「まちゃ」は17歳で父を亡くし母を安心させるために就職したが、ジョンレノンの「Mother」にインスパイアされて東京に。

何を隠そう、ハゲを隠そう。私は、「まちゃ」こと福山雅治のファンである。
俳優、ミュージシャンとしても好きだが、何よりもラジオパーソナリティとしての彼が大好きで、もう30年近く彼のラジオ番組を聞き逃したことはほぼないほど。

言わずと知れた『福山雅治のオールナイトニッポン』は大人気の番組だったし、1996年から担当してきた『福山雅治のSUZUKITalking F.M.』、それを2015年にタイトル変更した『福山雅治 福のラジオ』、『福山雅治と荘口彰久の「地底人ラジオ」』など、長く愛され続けるラジオのレギュラー番組を持ってきた彼だが、とりわけ好きな番組が「福のラジオ」だ。

甘い歌声に端正なルックス、正統派二枚目俳優の印象からは想像できない「下ネタ」や、放送作家の今浪祐介さん(通称:今浪さん)を大いにいじりながらの(彼の笑い方がまた最高なのだが)芸人真っ青の爆笑トークは最強レベルのエンタメだ。

私の車の助手席には「まちゃ」が乗っている

一番の魅力は、やはりあれほどの大スターでありながら、運転しながら聞いているまるで私の助手席にいて喋っているような「近さ」である。

類を見ない距離感の近さは、友近にも共通しているが、抜群の「憑依力」によるのだろう。本当に、助手席で喋ってくれているようなのだ。

リスナーからの投稿を一人芝居仕立てにしたり、自らの体験談を赤裸々に話したり、男心もわかる女性「雅子」に憑依して雅子特有の言葉遣いでお悩み相談に乗ったり。

天才か!

いずれにしても、30年近く飽きさせないということは、人間性そのものが面白いわけで。

そのルーツは間違いなく幼少期から育まれたものに違いない。

ということで、彼が高校生までの少年時代を過ごした、長崎市は稲佐の街に行ってみた。

父を17歳で亡くし、母を安心させるために就職したが…

まちゃは、高校生の頃からジョン・レノンのファンだった。

17歳のときにお父さんをがんでなくし、人生で一番苦しかった時期を救ってくれたのがジョン・レノンの「Mother」だったと。

「Mother」は、1970年にジョン・レノンが発表した曲だ。
発表当初は「狂気じみている」との理由からアメリカでは放禁止に指定され、その影響からビルボードのチャートでは最高43位にとどまったが、その歌詞の内容、そして必要最小限のアンサンブルは、その後のポピュラー音楽に多大な影響を与えた。

この歌のイントロは、鐘の音で始まる。
曲の始まりとして、これほど衝撃的な音は他にはないだろう。
テンポを落とした東洋の鐘が4回鳴り終えた瞬間、ジョンの叫ぶような歌声が聴こえてくる。

父を亡くした17歳のまちゃの心に、深く刺さった、そのことを彼はこう語っている。

「Motherは、ジョンが自身の精神の救済のために書いた曲ではないかと思います。そしてあの頃の僕も、音楽の力にすがっていた。音楽が、無力感やいら立ちから僕を一時、解放してくれた。だから自分もいつかそんな音楽を作りたいと、強く憧れたんです。」

このようなシンプルさ以外には、何も必要ないんだ

この「Mother」は、それまでビートルズが試みてきたクリエイティブなサウンド作りを拒否するかのように最小のユニットで演奏されたが、当時、ジョンは究極にシンプルなサウンドについての自信を語っていた。
ジョン・レノンは1940年10月9日に生を受け、1980年12月8日に40年の生涯を終えた。
ジョンの母親ジュリア(当時24歳)と結婚した時の父親アルフレッド(当時26歳)は船で臨時に雇われていたウェイターだった。この父がジョンのそばにいたのは2年間だけで、彼は母子を置いて姿をくらましてしまった。そして母は別な男性を見つけ、ジョンは彼女の姉ミミに預けられた。
そしてジョンが、奇しくもまちゃが父を亡くした年齢17歳になった1958年7月15日、母との別れは突然やってきた。車にはねられ、母がこの世を去ってしまったのだ。
幼年期からの体験、そして、あまりにも突然で衝撃的な母の死によって、ジョンは心のある部分に鍵をかけてしまった。満たされない思いと、誰にも打ち明けることのできない傷を抱えながら…ジョンはビートルズのメンバーとして世界から注目される存在となった。
そしてヨーコとの出会いとビートルズの解散によって、この「Mother」に辿り着いた。

