
日本が外国から本格的な侵攻を受けた事件、それがご存知、鎌倉時代にあった「元寇」だ。
13世紀に蒙古民族を統一し、東は中国から西はヨーロッパまで、広大なユーラシア大陸に大帝国を建設した元は、朝鮮半島の高麗を服属させたのち、海を隔てた日本にも臣下になれという内容の国書を持たせた使者を何度も送ってきた。
しかし、時の執権・北条時宗を中心とする鎌倉幕府は、これらをことごとく無視し、その要求を拒んでいた。怒った元の皇帝・フビライは、日本に攻め込むための兵と食糧の供出、そして軍隊を運ぶ船の建造を高麗に対して命じ、文永11(1274)年に最初の出兵である「文永の役」が勃発した。
文永の役・蒙古襲来から令和6年(2024)で750年を迎えた。
歴史の教科書では、その後に起こる弘安の役において日本の武士たちが博多湾で懸命に戦い、最終的には神風が吹いて元軍が退散したと何やら御伽話のように扱われているが、とんでもない。
もし神風が吹かなかったらどうなっていたというのか?
神風あるいは今で言うならアメリカ頼みでいいとでも言うのか?
博多湾での激しい攻防、多くの犠牲者、壱岐でも元軍との決死の戦いが繰り広げられ、おびただしい犠牲者が出たことは、もっとリアルに教えた方がいい。
文永の役
文永11(1274)年10月3日、高麗を出発した2万5千の元軍(蒙古軍・高麗軍)を乗せた900隻の船団は、10月5日に対馬を襲うと、14日には壱岐へと侵攻。夕刻、島の北西部にある浦海(うろみ)、馬場先(ばばさき)、天ヶ原(あまがはら)の海岸から上陸した。
文永の役で元軍を迎え撃ったのは、壱岐の守護代を務めていた平景隆(たいらのかげたか)だった。
景隆は居城である樋詰城(ひのつめじょう)からおよそ100騎の家臣を従えて出陣すると、庄の三郎ヶ城前の唐人原(とうじんばる)で元軍と激突。約400人の元軍と対峙した景隆らは多勢に無勢もあって退却を余儀なくされ、樋詰城まで引き揚げたが、翌15日には早朝から元軍に取り囲まれて総攻撃を受けて全滅した。
壱岐に上陸した元軍は、武士だけでなく住民も見つけ次第殺戮。老若男女、赤子も。
元軍が去った後の島には、死体が山のように積み重なり、生き残った人々は亡骸を集めて埋葬し、塚を作った。塚はあまりに多くの遺体を埋めたことから「千人塚」と呼ばれ、文永の役で元軍が侵攻したといわれる勝本町新城には、その遺構が大切に保存されている。
元軍の異質な戦い方に大苦戦
壱岐を攻め落とした元軍は、2週間後の10月19日、博多湾へ侵攻を始めた。
すでに対馬と壱岐が陥落したことを知らされていた本土の御家人たちは、それぞれの陣地で守りについていた。
そして元軍が上陸を始めると現在の福岡市赤坂付近で大激戦となったが、大苦戦を強いられる。
当時日本の武士の戦い方はまだ一騎打ちが尊ばれていたのに対して、元軍はドラや太鼓を合図に集団で攻めかかる戦法であり、“てつはう”と呼ばれる炸裂弾を使って日本の武士たちが乗る馬を驚かせ、混乱させた。さらに元軍が用いた短弓は、日本の弓矢のおよそ2倍の射程距離があり、矢尻には毒が塗ってあった。

