「信長」の勝手な怒りで虐殺された「伊賀者」の怨念を道の駅「宇陀路室生」で感じた(トイレ△仮眠○休憩◎景観○食事○設備△立地○)

浅井・朝倉氏や伊勢長島の一向一揆などを相次いで滅ぼした織田信長は、1581(天正9)年、伊賀国(現在の三重県伊賀市と名張市)に侵攻します。

伊賀は山に囲まれた小さな国で、束ねる大名もおらず、隣国からの支配もされず、小さな土豪が割拠していました。「伊賀中世城館調査会」によると、600以上の城館があったとされますが、情報収集能力を買われて他国の雇い兵となる者が多く、彼らは伊賀者(忍者)と呼ばれました。

日本の諜報員

「天正伊賀の乱」などと呼ばれますが、乱でもなんでもありません。息子の失態に怒り狂い、怒りの矛先を伊賀の者たちに向けた信長の一方的な掃討戦に過ぎません。攻めて来られて、家族や民を守るために伊賀の武士たちが仕方なく抵抗しただけのことでした。

楽市楽座や比叡山焼き打ちなどで「中世」を破壊してきた信長は、小豪族が割拠し、中世的世界が広がる伊賀の国をもまた容赦無く徹底的に破壊したのでした。(写真:西方・深野から戦場方向をのぞむ)

多勢に無勢、怒りにまかせた大虐殺

伊賀という小国に、信長は丹羽長秀や滝川一益ら有力武将を動員。伊賀の歴史をつづった「伊乱記」には4万4千余騎が6カ所から送り込まれたとある。大軍勢で攻め入ったのには信長なりの事情というか前段があった。

前段とは、2年前に息子が起こした失態だ。1579年(天正7年)9月16日、織田信雄は父・織田信長に無断で8,000の兵を率いて伊賀国攻めを行なった。しかし、地の利に通じた伊賀衆は、夜襲や奇襲などで織田軍をかく乱。重臣の柘植保重が戦死するなど多くの兵を失って信雄は伊勢へと敗走した。

織田信長は、自分に断りもなく戦を起こし、しかも大敗という結果となったことに激怒。織田信雄を厳しく叱責し、「親子の縁を切る」とまで言い出している。信長にすれば「息子の不始末にケリをつけ、信長自身の権威を守ることが、2年後に侵攻した目的。だから小国に4万4千もの兵力を動員したのである。本格的な攻撃が開始されたのは9月6日。織田軍総数4万4千に対して、伊賀軍総数はその10分の1に過ぎなかった。

柏原城で最後の抵抗

伊賀衆は比自山城に3,500人で籠城。「平楽寺」には1,500人の伊賀衆の兵が立て籠もり、得意のゲリラ戦で織田の大軍を手こずらせた。しかし織田の大群にさらに柘植口から滝川一益の援軍が加わったことで、平楽寺は陥落。僧侶700人余りが斬首された。

残った比自山城は、激しい攻撃に幾度となくさらされたが、堅い守りでなかなか落ちない。そして、織田軍が総攻撃を仕掛ける直前、伊賀衆の兵は夜陰に紛れて「柏原城」へと逃亡した。織田軍が比自山城に攻め込んだときには城はもぬけの殻だった。

追い詰められた伊賀者たちが最後の決戦に挑んだのは、柏原城(名張市)の籠城戦だった。伊乱記には立てこもったのは侍、雑兵1600余人にその妻子だったと書かれている。兵糧攻めの織田軍に対して、城側は城側は夜襲で勝負をつけようと試み、農民に協力を頼んで松明を持って裏山を走り回るなど援軍のように見せかけて、その間に妻子を逃がそうともしたが、柏原城は落城。大半は殺され、わずかに生き残った者も他国に逃げざるを得なかったという。

明智光秀に本能寺で討たれた時、信長は光秀の大軍に包囲され、なすすべもなかった。伊賀の人々の無念を少しはわかっただろう、当然の報いである。ザマアミロ

道の駅「宇陀路室生」はアルカディアを目指したが

道の駅「宇陀路室生」は柏原城の戦場からは直線距離で4km西、奈良県北東部の人口約6千人の過疎の村「旧室生村(現宇陀市室生)」にある。大阪市と三重県津市を東西に繋ぐ国道165号線の、ちょうど中間あたりの道沿いである。

駐車場は広くないが、しっかり空いている。休憩にはとてもいい道の駅なので、ぜひ立ち寄っていただければ。

トイレは建物の右手。ちょっと年季が入っているがごくごく普通のおトイレだ。

休憩環境としてはとても良い。駐車場に沿って綺麗な川が流れていて、のどかである。

かつて旧室生村は、市町村合併前は「むろうアートアルカディア計画」を推進していたそうだ。 「芸術文化と自然が調和し、自然と人間が共生する理想郷(アルカディア)を実現し、未来への文化遺産とする」というもので道の駅「宇陀路室生」はその象徴となっていたが、市町村合併によってこの「むろうアートアルカディア計画」は頓挫したそうだ。合併後なぜ引き継がなかったのだろうか。ひと際目立つ大きな銀色の球体のモニュメント、 宇陀川沿いに真っすぐに並ぶ17本の列柱など、不思議なアートはアルカディア計画の「遺構」である。

道の駅 | 宇陀路室生 | モニュメント「my・sky・hole地上への瞑想」

アートと調和しているかどうかはわからないが、自然はすばらしい。

物産館では奈良県&三重県の特産品を販売

道の駅「宇陀路室生」は物産館とレストランから成るシンプルな施設。 入り口でせんとくんが出迎えてくれる。言っちゃ悪いが、いつ見ても頭から生えたツノがグロテスク。顔は「ふるナビ」のCMの貴乃花親方にそっくりなのだがw

道の駅では定番の農作物の販売は行われていないが、 すぐ近くに農作物直売所「こもれび市場」がある。農作物直売所付きの道の駅として利用する人もいるだろうか。

物産館でまず目についたのは、草餅、丁稚羊羹などの和菓子類だ。

ここは三重県と奈良県の県境近くに位置しているので、両県の特産品が販売されている。 奈良県定番の「柿の葉寿司」「奈良漬け」、三重県定番の「大内山牛乳」などだ。

日本最古のうどんを味わう

レストラン「青葉の庄」には一般的なメニューも揃っているが、この地方ならではの独特の料理がある。それは、「日本最古のうどん」を標榜した「春日餺飥(はくたく)うどん」。 春日大社で振る舞われていたとされる「古代うどん 餺飥」を再現したものらしい。 小麦粉に米粉や山芋の粉を混ぜた平麺だが、かなり太いので、きしめんというより山梨県の「ほうとう」や群馬県の「ひもかわうどん」に近いだろうか。

「春日餺飥うどん」を楽しくいただいていた平和な村を突然己の怒りにまかせて焼き尽くした信長に対する怨念はいかばかりか。私は太平たい当時のうどんを啜りながら、首を刎ねられた700余人の僧侶、ほぼ皆殺しにされた伊賀者たちやこの地の人たちの怨念を強く感じた。