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神生 六

インスタ映え「園部城もどき」の史実錯誤に、道の駅「京都新光悦村」で憤る(トイレ△仮眠○休憩△景観△食事△設備△立地○)

園部城は、園部公園内の案内図にある「こむぎ山」と書かれた所にあった山城でした。室町時代から戦国末期、ここ園部は、織田信長に抵抗して最後は磔にされる丹波八上城主・波多野氏の勢力圏であり、家臣の荒木山城守氏綱が居城とした園部城があったのです(冒頭の画像は荒木氏の「抱き牡丹」紋)。ちなみにこの場所は現在は山頂の本丸跡に戦関連の碑があるものの植物園になっていて、これといった遺構はありません。 天正6年(1 […]

「宮武外骨」と「讃岐うどん」を生んだ「滝宮」の新人「冬採れいちご」(トイレ◎仮眠○休憩○景観○食事◎設備◎立地○) 

今年も、偉大な先人が何人もこの世を去りました。あくまで「私的には」断りが必要ですが、「編集工学」を提唱して編集者、著述家として多方面で活躍し、独自の視点で日本文化を論じた松岡正剛さんのご逝去がもっとも残念で、今年もっとも衝撃を受けたことでした。正剛さんについては今さら紹介する必要もないでしょうからごく手短に。 「早稲田大文学部中退。1971年に科学と芸術を融合する雑誌『遊』を創刊、1981年に編集 […]

光秀はなぜ信長を討ったのか。「周山城」側道の駅「ウッディー京北」にて妄想(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事△設備△立地△) 

周山(しゅうざん)城は、明智光秀が築いた城として最大規模のものです。石づくりの「東の城」、土づくりの「西の城」で構成される巨大な山城です。明智光秀は、織田信長の命を受けて丹波を平定。信長の天下統一事業にとって最重要な京の都に近い丹波平定を果たした光秀は高く評価され、信長は引き続き光秀に丹波地方を任せたのでした。 任された光秀は、丹波地方安定のために広い丹波の要所に城を持ちましたが、周山城は八上城と […]

鎌倉幕府軍が「楠木正成」に迫った道のり、途中道の駅「かなん」で休憩(トイレ○仮眠△休憩○景観△食事△設備△立地○) 

今は、特殊詐欺の悪党が蔓延る世の中ですが、鎌倉時代末期の日本は、モンゴル帝国から侵攻を受けて鎌倉幕府が弱体化。幕府の衰えにつけこんで「悪党」と呼ばれる武士たちが台頭し始めていました。そんな1318年(文保2年)、後醍醐天皇が即位。幕府と自分の境遇に不満を募らせていた後醍醐天皇は、鎌倉幕府から政治の実権を奪おうと倒幕計画を画策。「無礼講」という飲み会を開き、裏金づくりならぬ「仲間づくり」を進めます。 […]

「牛岐城址」も道の駅もしょぼいが「青色ダイオード騒動」は超エキサイティング!(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事△設備△立地◎) 

牛岐城は、徳島県阿南市富岡町殿町にあった平山城。築城年代は定かではありませんが、至徳年間に阿波国守護の細川氏に従属していた「新開実重」が築城したと考えられています。中世からの歴史のある城郭が蜂須賀氏入国後も改修されて、阿波9城の1つに数えられています。 私も「阿波9城」の一角をなすということで、牛岐城址を訪ねました。城址公園の東側には古墳のような規模の高台が1つあり、それが城の中心部であったらしい […]

「第九大好き日本人」の謎を解明したく、道の駅「第九の里」へ(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事△設備△立地○) 

今年も、聞こえ始めましたよ。毎年年末になると聞こえてくる、あの「第九」が(笑)。 ベートーヴェンの交響曲第9番「第九」は、日本でも国民的楽曲と言えるほど親しまれており、特に年末になると商店街にも楽曲が流れ、全国各地で演奏されています。 ドイツの作曲家、ベートーベンが作曲した交響曲第9番の第4楽章にあるドイツ語の合唱部分は、おそらく誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。私も中学の音楽の時間に何故か […]

