「大久保諶之丞」がつくりし道を走って、生誕の地「たからだの里さいた」の露天風呂へ(トイレ△仮眠◎休憩◎景観○食事○設備○立地◎) 

「笑わしゃんすな百年先は 財田の川から川舟出して 月の世界へ行き来する」。 これは、大久保諶之丞が雄大な将来を歌った都々逸です。

道の駅を止まり木に、日本全国を旅していますと、私たちはこの国を縦横無尽に走る道路を当たり前のように利用させていただいているのですが、せめてこれらをつくた先人の尽力を知って感謝することを忘れてはならないと思います。

長い間、狭く険しい山道だけしかなく、そのため経済や文化の発展に遅れをとって明治になっても人々の貧しい生活が続いていた四国を、道路の力で大きく変えた人、それが冒頭の都々逸を歌った大久保諶之丞その人です。

彼は、日本にまだ車が一台もなかった200年前に、香川県の水不足を解消する香川用水や四国から瀬戸内海の島々を通って本州と結ぶ瀬戸大橋、 讃岐と土佐を結ぶ道路などが必要だと訴え、提唱するだけでなく私財を投げ打って実行、それらを成し遂げようとしました。

大久保少年11歳の目の前で起こった悲劇

大久保諶之丞は嘉永2年(1849)に現在の香川県三豊市財田町に生まれた。大久保が生まれ育った財田は、阿讃山脈のふもと。隣の徳島県や高知県に行くためには、険しい猪ノ鼻峠を越えなければならなかった。大久保は幼い頃から、人々が踏みわけ道程度の曲がりくねった道を苦労して峠越えしている様子を見て育ったが、大久保が11歳のときに目の前で最悪の出来事が起こる。

母・曽乃が重い病気と聞いて、大久保の乳母ヤクがどしゃぶりの雨の中を駆け付けてきた。 それを迎えに出た大久保がヤクを見つけたまさにその時、土砂崩れ起こり、ヤクはその土砂に押し流され大久保の目の前でかけ落ちていったのだ。大久保はこのときの光景が忘れられず、もう少し道幅が広ければヤクは死なずにすんだと、ずっと思い続けることになる。

私財より社会的財産を大切だという考え

四国は長い間、狭く険しい山道だけしかありませんでした。そのため、経済や文化の発展も遅れてしまい、明治になっても人々は貧しい生活をしていました。 商工業を盛んにして文化を進めるには、道路の開発が何よりも必要だ、というのが大久保の考えだった。

大久保家は代々社会奉仕に尽くしてきた財田の大地主であり、大久保も奉仕の精神を受け継いでいた。大久保は23歳で村役場職員となり、26歳頃から地方道の新設・改良を手がけ、15.6kmにも及ぶ道路改良工事の費用のほとんどを、なんと大久保家の負担で行った。この後、郡役所勤務を経て、県会議員となり、さらに大きな仕事を成そうとした。

35歳にして「四国新道」を提唱

明治17年(1884)、大久保は四国新道を提唱する。35歳の時だった。大久保は四国新道への思いを次のように記している。

「我讃岐物産鮮なきに非ず海運不便なるに非ず、土地平坦ならざるに非ざれも独り陸運の便なきに因るなり、茲に於て讃岐の富強を図らんと欲せば、物産を繁殖せしめ、通商の道を易ならしむるにあり、通商の道を昌んにし物産の繁殖を謀らんと欲せば運輸の便で謀るにあり。運輸の便を謀らんと欲せば道路を開さくするにあり。然るに我四国に於ける従来至便の良道なきを如何せん。」

大久保は、四国を発展させるためには、良道が不可欠であることを力説した。当初提唱した四国新道は、香川県の丸亀、多度津から琴平、徳島県の池田、高知県の大杉を経て高知に至る路線はまさに国道32号、33号の骨格だった。

途中、大杉までの道も、大杉から高知へと向かう場所なども、この「大杉」から彼の計画通りに開通した道を実際に南北に走ってみれば、ドンでもない難工事であったかがわかる。しかしどうやったらこんなところに200kmを超える長さの道路工事が進んだのか、私などの想像は全く及ばない。

その後、各県有志との協議などの結果、高知から佐川を経て須崎に至る路線と、佐川から愛媛県の松山・三津浜に至る路線を追加。総延長約280kmで、現在の国道32号(高松市~高知市)、国道33号(高知市~松山市)の原型として完璧なものとなった。

