
塩尻峠と勝弦峠の間からは、諏訪湖と八ヶ岳、蓼科山が見える。また、その場所からは北アルプスの穂高岳、槍ヶ岳、常念岳を眺めることもできる。
塩尻峠、勝弦峠とは、武田信玄が信濃国制覇に大きく歩を進めた戦場である。
天文年間、信濃侵略をめざす武田信玄は、信濃の武将たちと幾度となく合戦をくり返していた。
順調に信濃国に勢力を拡大していた甲斐国の戦国大名・武田信玄だったが、天文17年(1548)2月、信濃国の覇権を巡る村上義清との戦い(上田原の戦い)で大敗してしまう。この敗北で信濃国の反武田勢力は盛り返し、さしもの信玄の信濃国制圧は一歩後退したかに思えた。
ところがこの危機にあって信玄はまもなく、天文17年(1548)7月19日に起こった信濃国守護の小笠原氏との合戦で大勝。信玄が再び形勢を逆転し、信玄信濃国制圧への転機となった。
この戦いが、「塩尻峠(勝弦峠)の戦い」である。
信玄と激突した小笠原氏とは
合戦の経緯の前に、まずは信濃国守護・小笠原氏について触れておく。
武田信玄の信濃国侵攻に立ちふさがったのは村上義清だけではなかった。信濃国守護である「小笠原長時」も周辺の豪族を味方につけて信玄に敵対した。しかし、この小笠原氏は、実は武田氏と同じく、甲斐源氏の祖・源清光の末裔。清光の三男である源遠光の子・源長清が、甲斐国巨摩郡小笠原郷を継いで小笠原氏を称したのが始まりとされている。
室町期に信濃国の守護となってからは、代々守護職を務め、戦国期にも信濃国の守護として筑摩郡と安曇郡の2郡を支配した名家。信濃国では村上氏と並ぶ勢力を誇っていた。
小笠原長時は信玄と同じ年の天文10年(1541)に小笠原氏の家督を継ぎ、最初に信玄と激突したのは天文14年(1545)のことだった。
武田との初対戦に敗北
かつて信玄が諏訪郡を攻めた際に武田方に味方した伊那郡の高遠頼継は、諏訪氏を滅ぼした後に諏訪郡の西半分を支配した。そして今度は諏訪郡全域を制圧すべく、伊那郡の藤沢頼親と共に、天文11年(1543)諏訪郡の武田領に侵攻した。しかし頼継・頼親連合軍は武田勢に撃退され、頼継は諏訪郡から撤退。この時、頼親は信玄に降伏している。
逆に信玄は天文14年(1545)から伊那郡へ侵攻。高遠城の頼継は、箕輪城(福与城)の頼親を再度味方に引き込んで抵抗した。頼親は小笠原長時の妹を正室に迎えていたので、藤沢氏と小笠原氏は姻戚関係にあった。
こうした背景から小笠原長時は信玄の侵攻に備えて龍ヶ崎城に援軍を出したのだが、このとき武田重臣の板垣信方に龍ヶ崎城を攻略され、敗退してしまう。高遠城も陥落となり、箕輪城の頼親は信玄と和睦した。
開戦までの経緯
諏訪郡や伊那郡を制圧した信玄は、続いて佐久郡へも侵攻する。しかし、天文17年(1548)2月の上田原の戦いで小県郡の村上義清と激突した結果、初めての敗北を喫したのだった。
これをきっかけに武田領は混乱に陥った。
4月には高遠頼継が甲府から逃げ出し(『高白斎記』)、さらに村上氏、小笠原氏、安曇郡の仁科氏の軍勢は諏訪郡に侵攻して放火。藤沢頼継も再度信玄を裏切り、この侵攻に加わっている。
なお、この放火は、諏訪下社の宮移りの祭礼の日であり、諏訪上社の、あの「御柱引き」の祭りが近づいていたため、その隙を突く攪乱工作だったとみられる。
佐久郡においても武田氏に背く佐久国衆が相次ぎ、村上勢によって佐久郡の前線基地であった内山城の大半を焼かれ、前山城も佐久国衆に奪還されてしまう。
この絶好期に長時は諏訪郡に侵攻したが、結局諏訪郡を攻略できなかった。あとでこれが大きく響くことになる。
7月には、西方衆と呼ばれる諏訪地域の地侍が長時に呼応。この時、諏訪上社長官の守矢頼真や千野氏など武田方に誼を通じている者らは上原城に避難していた。そして長時もまた西方衆の動きに合せて、塩尻峠まで出陣していた。
西方衆の反乱の知らせを聞いた信玄はただちに甲府を出発。そして甲斐国と信濃国の国境に位置する大井森(北巨摩郡長坂町)で進軍を止め、慎重に諜報活動を行ったが、それはおそらくここで、塩尻峠まで軍勢を進めていた長時の存在に気が付いたからだと思われる。兵の数では信玄の方が劣っていたのだ。
塩尻峠の小笠原陣営を急襲して武田勢が圧勝
7月18日まで大井森に留まっていた信玄は、夜にかけて諏訪郡の上原城に入る。ここまで動きの鈍かった武田勢と、諏訪湖を挟んで遠く離れた上原城に信玄がいることに油断した長時は、すっかり警戒を怠っていた。信玄は翌朝には諏訪側から静かに兵を動かし、塩尻峠の小笠原勢の陣営を急襲した。

