
「ヨイトマケの唄」をご存じでしょうか。
この楽曲の作者・美輪明宏さんには、小学生時代の忘れられない記憶があったそうです。美輪さんは長崎県に生まれ、長崎市本石灰町の家から小学校に通うようになりました。

当時の名前は丸山臣吾だったので、以下、敬称略で「ゴロウ」と表記させていただきます。
小学生低学年の頃、当時まだ「父兄会」という言い方でしたが、そこに着飾った服を着ている母親たちの中に一人、野良着にモンペ姿、頭に手ぬぐいをかぶって1人遅れてきた母親がいらっしゃいました。その女性の背はとても低く、痩せていて、顔が黒く、足が不自由な様子でした。
その母親は、学校で一番出来の悪い男の子、ヨシオの母親でした。「父兄会」で鼻を垂らしている息子を見た母親は、彼に近づいて行って、それから垂れ下がった鼻を自分の口ですすって、窓の外にペッと吐いたのでした。他の母子は一様に眉を顰め、汚いものを見るような目でその様子を見ていたのですが、感性の豊かな少年時代の美輪さんつまりゴロウは、そこに非常に深い「母性」を感じたのでした。
目的⑥愛しい我が子、伴侶、家族のために。「愛する」人のためにエンヤコラ→ Aisu Work
母ちゃんの働くとこ=Aisu workを見た
そんなことがあった「父兄会」の日から、ゴロウは、出来が悪く毎日のようにいじめられていたヨシオをかばい、二人は友達になっていく。そんなある日、ゴロウとヨシオは一緒に帰っていた時に、ヨシオのお母さんが足を引きずりながら、土方(どかた)仕事をしている現場に遭遇する。偶然ではなく、ヨシオはゴロウを伴ってそこに向かっていたのだった。

「ヨーイトマーケー」の掛け声で、人夫たちが綱を引いていた。足の不自由だったヨシオの母親もその中にいたが、がよろける度に、「やめちまえ!」「ろくでなし!」「みんな迷惑なんだよ!」といった罵声が浴びせられていた。現場仕事は、命懸けだ。男たちも、なにもいじめているわけではないが、危険が伴うからこそ言葉は尖り、大声での罵声となった。
ヨシオの母親は、「すいません! すいません!」とペコペコ謝っていたが、息子の姿を見つけると胸を張って、大丈夫!心配すんじゃないよ!と、まるで別人のような毅然とした顔に変わった。ゴロウはその毅然とした顔に、母親の、我が子への気遣いを感じ、感動を覚えた。
実は、ヨシオは、学校でいじめられているという事を母親に打ち明けようと母親の仕事場に来た。しかし、母親のその姿を見て、ヨシオは学校に引き返していく。
このヨシオのお母さん、「ヨイトマケ」の人婦こそ、愛しい我が子のため、「愛する」人のためにエンヤコラと仕事をする人の代表だ。これを私は、「Aisu Work(愛すワーク)と呼んでいる。
メシを食うために働くという動機にも近い要素はあるが、愛する人がいるからこそどんなことにも耐えて、どんな仕事だってできる。そうした点において、Rice Workよりも圧倒的にパワフルだ。人間にとって「愛」がすべてと言っても過言ではないほど、愛は偉大なのである。
母ちゃんに心配させとうなかけん
ヨシオとゴロウが、Aisu Workを目の当たりにする場面が「ヨイトマケの唄」の歌詞になっている。
「子供の頃に 小学校で ヨイトマケの子供 きたない子供と いじめぬかれて はやされて くやし涙に くれながら 泣いて帰った 道すがら 母ちゃんの働く とこを見た 母ちゃんの働く とこを見た。 」
「姉さんかむりで 泥にまみれて 日に灼けながら 汗を流して 男にまじって 綱を引き 天にむかって 声あげて 力の限りに うたってた 母ちゃんの唄こそ世界一 母ちゃんの唄こそ世界一。 なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと 息をはずませ 帰ってはきたが 母ちゃんの姿 見たときに 泣いた涙も忘れ果て 帰って行ったよ 学校へ 勉強するよと言いながら 勉強するよと言いながら」
ゴロウは、学校に引き返そうとするヨシオに、「母ちゃんに言わんでよかと? 」と聞いた。
ヨシオは、「母ちゃんに心配させとうなかけん」と言った。
二人はそのまま学校に戻っていった。
しかし、ヨシオへのいじめは激しく、またずっと続いていたため、やがてヨシオの母親の耳に入ることになる。いじめを知った母親は、ゴロウの前でヨシオにこう言った。
「喧嘩が強いから偉いんじゃなかとよ。金持ちだから偉いんじゃなかとよ。勉強が出来なくても、貧乏でも、関係なかと。一番偉かとはね、正直で、お天道様の前に胸を張って、誰にも指さされないように一生懸命働いて、正直に生きる。それが偉かとよ。だからお前は偉かと。」
この母親の言葉に、ヨシオも、ゴロウも、涙が止まらなかった。
苦労苦労で死んでった 母ちゃん見てくれ この姿
この曲の尺は当時の歌謡曲にしてはとんでもなく尺が長く、間奏を挟んで、大人になってからのことも歌っている。
「あれから何年経ったことだろう 高校も出たし大学も出た 今じゃ機械の世の中で おまけに僕はエンジニア 苦労苦労で死んでった 母ちゃん見てくれ この姿 母ちゃん見てくれ この姿。 何度か僕もぐれかけたけど やくざな道は踏まずに済んだ どんなきれいな唄よりも どんなきれいな声よりも 僕を励ましなぐさめた 母ちゃんの唄こそ 世界一 母ちゃんの唄こそ 世界一。 今も聞こえる ヨイトマケの唄 今も聞こえる あの子守唄。 父ちゃんのためなら エンヤコラ 子どものためなら エンヤコラ」

