその生き様について様々な展示がされているのが石田会館だ。地元の有志の方による、三成にまつわるいろいろな話も聞くこともできる。
道の駅「近江母の郷」
石田三成の生誕の地、少年期を過ごした観音寺、最後に捉えられた場所、居城とした佐和山。それら三成ゆかりの地を訪れる際、ちょうどそれらの真ん中にあって便利なのが道の駅「近江母の郷」だ。

北陸自動車道の米原ICから国道21号線→国道8号線を通って北西へ、 その後、一般道を経由して別名「さざなみ街道」と呼ばれる県道2号線へ。 その県道2号線を北に500mほど進んだ場所に道の駅「近江母の郷」はある。

琵琶湖は本駅から県道を挟んで向こう側、歩いてすぐに湖岸に行ける。


県道の交通量が多い点が難点だが、幸い目の前に横断歩道があるので、道路を渡って湖の畔まで行ってみよう。 眼前に広がるのは壮大な琵琶湖の姿だ。 視界が良い日は、くっきりと対岸の高島市が見える。本日はちょっと到着時間が遅くなってしまったが、ここからは琵琶湖に沈む美しい夕陽も堪能できる。 琵琶湖の水質は北に行くほど透明度が高いと言われ、本駅付近から長浜、さらに高島あたりの水は相当に綺麗である。
さて 道の駅の駐車場は、施設規模の割に広いので、混み合って駐車に困ることはないだろう。写真のように、平日の日没時には、ほとんど車の姿がない。


トイレはいい雰囲気。清掃も行き届いていて、ありがたい。感謝。


ドライブ中の休憩目的としては、よくできていると思う。








道の駅「近江母の里」はドライバーの休憩施設としてだけではなく、「ビワイチ(琵琶湖一周サイクリング)」を楽しむサイクリスタにとっても貴重な休憩所となっている。昼間には、車利用者よりも汗まみれのサイクリスタの姿が目立つほどだ。
イベントにスポーツに…多目的な道の駅「近江母の郷」
道の駅「近江母の里」には、農作物直売所を兼ねた物産館、レストラン、ふれあいドーム、ふれあい広場、そしてテニスコートがある。 道の駅の役割だけでなく、ふれあいドームにおけるイベントの開催、各種スポーツ大会の開催など、 スポーツやイベント施設として市民に愛されているようだ。本駅に関する古い記事には宿泊が可能とあるが、現在宿泊施設は閉鎖になっている。


道の駅の物産交流館さざなみ」の規模は小さめ。農作物直売コーナーも小規模で、販売されている農作物は20種類ほどだったが、私的にはこのぐらいの規模の方が、野菜もお土産も選びやすい。
道の駅レストランでは「皿そば」が名物
本駅にはレストラン「泉希」があるが、11時~13時45分(L.O.)と、営業時間が非常に短い。夕暮れ時に着いた私など、とうにお呼びでなかった(笑)
営業時間内に行けば、5枚の小さな皿に少しづつ蕎麦が盛られていて、1枚ずつ異なる薬味で味わうこの地方ならではの料理「皿そば」が食べられる。1皿目は汁で、2皿目は塩で、3皿目はネギとわさびで、4皿目は大根/とろろ/卵で、 締めの5皿目はそば湯で味わうという。これで1,000円でお釣りがくるというから素晴らしい。