
ほぼ毎日書いていたブログを5日間も更新しなかったのには訳がありました。
父と母が、おそらく私が外から持ち込んだインフルエンザウイルスに感染し(私は軽く発症)、床に伏せってしまい、特に親父は一時非常に危ない状態になってしまったのでした。
せっかく「介護」してるのに、インフルのウイルスをプレゼントしたばかりに死んでしまった、それだけは堪忍してくれと、神に祈りましたよ。
しかしさすが親父、先ほど「飯を食いたい」と言うので、ベッドから起こし、いま久しぶりの食事をとっています。かなり食ってますよ。もう大丈夫、と言うことで、一気に書きます(笑)
お袋には明後日雛祭りということで、ちらし寿司を買ってきましたが、彼女の体はインフルごときではびくともしません。大人しく寝ていてくれれば、こちらは大声を出さずに済んで助かります(笑)
「寝るのが一番」とお袋。
トイレにはしょっちゅう起きてきますが、あとはまるで「獣が傷を癒すが如く」じっと寝ています。
それにしても、寝続けるのには相応の体力が必要と言いますよね。やはりこの5日間、寝続けることができているお袋の体力、改めてすごいと思い知らされています(笑)。
9人に1人。増える「老衰死」、20年で8倍に
さて 老衰で亡くなる人が増えている。令和に入ってからは、長く三大死因の一角を占めてきた脳血管疾患を抜いて、がん、心疾患に次ぐ死因別の3位になっている。
厚生労働省の人口動態統計によると、令和4年の死亡者数は156万9050人。死因別1位は「がん」の38万5797人、2位は私が臨死体験した「心疾患(高血圧性を除く)」で23万2964人、「老衰」が3位の17万9529人だった。
総数に対する割合は11.4%で、約9人に1人に当たり、実数で言えば直近で年間約18万人に上る。この20年でなんと8倍に増えているのだ。
昨年の2月27日には令和5年の速報値(外国人を含む)が公表されていて、死亡者数は159万人を超えて3年連続で過去最多を更新。一方で出生数(75万8631人)は8年連続最少(先日さらに9年連続最少更新が話題となった)となり、人口減少、多死社会の傾向がより強まっている。
老衰死については、死因別の死者数の公表が6月のため数値が固まっていないものの、昨年9月分までの集計データでは全体の11%超を維持しており、上位が続く見通しだ。
親父似の「アホの坂田」ことお笑いタレントの坂田利夫や写真家の篠山紀信、女性漫才トリオ「かしまし娘」の正司歌江の死因はいずれも老衰だった。アホの坂田は82歳、篠山紀信は82歳、正司歌江は94歳で、どうやら80を過ぎると「老衰死」できる可能性が高まってくるように思う。
2年前に「老老介護」に入ったときのバイブル
人は自分の死を自覚した時、あるいは死ぬ時に何を思うのか。そして家族は、それにどう対処するのが最善なのか。
私が2年前に、現在の両親介護の体制にシフトした際、心構えや覚悟にとても役に立った、バイブルのような本がある。
16年にわたり医療現場で1000人以上の患者とその家族に関わってきた看護師によって綴られた『後悔しない死の迎え方』は、著者・後閑愛実(ごかん・めぐみ)さんが看護師として患者のさまざまな命の終わりを見つめる中で学んだ、家族など身近な人の死や自分自身の死を意識した時に、それから死の瞬間までを後悔せずに生きるために知っておいてほしいことを書いた本。

この本の中に、「なぜ老衰が理想的な看取りなのか」が書いてあった。
(以下抜粋)
先日、「点滴の量を減らしましょう」と医師から提案されたご家族が、こう言いました。
「点滴しなかったら、弱っていくんですよね。老衰じゃかわいそう……」
みなさんはどうお考えですか。
このご家族と同じでしょうか。
看護師として言わせていただくと、このご家族の考え方は、「正解とは言いがたい」です。
本来は、「老衰じゃないとかわいそう」なのです。
老衰が最も楽な死であり、理想的な看取りとは、「老衰に近づけること」だからです。
老衰とは、年を取って亡くなることではなく、細胞や組織の能力が全体的に衰えて亡くなることをいいます。
すべての臓器の力がバランスを保ちながら、ゆっくり命が続かなくなるレベルまで低下していくので、患者さんはそれほど苦しくありません。
ちょっとおかしな表現になるかもしれませんが、気がついたら死んでいたというのが、老衰による亡くなり方です。