急襲された場所は北アルプスを背にしており、諏訪方面への見通しはあまり良くない。武田の進軍が分からなかったのだろう、小笠原勢は誰一人として武具をつけておらず大半は就寝中で、武田勢と立ち合うことすらできない有様だったと伝わっている。
こうして戦いは武田方の一方的な勝利となり、小笠原勢は1千余人が討死した。長時は命からがら本拠地の林城に帰還したが、信玄はそれを追撃。松本平まで侵攻した。
この戦いの勝利で武田方は息を吹き返し、長時はその勢いを止めることができず、天文19年(1550)林城も陥落されて信濃国を追われてしまい、その妹婿である藤沢頼親は、穴山信友を通じて再度信玄に降伏した。
こうして、いったん上田原の戦いで危機的状況に陥った信玄は、塩尻峠の戦いを機に一気に形成を逆転し、小笠原氏を滅ぼして中信濃を制圧し、北信濃を除く広大な領土を支配するようになる。
ただ、残る北信濃の領地は宿敵の村上義清が支配しており、その背後には信玄のライバルとして長く渡り合うことになる越後国の上杉謙信が控えていた。
小笠原長時にもう少し信濃国の武士をまとめる力があれば、信玄は本格的に信濃国から兵を退いたかもしれません。しかし、合戦においても、調略においても長時より信玄の方が一枚上手だったのです。器量では長時は信玄には敵わなかったということでしょう。
ちなみに長時は三好氏、上杉氏、織田氏に仕えた後、最終的に会津国の蘆名氏に軍師格として迎えられ、天正10年(1582)に武田氏が織田信長に滅ぼされると翌年に死去している。
しかし孫の小笠原秀政の代になると、小笠原氏は信濃国松本藩8万石の初代藩主へ。勝って滅びた武田氏と、負けて繁栄した小笠原氏。
実に不思議な運命である。
雄大な北アルプスを望む道の駅「小坂田公園」
長野自動車道の塩尻ICから国道20号線を南に約1キロ、長野県のほぼ中央部の塩尻市の「塩尻峠の合戦趾」からほんの数キロ西北西に、道の駅「小坂田公園」はある。

この道の駅は非常に多彩な施設群を持っており、物産館、農作物直売所、レストラン、喫茶店といった道の駅の定番施設の他に自然博物館、ゴーカート場、 パターゴルフ場、ナイター設備の整った大きなグランドなどがある。道の駅というより、老若男女を問わず手軽に運動を楽しむ大公園だ。


こうしたスポーツ施設と共に本駅の特徴と言えるのが、とても美しい景観だ。
ちなみに塩尻峠の中腹に位置する道の駅「小坂田公園」からは、塩尻峠で小笠原長時が背に見ていた雄大な北アルプスの風景をやはり望むことができる。
道の駅としての基本機能はどうか?
駐車場は、幾つもあって、どこに停めていいか迷う(笑)

広いが、平らな土地ではないので、全体を見通すのが困難なのだ。



トイレは文句なし。もちろん、道の駅の敷地が広いので、行った先々でちゃんと見つかるかどうかが問題。でも、多分大丈夫だと思う、知らんけど。




では、ちょっとした休憩はしやすいか?
これについても、どこかしこにそうしたスペースがあって、しかも景色がいいので、素晴らしいというしかない。









信州の農作物、信州ワイン、長野の地酒が勢ぞろい

物産館には、この地方の新鮮な野菜や果物がばっちり揃っている。







物産館で、酒飲みの私の目に付くのはやはり信州ワインと長野の地酒だ。
信州ワインは、「奏音(カノン)」「五一ワイン」「安曇野ワイン」「山辺ワイン」「井筒ワイン」等がしっかり揃っている。

地酒コーナーには「高波」「笑亀」「山清」等、こちらも長野の酒蔵の商品がしっかり揃っている。「アルプス正宗」という地酒は知らなかったが、これは「ワイングラスが似合う酒」の日本一の栄冠に輝いた酒らしい。わざわざ日本酒をワイングラスで飲まなくてもいいとは思うが、知らんけど。
信州といえば、野沢菜。漬物の品揃えも充実している。「野沢菜」を基本に、少しアレンジした「野沢菜しょうゆ漬け」「野沢菜しぐれ」「野沢菜昆布」など、どれも美味しそうだ。
また、信州と言えば蕎麦である。

ここでしか買えないような蕎麦もあって、どれにするか迷ってしまう。試食させてほしい!(笑)
ご当地グルメの山賊焼もある


レストランではご当地グルメの「山賊焼」がイチオシらしい。 国産鶏のモモの一枚肉をニンニクや地元野菜と特製のタレに漬け込んで、片栗粉を付けて揚げたメニューだという。 「山賊焼丼」「山賊焼カレー」等のバリエーションがあるので、その辺はお好みで。
山賊焼は単品テイクアウトもできるので、安全策を取りたい人は「ざるそば」「天ざるそば」「山菜そば」「とろろそば」とかで手を打てばいいだろう、手打ちそばだけに。
お後がよろしい、結構な道の駅だった。