このことを知ってか知らずかはわからない。いずれにしても17歳で追い詰められたまちゃの心に、ジョンの17歳に帰ってのMotherの絶叫は、刺さりまくったのだった。

まちゃが育った街「稲佐」へ

稲佐山山頂から見下ろす長崎の夜景は日本?世界?三大夜景の一つとしてあまりにも有名だ。

長崎港と市街地が織りなす立体的な夜景が特徴というが、しばしば見る神戸の夜景も、先日行った函館の夜景も、大して変わらない。

もうそれらに感動する感性もなければロマンチックなことを語り合う相手もいないわけで。

まあ、せっかく来ているのに観ないのもなんだから、適当に、こんなもんかと。

日が暮れてから形式的に稲佐山に登って、いちおう、観た。

それより私にとって興味があったのは、彼が通った、稲佐小学校の環境だ。
稲佐小学校は、山頂展望台まで観光客を運ぶ長崎ロープウエイの淵神社駅のすぐそば、つまり稲佐山の麓にある。

彼はこの界隈で、長崎という街の魅力、そこにはインバウンドや日本人観光客が運んでくるものも多々あったろう、それらの一切を含むあらゆるものを、日々自然に吸収ながら彼は育ったのだと思われた。

彼の稀に見る感性を育んだ環境はこうであったのかと、稲佐小学校の周りを歩いていると、ラジオを通して余すところなく発揮される彼の人間性形成の過程、環境が、妙に納得できた。

私の車の助手席でいつも私を笑わせてくれる彼だが、テレビで役者として演じる彼をみても、歌う彼をみても、それは遠い存在。

「天は二物を与えず」なんてまるで嘘っぱちだと、ただ、そう思うだけである。

グラバー園なんかに行ってみたりして

さて 夜まで時間はまだ時間がたっぷりある。

ということで、ちょっとミーハーにグラバー園なんかにも行ってみたりして(笑)夜までの時間を潰したのであった。

「思案橋」の夜がスタート

さあ、いよいよ長崎が誇る繁華街「思案橋」の夜だ。

稲佐山に戻っての夜景鑑賞もそこそこに。

いそいそと、何の思案もなしに、思案橋にやってきた私。
思案橋周辺は、昭和の残り香も強く、また、丸山・新地方面の花街の雰囲気と、居酒屋やバーやスナックがひしめく繁華街の顔の両方を持つ、長崎の夜の、私的にもっとも魅力的なエリアである。

長崎は、日本一の「鯨の街」ということで。

例によって地元の方ご推薦の、大衆割烹「安樂子」へ。
そして、いも焼酎をキープして、「尾の身」を注文!

ちなみに、下は「馬刺し」。

熊本でもいただいたが、この店で「鯨」と「馬」の食べ比べをさせていただいた。

フラッシュが光らなかったが、大きなアジを一匹、お造りで。

今年は、カキが大不漁と聞く。生のカキはやめて、カキフライを。

ハーフボトルとはいえ、キープした芋焼酎を飲み干すと、すっかり仕上がっていた。

よりディープな「思案橋横丁」へ

200を超える店舗が軒を連ねる「思案橋」の歓楽街は、まさに長崎の夜の顔だが、その喧騒の中心から一歩脇道に入ると、そこは「思案橋横丁」である。

60店舗以上の多彩な飲食店や個性豊かな専門店が並ぶこの横丁は、さらにディープ。
和洋中の料理店、静かな佇まいの小料理屋、活気あふれる居酒屋、そして長崎ならではの郷土料理を楽しめる店までのあらゆる味、そしてまあいろいろとある遊び方の全てが凝縮されていて、素敵すぎる。

さっきの割烹では魚と肉ばかりだったので、まずは、おでんを。

これは、カレー味の「長崎ちゃんぽん皿うどん」。

「Roxy Bros思案橋」はビートルズ & 長崎のレジェンド的な存在で、最後にこの店で「Mother」を歌ってジョンの命日を締めるつもりだったが、生憎この店は昨年、その長い歴史を閉じていた。

なので、音楽バーを探して歩いていると、こんな店が。

ビートルズとはちょっと違う店だが、他に客が少なかったので、マスターにジョンレノンの「Mother」をリクエストすると、快くかけてくれた。しかも爆音で!(涙)