道の駅「開国下田港」にて、170年前の「開国」を想う(トイレ○仮眠✖️休憩△景観○食事○設備○立地△)

日本が鎖国政策をとっている間、欧米諸国は近代国家への歩みを急ピッチで進めていた。
イギリスにおける18世紀から19世紀前半にかけての産業革命は他のヨーロッパ諸国やアメリカにも及び、列強各国は植民地の獲得競争に乗り出し、その矛先はアジアにも向けられていた。
18世紀末から19世紀はじめにかけて、ロシア船やイギリス船が、日本近海に来航し、鎖国の扉を叩こうとしたが、幕府は頑なに鎖国政策を堅持した。

しかし、清国がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを聞くと、異国船打払を緩和し、薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出し、漂着した外国船には薪水・食料を与えることとした。
しかし鎖国を守る姿勢は変わらず、弘化元年(1844)、オランダ国王が親書をもって開国を奨めたが、幕府はこれを拒絶。鎖国体制を守り抜こうとした。

弘化3年(1846)、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し開国を幕府に交渉した際にも幕府はこれを拒絶。ビッドルは目的を果たさないまま帰国した
しかし、幕府の「あがき」もここまでだった。

日米和親条約の締結

嘉永6年(1853)6月、アメリカの東インド艦隊司令長官兼米使提督マシュー・ペリーは軍艦4隻を率いて大西洋を横断。喜望峰をまわり、インド、中国、琉球を経て浦賀に来航し、開国を要求する大統領の国書を幕府に受け取らせる。その圧力に負けた幕府は、一旦ペリーを退去させて翌年まで回答を延期させた。
約束の嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港。幕府を威圧して条約締結を迫り、ついに同年3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が締結されることとなった。
条約の内容は
(1)アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給すること
(2)下田、箱館の2港を開き(下田は即時、箱館は1年の後)、下田への領事の駐在を認めること
(3)アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること。
等の計12条。これにより、イギリス(嘉永7年8月)、ロシア(安政元年12月)、オランダ(安政2年12月)とも同様に条約を結ぶこととなり、200年以上続いた鎖国政策は、ここに崩れ去ることになった。

ペリーの下田来航

日米和親条約(神奈川条約)を締結したペリー艦隊は、嘉永7年(1854)3月18日から21日にかけて、下田に順次来航した。小笠原へ食糧調達に行っていたマセドニアンは、4月6日に遅れて入港している。

日付隻数船名推進トン数艦長
3月18日2サザンプトン帆船567ボイル大尉
サプライ帆船547シンクレア大尉
3月20日2レキシントン帆船691グラソン大尉
バンダリア帆船700ホープ中佐
3月21日2ポーハタン蒸気船2,415マックラニー大佐
※ペリー搭乗
ミシシッピー蒸気船1,692リー中佐
4月6日1マセドニアン帆船1,341アボット大佐

浦賀に来たペリー艦隊9隻のうち、サスケハナ号は中国へ、サラトガ号は本国へ条約を携えて行ったため、下田には7隻が来航した。
ペリー艦隊の最初の上陸は非公式だったが、浦賀奉行所の支配組頭である黒川嘉兵衛が応接し、3月24日群集が見物する中、了仙寺で饗応が行われている。

幕府は急遽、嘉永7年3月24日下田奉行に伊沢美作守(いざわみまさかのかみ)を任命し(着任は5月8日、その間は黒川が応接)、ペリー艦隊の応接に当たらせた。

ペリー艦隊の下田滞在は約70日を数えたが、そのうち約1ヶ月は翌年3月開港となる箱館の調査だった。

日米和親条約付録 下田条約

日米和親条約では、薪、水、食料、石炭等、航海に必要な欠乏品を日本幕府が供給することを決めている。また漂流民の保護、下田湾内の小島(犬走島(いぬばしりじま))を中心として周辺七里内(約28km)の遊歩権を保障することなどが決められていた。 

嘉永7年5月、箱館の見分から下田に帰港したペリーとの間に、日米和親条約付録下田条約の交渉が了仙寺で開始された。
付録条約の交渉は、日本側全権・林大学頭(はやしだいがくのかみ)、江戸町奉行・井戸対馬守(いどつしまのかみ)、下田奉行・伊沢美作守(いざわみまさかのかみ)、都築駿河守(つづきするがのかみ)らとペリー提督の間で行われた。
5月13日、両者会見の日ペリー一行は祝砲を轟かせ、大砲4門を先頭に曳いて、軍楽隊演奏にのって300人もの水兵が剣付き鉄砲を肩にかけ、了仙寺まで一糸乱れぬ行進を堂々と挙行。明らかに幕府を威圧するパフォーマンスだったが、下田の人々は仰天したことだろう。
5月22日、了仙寺本堂で条約が調印され、25日には条約書の交換が行われた。