世の中で「大往生でしたね」「天寿をまっとうしましたね」といった言い方をされる“死”は、たとえ死亡診断書には「虚血性心疾患」「大腸がん」などと記されていたとしても、老衰死でもある場合が圧倒的です。
この老衰こそが理想的な死なのです。
私の目標は、父母が住み慣れた家、部屋で「老衰死」させてあげること
現代の医療では、たとえそれがどんな病気だとしても、最期は「老衰」を目指して治療やケアをしていくそうだ。
老衰のどこがいいかというと、すべての臓器の力がバランスを保ちながらゆっくり命が続かなくなるレベルまで低下していくこと。本人は苦しさをあまり感じないそうなのだ。苦しいのは、どこか身体の一部が衰えて他に元気な部分があるから苦しいと言うのだ。
実際、この数日、親父は危ない局面にあったが、その時でも本来体内にある末期がんの痛みや苦しみは訴えていなかった。そして、今日は「飯を食いたい」と言い、便所に連れて行くとクソもした。
高齢の末期がんの患者、まさに親父のことだが、彼の癌が最も大きい前立腺の機能が落ちているのに他の器官が正常だとバランスが取れていないので苦しい。だったら前立腺の機能を上げればいいじゃないかと言えば、老化によって一度弱った機能は上がりようがない。
末期がんでほぼ寝たきりになってしまったけれど、心臓は衰えていないので寝たきりのまま延々と生き続ける……。それと裏表の関係にあるのが「老衰」なのだ。
治療というのは本来、いちばん弱いところに合わせて行われるべきなのだと、後関さんは著書に書いておられる。どう言うことかというと、いちばん元気なところに合わせようとするから、本人がつらい思いをしてしまうのだと。元に戻らないものを戻そうとするから、患者は苦しむのだと。
後関さんの例えは、私の腑にストンと落ちた。
「元気なところに合わせる治療というのは、極端に言うと、50年前にオリンピックでメダルを取った人に、当時と同じトレーニングを課すようなものなのです。」
父にも母にも、こんな寄り添い方をしたい
彼女の著書の中にもう一つ、非常に感銘を受けた事例があった。
(以下転載)
80代後半の男性患者のミズノさんは、肺がんの末期を迎えていました。
とてもかわいらしいおじいちゃんで、よく笑い、よく食べ、酸素ボンベを転がしながらよく病棟を散歩していました。
このミズノさん、徐々に病気が進行し、眠っている時間が増えていきました。
ご飯も食べられなくなりましたが、経管栄養も点滴もしませんでした。ご家族の希望は「自然なまま生かしたい」だったので、延命のための治療はしませんでした。ご本人も、
「苦しいのは嫌だから、延命なんてしないでおくれ」と口ぐせのようによく言っていました。
やがてミズノさんは、心臓のポンプとしての機能も低下し、全身の臓器に必要な量の血液を送ることもできなくなりました。
以前は身体に水分が溜まって全身がむくんでいましたが、飲んだり食べたりができなくなったので、しだいに身体がしぼんでいきました。
ベッドの上で丸まって眠っているミズノさんの表情は穏やかで、無垢な赤ちゃんのようでもあり、すべてを悟った仏さまのようでもありました。
飲まず食わず、点滴もせずで、ミズノさんは自然なまま、それから10日間生きました。
食べたり飲んだりできなくなったら、「もつのは長くて10日間くらい」と言う先生もいますので、ミズノさんはぎりぎりまで頑張ったと言っていいでしょう。
では、末期がんのミズノさんがどうして限界まで頑張れたのでしょう。
何もしなかったからです。
自然であったからこそ、穏やかにすごせたのです。
あの状態で点滴をしていたら、痰が増えて苦しんだことでしょう。穏やかな表情ですごせなかったのは間違いありません。
とくに肺というのは、全身の中でいちばん弱いところです。体内の水分が少しでも多いと肺に水が染み出し、痰が増えて苦しくなってしまうのです。
結局、ミズノさんは10日間眠り続けたあと、病室に奥さんと娘さん、お孫さんがいるときに亡くなりました。
病室は個室でしたが、そのとき、窓際の二人掛けのソファーに奥さんと娘さんが座り、丸いパイプ椅子にお孫さんが座って、女性だけで仲良く話が盛り上がっていました。
ご家族はミズノさんが眠っていると思っていましたが、気がついたときにはミズノさんの呼吸は止まっていたということです。
その場に居合わせた家族が誰も気がつかなかったほど、穏やかな亡くなり方だったということです。