対する日本の武士たちは、大宰府守護(防衛軍司令官)の少弐景資(しょうにかげすけ)を中心に必死に戦った。元軍No.2の副司令官に重症を負わせたのが幸いしたのか、10月21日になると元軍は忽然と姿を消し、立ち去っていった。
神風が吹いたのはその後。
博多湾から引き揚げた元軍を猛烈な暴風雨が襲い、船の大半は沈没したといわれている。
元の使者を切り捨て元寇防塁を築いて
文永の役の翌年、日本を属国化することを諦めない元の皇帝・フビライは、再び日本に使者を遣わせた。
ところが執権・北条時宗は毅然とした態度を示そうとしてこの使者を斬り捨ててしまう。
そして、当然怒り狂った元が2度目の侵攻をしてくるであろう事態に備えて、博多湾沿岸に石塁を築き始めた。
文永の役から2年後の建治2年(1276)に博多湾の海岸線に築かれた石築地(いしついじ)が、元寇防塁である。長垂海岸から小戸海岸にかけての約2.5kmの間、白砂と松原の境を元寇防塁は縫うように走っていた、これが生の松原地区元寇防塁だ。
『蒙古襲来絵詞』の、肥後の御家人竹崎季長が防塁の前を馬上で進む場面をご存知だろうか。描かれているのは、この生の松原の情景である。ちなみに防塁の一部は築造時の高さに復元されて、見学できるようになっている。
昭和43年に発掘調査が行われて、海への傾斜面に幅1~1.5m、残高1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補強していることが判明した。また積み上げられた石の種類が、西側は長垂海岸に見られるペグマタイト(花崗岩)、東側は小戸岬一帯の砂岩ときれいに分かれていたが、史料によればこの付近の防塁構築は、姪浜が肥前国、生の松原が肥後国とあり、この石材の違いは両国の分担地区を示す可能性があるという。大変興味深い。
弘安の役では14万もの大軍の本土上陸を阻止
弘安4(1281)年、使者を切り捨てられ怒り狂った元軍が、想定通り侵攻してきた。「弘安の役」である。
しかしこの2度目の侵攻は、前回とは比較にならない規模だった。
軍船900隻に4万の兵を乗せた東路軍と、軍船3千500隻に10万の兵を乗せた江南軍の大軍を二手に分けて侵攻してきたのである。
壱岐には東路軍が5月21日に瀬戸浦から上陸。瀬戸浦を見下ろす高台にあった船匿城に居城を構える少弐資時が元軍を迎え撃って奮戦したが4万の敵には刃が立たずに壮絶な最期を遂げた。
船匿城が落ちると、元軍は例によって島の人々をも虐殺していく。弘安の役の舞台となった壱岐東部・芦辺町周辺(瀬戸浦、箱崎など)には、犠牲者を葬った千人塚が残っている。
また、文永の役で主な戦場となった勝本町周辺や、弘安の役で主な戦場となった芦辺町周辺には、元軍に追われた人々が身を隠したといわれる「隠れ穴」があったが、子どもの泣き声で見つかってしまい皆殺しにされたり、怯えて泣き止まない子どもは肉親の手で殺されたとの記録もある。
元寇の脅威は壱岐では何世代にも渡って語り継がれ、泣き止まない子どもに「ムクリコクリが来るぞ」と言って、いうことをきかせようとする習慣が生まれた。ムクリは蒙古兵、コクリは高麗兵を意味し、元軍のことを指す。
壱岐に壊滅的な打撃を与えた元の東路軍は、その後、博多湾へ侵攻したが、沿岸にはこの時のために築かれた石塁があり、なかなか上陸することはできないでいた。
これに対して、日本の武士たちは夜陰に紛れて小船で元の軍船に漕ぎ寄せて夜襲を仕掛けるなど、元軍の侵攻をあの手この手で食い止め、元軍の上陸を防ぎ続けた。
神風に頼らない国防を
強行突破をあきらめた東路軍は、壱岐方面へと向かい、江南軍との合流を図ったが、勢いに乗る日本の武士たちは船団を編成して追撃。6月29日から7月2日にかけて元軍に大損害を与えた。
7月30日、元軍は東路軍単独での上陸をあきらめ、平戸島で江南軍と合流し、改めて博多へ攻め入ろうとした。
そこに、元軍の船を大型の台風が襲った。またも「神風」が吹いたのだ。
というか、台風シーズンの始まり、今なら台風1号あたりだろうか、夏台風がやってきたのである。
前回の文永の役での神風も10月、シーズン終盤の秋台風だった。
日本の夏から秋にかけて九州には台風が頻繁にやってくることを、当時の大陸では知らなかったのだろうか。
この暴風雨で、元の大船団はほとんどが海の藻屑となって消えた。
2度に渡った元の侵略戦争に対して、日本はこうして防衛を果たしたのだった。
元が侵攻に失敗したのは、神風と呼ばれた日本の台風の猛威を彼らが舐めていたこともあるだろうが、当時の日本人が島や国を守ろうと決死の覚悟で戦った、その防衛力が元の想定を上回ったからに他ならない。
今の日本は、アメリカを神風のように頼って平和ボケしているが、トランプに言われなくても「日本の国を守るのは日本人の手で」、そんなことは当たり前だろう。
北朝鮮、そして中国からも舐められて盛んに挑発を受けている今、国防というものを、もっともっとしっかり考えたいものである。
「元寇」の遺物、船が沈む海へ
さて今から750年近くも前の弘安4年(1281)7月30日の夜、二手に分かれていた元の大群が本格的な日本侵略を前に集結したところを猛烈な台風が襲い、総勢約4,400隻の船と、14万人といわれる元軍の大半が、鷹島の海底に沈んでいる。
昭和55年、元寇終焉の地となった鷹島の海が「水中考古学調査最大の宝庫」として選ばれると、昭和56年7月より開始された沈没船の遺物調査と引き揚げ作業によって、数多くの元寇遺物が発見された。
この貴重な資料を収集保存し調査研究を進めるとともに、一般公開の場として歴史民俗資料館が開館した。

ここに、周辺の海底から発見された「元寇」の遺物が多数展示されている。

エントランス上部の絵は、肥後国御家人の竹崎季長(すえなが)が自身の奮戦を描かせた「蒙古襲来絵詞」という絵巻物の一部。社会、日本史の教科書にも載っている。



館内では、パネルで「元寇」について分かりやすく解説しているほか、「管軍総把印」(長崎県指定有形文化財)や鉄刀、矛、矢束、古銭、絵巻物に描かれた炸裂弾「てつはう」などが展示されている。