調印式においては、日本側は畳を積み重ねた上に正座して、イスに着席した米国側と目線を合わせたといわれている。

この付録条約13ケ条(下田条約)の内容の中には、米船員の上陸場所(下田、柿崎その他)、欠乏品供給所、異人休息所(了仙寺、玉泉寺)、洗濯場、立入許可区域、鳥獣の捕獲禁止、商品取引の管理、死亡者の埋葬(玉泉寺)、港内水先案内人の設置等々の細目が決められていた。
かくして目的を果たしたペリー艦隊は、嘉永7年(1854)6月1日帰国のため、下田港を出港した。

道の駅「開国下田みなと」は開国のシンボル

そんな開国から170年が経った。
今、伊豆半島の南端の下田市、その下田市の南部の下田港内に道の駅「開国下田みなと」がある。
海上保安庁の「かの」の勇姿が眩しい。

一方で、黒船のアトラクションに興じることができる平和な風景も。

下田港は、幕末の開国の際、函館港と共に日本で初めて開港となった港である。 ペリー提督艦隊が率いる黒船が入港した出来事は、まさに開国のシンボルだ。

そんな道の駅だが、物産館、海産物直売所、レストラン、回転寿司店、下田バーガー店から成る。

まず、最も目立っているのは特産品の金目鯛だ。

下田は金目鯛日本一

下田港には「金目船」とよばれる漁船が数多く停泊しており、朝の市場はキンメダイの売り買いで活気に満ち、市場の床はずらっと並んだキンメダイで真っ赤に染まるその風景は、キンメダイ日本一の下田ならではだ。

金目鯛(キンメダイ)は鮮やかな朱色の中から現れる白身にたっぷりと脂がのっていて、ふっくらとした食感と上品な味わいで大変人気のある高級魚だ。そのキンメダイ水揚げ量日本一の港が、何を隠そう下田港である。年間の水揚量は1000トン以上で、下田で水揚げされる魚のなんと8割がキンメダイ。つまり、「キンメダイと言えば下田、下田で魚と言えばキンメダイ」なのだ。

下田では全国に先駆けて品質の統一や輸送手段の確保を行い、豊富な漁獲高によって「下田のキンメダイ」というブランドを確立している。

海産物直売所では「金目鯛干物」「金目鯛姿煮」が。物産館では「金目鯛せんべい」「金目鯛ふりかけ」「金目鯛茶漬け」「金目鯛もなか」等、さまざまな加工品が販売されている。

物産館のスケールはすごい

物産館には、本当になんでもある。

海苔コーナーなどは特に人気があるようだ。焼きのり、荒磯のり、ふのり等が販売されている。

果物類など、農産物も非常に充実している。

魚市場直送、海産物直売所では金目鯛以外に伊勢えびも人気だ。

レストランでも金目鯛を満喫

食に関する施設は定食中心のレストラン、回転寿司店、下田バーガー等を販売する喫茶店がある。

喫茶店の主役は下田バーガーだ。なんでも金目鯛を使った贅沢なハンバーガーらしい。

レストランでも主役は金目鯛で、金目鯛の煮つけを味わうことができる「ペリー定食」や「脂金目煮定食」が人気の中心である。

刺身メニューも充実しており「上刺身定食」「特上刺身定食」「かんぱち刺身定食」「まぐろ刺身定食」等がある。

回転寿司店もあるが、その日に下田港で水揚げされたネタを使った豪華なラインナップで、お値段も都会にある一般的な回転寿司とはワンランク上。 安いネタもないではないが、金目鯛などかなり高めの寿司ネタが主力商品となっている。

ハーバーミュージアムでは町の歴史やカジキ釣りを紹介

道の駅には「ハーバーミュージアム」という有料施設がある。

ここでは町の歴史や毎年下田で開催されているカジキ釣り大会に関する紹介などが行われている。 特に目を見張るのは実物大のカジキのレプリカだ。

カジキの実物大レプリカ

全長5メートルくらいはあるだろうか。鋭い角もあり、「老人と海」ではないが、これを釣り上げるのはまさに命がけなのだろうと想像が膨らむ。

道の駅としての基本機能は?

駐車場は、スケールの大きな道の駅にしっかり対応。十分なスペースが確保されている。

トイレは施設内にもいくつもあるが、到着時もここを後にする前も、駐車場から直行できるトイレを利用させていただいた。