よい死とは、時にあまりにもあっけないものなのです。
私の老老介護の目標設定
このくだりを読んだ時、私の目から涙が溢れ出たことを覚えている。
悲しいからではない、いや、なんの涙でもない。ただ、「こんな看取りが両親にできたら最高だな」と、ただそう思った時に自然と出ていた涙だった。
今の所、父の病名は末期がん(悪性リンパ腫および前立腺癌)、母の病名は「認知症」「難聴」だ。
「これらの病名では死なせない、老衰死を看取る」。
これが、私の「老老介護」の目標だ。
では、自らの死をどう迎えるか
自らも67歳の、一応高齢者。
高齢者の死因を年齢別にちゃんと把握しておこう(笑)
55~79歳までの死因は悪性新生物(癌)、心疾患、脳血管疾患、自殺、不慮の事故の順に多く、この間順位に変動は見られない。
しかし、65歳以上になると肺炎が増え始めるのが肺炎なのだそう。80歳以上になると脳血管疾患と順位が入れ替わり、肺炎が第3位となります。
そして、85歳頃になると、不慮の事故に代わって老衰がジリジリ増え、老衰の死亡率は年齢が高くなるほど上昇し、95歳以上になると第1位まで順位が上がるのだ。
高齢者における死因の詳細は、以下のとおりである。
悪性新生物(癌)
悪性新生物は高齢者の死因の中で最も多く、日本人の3〜4人に1人が悪性新生物で亡くなっている。
年齢別に見ても多くの年代で第1位の悪性新生物だが、発症の原因は遺伝子異常の積み重ねだそうな。知らんけど。遺伝子異常は年齢を重ねるほど起きやすく、なので団塊の世代が80代後半になる2030~2035年くらいまでは悪性新生物による死亡者数は増え続けるといわれているようだ。
しかし、死亡率は1990代半ばをピークに減少しており、癌の生存率は多くの部位で上昇傾向にある。
心疾患
50歳以降から第2位以上を維持し続ける心疾患には、高血圧性を除く心臓の病気全般が含まれる。
その大部分が虚血性心疾患で、狭心症や私が経験した心筋梗塞など、心臓の筋肉が酸素や栄養不足を引き起こす病気である。
心疾患による死亡率は1994年頃一時的に減少したが、1997年からは再び上昇傾向となっているそうだ。心疾患の主な原因は動脈硬化だといわれており、その動脈硬化は遺伝や加齢のほか、高血圧、脂質異常症、糖尿病などの生活習慣病が密接に関係している。
心疾患の罹患者率は高齢になればなるほど高くなることが知られており、死亡率の上昇は高齢化が影響していると考えられている。
老衰
あらためて、老衰とは加齢によって生命維持にかかわる脳や肺、心臓などの臓器機能が低下し、衰弱して亡くなることだ。
老衰の多くは平均寿命である80歳をボーダーとしており、病気や事故などの死因が当てはまらない自然死だと認められる場合に該当する。
85歳から診断されることが多くなる老衰は、95歳以上になると死因の第1位となる。
もともと死因として少なかった老衰だが、高齢化や医療科学の進歩によって、珍しいことではなくなってきている。
脳血管疾患
脳血管疾患は脳血管が詰まる、敗れることが原因で起こった脳・神経の病気全般のことを言う。
かつて脳血管疾患は死亡率第1位でしたが、現在は55歳~79歳までは第3位、80歳以降では第4位に落ち着いている。脳血管疾患が減少した理由としては、医療技術の進歩や高血圧・糖尿病・不整脈の予防医療の推進などが考えられています。
肺炎
肺炎は65~79歳で第4位、80~100歳以上になると第3位に順位が上がる。
戦後、抗菌薬の登場によって死亡率が劇的に減少した肺炎だが、1970年頃から再び増加傾向に転じた。
しかし、過去と現在では死亡年齢に大きな変化がみられる。かつて肺炎による死亡者は乳幼児と高齢者の二峰性でしたが、現在は65歳以上の高齢者がほとんど。現代で肺炎の死亡者が増え続いている理由は、日本の高齢化が関係しているといえる。
不慮の事故
どの年代でも死因の上位にランクインしている不慮の事故だが、85歳を過ぎると徐々に減少していく。
85歳は同時に老衰による死亡率が上昇してくる時期でもあり、不慮の事故による死亡率の減少は、生活環境の変化(出歩かなくなる)が関係しているのだろう。
不慮の事故に遭うような外出はしなくなり、家の中に引きこもりがちになっていくのは親父の姿を見て納得だが、90歳のお袋が耳も聞こえないのに突如自転車で買い物に出かけるのは、もう絶対にやめさせないといけない。自転車だけは!