私服を肥やすために政治家になる輩とは真逆の政治家がいた

この四国新道の計画は当時としてはあまりにも壮大で、しかも道路幅は、自動車がまだ日本中に一台もない時代に最大幅員12.6mという広いものだった。百年先を見据えた大久保の四国新道の計画は当時の人々に理解できる人が少なく、反対の世論が沸き起こった。

しかし大久保は四国各県の協力者を求めて奔走。各県関係者を動かし、明治19年(1886)、高知・徳島・愛媛の3県(香川県が愛媛県から分離されるのは明治20年)において四国新道の起工式が行われた。計画発表から着工まで1年数ヶ月という早さだったが、工事は始まったものの道路建設により田畑がつぶされることを心配した農民たちの反対に遭う。大久保は道路ができると人々は道路のそばに家を建てたがるようになり、そうなると道路を広げるにもさらに費用がかかり、工事はますます困難になることを見通していたため、根気強く人々の説得を続ける。また、予想外の出費で工事費がかさんだため、大久保は私費で穴埋めを続けたため、大久保家はその私財を使い果たしてしまったという。

人を身なりで判断するべからず、改めて

明治22年(1889)、難工事のため予算以上の資金が必要となり、大久保は私財を投入し尽くしてなお資金が不足していたため、大久保は香川県知事宛に上申書を提出した。そこには、「公益のため私財を投じてきたが、かつて富裕な家で少しも苦労を知らなかった両親が、今はあばら家に住み、ひたすら事業の成功を祈ってくれているが、両親にこれ以上の苦労をかけられない」と記されていた

この上申書に県知事は感激し、予算以上の工事金が交付されることになった。四国新道は、こうして明治27年(1894)に全線開通したが、大久保はその開通を見ることなく、明治24年(1891)に42歳という働き盛りで命尽きた。大久保が亡くなった後、財田に建立された彼の顕彰碑の前で泣き崩れる一人の男がいた。

生前、大久保が四国新道について高知県知事と面談するために県庁を訪れた際、身なりがあまりに粗末だった大久保を罵倒した高知県庁の吏員だった。

のちの郷土の発展に大きく貢献した大久保諶之丞

大久保は四国四県をつなぐ四国新道の建設にその命を燃やし、完成の3年前に燃え尽きて息絶えた。しかし彼は生前、さらに徳島県との県境にそびえる阿讃山脈をトンネルで貫き、徳島県を流れる吉野川の水を讃岐平野に導水する必要性を訴えるとともに、四国と本州を結ぶ瀬戸大橋の構想までを打ち出している。

大久保が計画・構想したもののうち、四国新道は明治27年(1894)に、吉野川導水による香川用水は昭和50年(1975)に完成した。

そして、ついに瀬戸大橋も昭和63年(1988)に完成する。

大久保が構想し、提案したそれぞれが完成した今、それぞれが四国の発展に大いなる貢献を続けている。

裏金議員どもに煎じて飲ませたい、大久保諶之丞の爪の垢

今の世の中では、物事を決める際に論理や合理性が重視される風潮が強い。どんどん過疎化が進行する世の中で石破総理は地方創生を唱えるが、常に短期的な効果や効率性が重視されるため本質的対策に至らない。また、一票の格差是正で過疎化が進む町ほど地方議員が相対的減少が進むなど、地方創生への逆風も吹く。

こうした時代だからこそ、大久保諶之丞のように、遠く先を見越し、大きなスケールで物事を見ることができ、実行することができる政治家こそ必要であろう。

DSCN0403_convert_20140617222232.jpg

この、野良犬が歩いている畦道の先が、大久保諶之丞の生家だ。

大久保諶之丞生家記念碑

政権与党の議員には、「ここを訪れて自らの汚い心を洗い流せ」と。そして、「県会議員の彼が成し遂げたことと、自分の現在地を見つめ直せ」と。さらには「裏金をつくるのならせめて己のためでなく、地方創生のために、少子化対策のために巨額の裏金を使って、自らは牢屋に入れ」と。声を大に言いたい。