また、昭和55年から鷹島海底遺跡の調査が行われてきたその様子も、水中調査VTRやパネルで解説されている。

私が最も興味を持ったのは、「大イカリ展示コーナー」だ。ここには、海底から引き揚げられた木製の大イカリ(写真右上)が展示されている。
床に描かれているのは原寸大の絵で、黄色く塗られた部分が実物として展示されている。
イカリの長さ(中心部)は2.66m、欠けていなければ推定約7.3m。重量は重りとなる2つの碇石を含めて約1tだったと推定。このことから元軍の船は、全長40mほどの大きさだったと推測される。

元寇のおびただしい船が沈む鷹島海底遺跡の海域を、展望台から望む。
鷹島海底遺跡のなかでも、この辺り、元の軍船発見地を含む約384,000㎡は、日本の海底遺跡では初となる国史跡「鷹島神埼(こうざき)遺跡」として指定されている。
伊万里湾を望む『鷹島モンゴル村』
現在、ここは休村中で、温泉や飲食店などの施設には入れないが、無料開放されている場所もある。


この場所は、「鷹島町」の“鷹”にちなんで、福岡ソフトバンクホークス必勝祈願の地としても知られている。


『宮地嶽史跡公園』は、昭和45年に整備された史跡公園だ。
玄界灘が一望できる高台には、宮地嶽神社、愛宕神社が祀られており、国土防衛の先駆けとなって奮戦した武将や元寇の犠牲となった島民の霊を慰める五輪塔、元寇記念之碑が建っている。

文永の役で鷹島に上陸した元軍は、島民のほとんどを虐殺した。
船唐津免の開田(ひらきだ)付近は当時山深く、人目につきにくい山奥の一軒家に8人家族が住んでいたところ、不幸にも飼っていた鶏が鳴いたため元軍に発見されてしまう。そして7人が殺され、灰だめに隠れていたお婆さん1人だけが助かったが、それ以来、開田では鶏を飼わないと伝えられている。
当時の古塚跡には、殺された七人のの霊を慰めるため、『開田の七人塚』が建てられている。
道の駅「鷹ら島」
佐賀県唐津市の西、玄界灘に浮かぶ鷹島は、「元寇」最後の戦場となった場所だ。
以前は船を使わないと行くことが出来ない離島であったが、 2009年4月18日に佐賀県唐津市と鷹島を結ぶ鷹島肥前大橋が完成し陸続きで往来が可能となった。
唐津市肥前町から「鷹島肥前大橋」を渡って松浦市鷹島町に入ると、すぐの場所に『道の駅 鷹ら島(たからじま)』がある。「ようこそ鷹島へ」のメッセージと共にフグのモニュメントが設置されているのは、松浦市が養殖トラフグの生産量が日本一だからに他ならない。

駅からは美しい橋が見える。


行政区分上は長崎県に属するが佐賀県との結びつきが強い島で、島にある道の駅「鷹ら島」を訪れる場合も佐賀県経由となる。 一般的なアクセス方法としては長崎自動車道から派生する有料道路「厳木多久道路」の終点の相知長部田ICから国道203号線沿いに20キロ北西に進み、 その先県道50号線、国道204号線等を使って西に20キロ進み、鷹島肥前大橋経由で本駅に至ることになる。
道の駅開設日は2009年4月18日。つまり橋が開通した日と同じ日に、この道の駅もオープンした。

駐車場は、かなり広い。

トイレは、施設規模なりのものが備わっている。



ゆっくり休憩できる施設環境も備えている。


鷹島の海産物を満喫できる道の駅施設
道の駅の施設は、物産館、海産物直売所、レストラン。
鷹島の中心産業はなんといっても漁業であり、道の駅の各施設でも海の幸を満喫できる。
人気は、新鮮な魚介類が手に入る海産物直売所。トラフグ、鷹島マグロ、ブリ、さざえ等が販売されている。

物産館ではおそらく地元の人向けに農産物の直売もある。

ここでもやはり海産物加工品が商品の中心で、名物のアジフライ、トラフグ茶漬け、昆布の一種であるカジメを用いたカジメの佃煮、魚の干物、 焼アゴ(飛び魚)などが人気を集めていた。

レストランでは、名物の「魚島来飯(おとこめし)」は3種以上の魚を用いた海鮮丼が一番人気。
ふぐ定食、鷹島チャンポン等の郷土料理も楽しめる。
また、松浦市は、養殖クロマグロ(本マグロ)の日本有数の産地でもある。


道の駅「鷹ら島」でも第2・4土曜日の10時からクロマグロの解体ショーが行われるので、せっかくならと、この日12月13日を狙って行ったが、大変な賑わいだった。

大トロ、中トロ、赤身、中落ち、アラと切り分けたら、お待ちかねの即売会のスタートだ。
あっという間に売り切れたのは中落ち。この物価高の折、みんな、コスパというものをよく知っているなあと感心した。