ゴロウは、ヨシオのお母さんに、「あの時何故、口でヨシオの鼻をすすったのか?」と聞いたことがあった。お母さんがあの時、手ぬぐいは持っていたので、なぜ手ぬぐいでふいてやらなかったのか、不思議に思っていたからだった。
するとヨシオの母親はこう言ったそうだ。

「手ぬぐいは商売道具。そんな手ぬぐいば使うたら、他の姉さん方に申し訳なか」。
ゴロウは、ヨシオの母親の仕事に対する考え方、共に土方で働いている先輩の女性を気遣う気持ちに激しく心打たれた。そしてこの時教わったことが、80年経っても美輪明宏としてのプロ意識の核心であり続けたという。
「号泣」「紅白史上最高」の声が殺到
そんな美輪明宏さんに直接お会いすることができたのは、1984年の冬、神戸ポートピアホテルで開催された美輪さんのクリスマスディナーショーだった。


神戸ファッション協会の小田倶義会長(写真左:イズム社長)が、会社を創業されて間も無くの頃、当時血気盛んだった社長と私が、なんと商談中に口論となってしまった。「このクソガキ殺したる、外に出ろ!」と社長。「いいですよ、望むところです」と私。社長は激怒してリクルート本社にクレームの電話を入れて大問題となり、私は上司に連れられて東京に事情説明に行く事態となった。
謝罪に日参する私に、小田社長が私にそっと手渡してくれたのが「美輪明宏クリスマスディナーショー」のプレミアムチケットだった。

そんなことがあって、生まれて初めてのフレンチのコース料理をいただきながら、美輪明宏さんの歌を生で聞くことができたのだが、皆さんが食事を終えたタイミングだったか、あまりショーでは歌っておられなかったはずの「ヨイトマケの唄」が始まった。
私は恥ずかしながらそれまでこの歌を聴いたことがなく、嗚咽を堪えるのに必死で、ついに堪えきれず号泣した。曲が終わって周りを見たら、みんな泣いていた。
冒頭写真の美輪さんのお姿は、ご記憶の方も多いだろう。2012年のNHK紅白歌合戦だった。
舞台は背景もなく真っ暗で、照明もピンスポットと上からの2本だけ。化粧もせずに髪も黒。「無でいい」と美輪さんは考えたのだ。紅白終了後の反響は大きく、ネットは直後から「号泣」「紅白史上最高」などの声で埋まった。
もう半世紀以上前になるが、美輪さんがこの歌を最初にテレビのモーニングショーで歌ったとき、障害や出身で差別を受けている人たち、貧しく厳しい環境で働く人たちから「自分たちへの励ましの歌だ」といった投書が2万通も寄せられたという。
差別はヒューマニストぶっている人の心の中にある
しかし、その直後、歌詞に『土方』が含まれるという理由でこの曲は『放送禁止歌』になり、民放では長く放送されてこなかった。
果たして、「土方」は「差別表現」なのか。
言葉狩りの対象として、言い換えないといけない言葉なのだろうか。
あるべきは、前後の文脈や記事の全体で総合的に「差別」的かどうかの判断だろう。
美輪さん自身、放送禁止や局側の自主規制についてコメントを求められた際、こう言った。
「局側は御身の安全で自粛してしまった。」
「どこが差別なんですか?」
「差別はヒューマニストぶっているあなたたちの心の中にあるんじゃないですか」
美輪さんは、メディアの思考停止を鋭く指摘した。
差別語と差別表現の問題に一知半解なマスコミ
1965~6年にかけて大ヒットしたこの歌が、70年代以降テレビで歌われなくなったのは、当時の部落解放同盟などの差別表現糾弾の取り組みに怖れをなした民放の自主規制に依る。
しかし、解放同盟を含め、全日自労も、この唄に抗議したという事実はない。
差別語と差別表現の問題に一知半解な、マスコミの思想的脆弱性の成せる業だった。
かく言う私自身も、リクルートの編集責任者として、自主規制の波に飲み込まれた。イラストで人の手を描くとき、4本に見えると全てアウトだったのだ。角度によっては5本の指全部が見えることの方が不自然であっても、問答無用で5本に見えるよう描き直させられたのだ。
解放同盟が常に問題にしてきたのは「言葉」ではなく「表現の差別性」
当時も今も、部落解放同盟が問題としてきたのは、言葉ではなく“表現の差別性”である。多くの差別表現が、差別語とともに語られ、書かれてきたところから、差別語の使用=差別表現とみなされたにすぎない。
ところが差別語を言い換えて事をすまそうという方針を出し、差別語そのものの抹消、つまり文脈すべてを消し去ることによって事に対処してきたのがマスコミ業界の実態であった。
放送禁止の理由、もしくは放映自主規制の理由とされた「土方」という言葉。土木工事に従事する「日雇い労働者」を“土方”とさげすんで呼んだ時に「差別的」となるのであって、“土方”そのものは、いわゆる「差別語」と言われる言葉ではない。
「ヨイトマケの唄」をちゃんと聴いて、感動こそすれ、この“土方”という言葉を差別的に感じる人はいないのだから。むしろ、「土方」は、苛酷な労働を主体的に表現するための、最もふさわしい言葉であると私は思う。
(つづく)
この記事は、連載第10回です。仕事の目的の本質に入ってきました。引き続きお読みいただければ幸いです。