年間30万人超が訪れる道の駅は大久保諶之丞生誕の町

道の駅「たからだの里さいた」は、大久保諶之丞が生まれ育った香川県南西部の旧財田町(現三豊市財田町)にある。 長い駅名の由来だが、その昔、瀬戸内海地方が大干ばつに見舞われ五穀が実らず大飢饉に瀕した時、唯一この地だけが豊穣し、その稲穂を天子に献上したが、その際に「たからだ(財田)」の郷名を賜ったという言い伝えに由来していて、現在では地名を「さいた」と読むようになったからこのような長い駅名になったらしい。

高松自動車道の善通寺ICから国道319号線、途中から国道32号線に入って南に17km。駅は平野部と山間部のちょうど境目に立地していて、駅から南側は山道だ。 また、南側から山を越えて徳島自動車道の井川池田ICからアクセスする方法(国道32号線で約15キロ)もあるが、いずれの道を通ろうとも、全て大久保諶之丞の「四国新道」が絡んでおり、それなくしては到着不可能だ。

どうせならぜひ、彼が成した道であることを知った上で、感謝しながら走りたいものだ。駅周辺は田畑に囲まれたとても長閑な環境でありながら、本駅はどこから集まるのか不思議なくらい多くの客で賑わっている。

駅内来客密度の高い道の駅

私は人が極力映らないように写真を撮る(肖像権に配慮)ので、写真からその混雑ぶりはわからないが、この駅では人がいない場所を探すのに苦労した。市の統計によれば年間の来場者は30万人を超える。人数だけ聞けばごく普通だが、道の駅の施設規模を考えると、「密度」が非常に高い。まさに大久保が構想した四国新道あっての今の繁栄である。

駐車場も、施設前は混むようだ。

しかし、奥には広い駐車場があってここは空いているし、さらにはRVパークもあるから、仮眠であろうとガッツリ車中泊であろうと、利用のしかたは自在だ。何しろ、この一帯が静かで長閑。抜群の仮眠環境だ。

トイレは、なかなか味がある。男女兼用に見えるが、中はそれぞれちゃんと分かれている。

休憩スペースは、施設建物の前と、奥に。

コンパクトな建物に農産物販売と特産品販売が共存

物産館も賑わっていた。物産館では、その半分くらいのスペースを割いて地産の農作物を販売している。

物産館の、残りの半分のスペースでは地域の特産品を販売している。「こんぴらさん」関連の商品から、香川を代表する老舗和菓子店「くつわ堂」の菓子、小豆島産のオリーブオイル、香川の酒蔵「金陵」の商品などがずらり。

惣菜やパン類の充実ぶりも目をひいたが、観光客にも地元の人にも魅力的な商品構成となっていて、魅力たっぷり。

讃岐うどんメインに、「食べる」施設は2箇所

道の駅「たからだの里さいた」の「食べる」施設は2箇所。 1つは物産館横にある「うどん茶屋さいた」と、もう一つは温泉施設内にあるレストランの「和み亭」。名物はどちらも讃岐うどんだが、それぞれが買い物客と温泉客とに分かれて対応していて、共存しているようだ。

道の駅の人気を支える温泉は2つのタイプの湯

道の駅「たからだの里さいた」の人気の秘密は、素晴らしい温泉施設「環の湯」があることも大きな一つ。間違いない。ここでは、泉質が全く異なる2つのタイプの湯を楽しむことができる。 1つは「黄金の湯」。財田町に古くからある古湯で、見るからに鉄分が豊富そうな鮮明な赤褐色をしている。 もう一つは「白銀の湯」。こちらは新しく開拓された湯で、Naイオンが多く含まれて白く濁っている。

2つの内湯に加えて、眺望抜群の露天風呂が本当に素晴らしい。

遠くの山々、池で泳ぐ水鳥や、池を取り囲む樹木の景観を眺めながらゆっくり浸かればまさに極楽だ。

紅葉を見ながらの露天風呂はさらに絶景となるので、晩秋の季節には当然だが人が押し寄せる。

この温泉が、なんと大人570円、子供(5歳~11歳)320円、70歳以上のシルバー450円というスーパー料金で日帰り利用できるというのだから、そりゃあ人気があるのは当然だ。

泊まりがけでゆっくりもできる。「湯の谷荘」は、環の湯に併設する、明るく清潔な和室の宿泊施設だ。

温泉施設の一つとしてレストラン「和み亭」もあり、讃岐うどんだけではなく、地元の食材による定食・丼やお子様メニュー、お酒がすすむ一品料理も豊富だ。