しかし、言っても絶対に聞き入れないあの性格〜。私自身も車中泊で全国旅を続けているので、気をつけなければ。
高齢化社会における「医療」「介護」「老衰死」
2040年まで続くといわれる高齢化社会。その時、父110歳、母105歳、私82歳。
この時点で「3人同時に昇天」と言うのが理想だが、さて今後、どういった展開になるだろうか。
早速、死因を判断する立場にある医師の皆さんの意識変化もあるようだ。
厚労省による死亡診断書(死体検案書)の記入マニュアルでは、老衰に関する注意点として「死因としての『老衰』は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用いる」としている。
実は老衰死は、昭和20年代をピークに長く減少傾向が続き、上昇に転じたのは平成13年ごろからだ。これは、同年ごろまでは死亡場所として病院が圧倒的多数を占めていたものの、以降、介護施設などに多様化した。
施設で暮らすうちに徐々に弱っていき、死を迎えるようなケースが多く、病院勤務医らに比べて老衰死との判断に抵抗感が低いとされており、これがデータに反映されているようなのだ。
また、マニュアルは平成7年に国際基準が導入され、自然死など死因があいまいな場合に「心不全」「呼吸不全」としていたケースが認められなくなっている。
「攻め」から「引く」医療へ
関係学会などを通じ、死に際などを含めた患者の「生活の質」(QOL)に関する知見が深まったこともあって、「徹底的に治療を施すような攻めの医療だけでなく、ときには、引く医療も大切」という価値観が浸透していると言う。
老衰死は、「ろうそくの炎が静かに消えるような死」であり、「いわば長寿ではなく天寿を大事にするという考え方が、医療界全体にも広がっているのだ。
老衰死と結論づけることへの躊躇のようなものがあったのが「攻めの医療一辺倒」だったかつての医療現場だが、少なくともその躊躇はかなり薄れてきているようである。
このところの医療現場では、明確な年齢の区分はないものの、おおむね85歳以上の患者が亡くなった場合、心臓などの数値が多少正常値を超えている程度であれば老衰を死因とすることが一般的だという。これより若くても、患者の状態を長年把握してきた主治医がいるケースなどでは、総合的にみて老衰死と判断することもあるそうだ。
「死生観」は深い
今後も老衰死の増加が見込まれる状況を念頭に、さらに考え込んでしまう。
いますでに私は、私の父が癌の回復はとても見込めないから自宅で自然死を待っている側にいる訳だが、回復が見込めないから点滴量を絞るといった処置を医師から打診されたときには、さてどうするか。
この辺りまでは想定できているし、迷いなく判断できると思うが、今のところ定期的に自宅への往診をお願いしている医者に今後どう頼っていくか、また、いつ入院させてやればいいのか。
ここ数日、ずっと父のベッドのそばにいて、ひょっ「とするとこのまま眼を開けないのではないのか」と言う感覚がリアルだった。
今後ともまだまだ『生き死に』に関する見識を深めていく必要がありそうだ。

写真は、昨夏、「初ひ孫」を抱く親父。
兎にも角にも、父も母も、今回(おそらく)私が持ち込んだインフルで死なずに、本当に良かった。