「富田茶臼山古墳」へ、道の駅「みろく」から(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事◎設備△立地○) 

富田茶臼山古墳は、香川県の東部、長尾平野の東端に位置する四国地方最大の前方後円墳。南方の讃岐山脈(阿讃山脈)から派生した低丘陵の縁辺部に立地し、丘陵の稜線に直交するように前方部を西方に向けて築造されています。後円部に立つと長尾平野が一望でき、弘法大師ゆかりの五剣山や、高松平野との結節点に聳える白山を遠望することができます。 古墳の北側には津田川が流れ、蛇行しつつ東流して播磨灘に開く津田湾に流入して […]

道の駅「津田の松原」のうどんは最高!幸せ気分で松原からの「雨滝城」へ!(トイレ○仮眠○休憩◎景観◎食事◎設備○立地○) 

道の駅 津田の松原」は、高松自動車道の津田東ICから国道11号線を西に3km、 あるいは高松自動車道の津田寒川ICから県道37号線→国道11号線を通って東に3km。香川県北東部の瀬戸内海に面した旧津田町(現さぬき市津田町)にあります。 この駅は、一つの建物の中に物産館とうどん店が同居しています。 入口は別々で、中央付近に物産館の入り口、右端にうどん店の入り口があります。 かつては物産館が8割、うど […]

道の駅「源平の里むれ」からは、「総門跡」からの「屋島」に行くっきゃない!(トイレ○仮眠○休憩○景観◎食事○設備○立地◎)

源平合戦の古戦場として知られる「屋島」は、高松市街から東に進んだところにあります。遠くからみると、島にそびえ立つ山がまっ平らな屋根みたいになっていることから、「屋島」という名前がついたそうです。ここは溶岩台地で、山上からは波穏やかな瀬戸の海と一体となった高松市街や瀬戸内の多島美が一望できます。山上には四国霊場第84番札所の「屋島寺」や世界的にも珍しい山頂の水族館「新屋島水族館」などがあり、屋島スカ […]

好天の道の駅「いたの」にて。青は藍より出でて藍より青し!(トイレ◎仮眠△休憩◎景観△食事○設備◎立地◎) 

「青は藍より出でて藍より青し」。よく使う言葉ですね。教えを受けた人がやがて教えた人よりも優れるということを言いたいときに使いますが、この言葉の由来は、青色の染料である藍から取る青色が、原料の藍よりも青くなる、ということにあります。この言葉を使って伝えたいことは「学問は中断しなければすぐれた効果を上げる」「今君を教えている私を君は超えていけ」ということですよね。 「紺屋の白袴」という言葉もよく聞きま […]

道の駅「瀬戸大橋記念公園」にて、二人の「聖通寺城主」の明暗を考える(トイレ○仮眠△休憩○景観◎食事△設備○立地◎)

仕事で大失敗し、惨めな思いをした人はたくさんいるでしょう。私ももちろんその一人です。失敗から学べと人は言いますが、それが「大失態」となると、昔なら改易(かいえき=罪科や不祥事などによって官職や身分、領地などが没収される刑罰)、今なら懲戒解雇や大降格人事みたいな処分を食らうわけですが、こうなると同じ会社で挽回することは難しいということはありますよね。 香川県と岡山県を結ぶ瀬戸大橋の、香川県側の最後の […]

「海賊代将軍」村上武吉の本拠「能島城」から、「村上海賊ミュージアム」へ

瀬戸内海を東西に分断するかのように島々が南北に密集して連なる「芸予諸島」は、一見すると穏やかに見える海況ですが、狭い海峡(瀬戸)にいざ船を進めると、大潮時には高低差3m以上にもなる潮の満ち干きや、最大 10 ノット(時速約 18 ㎞)の潮流が容赦なく襲ってきます。古来より航海者を悩ませてきた海の難所で生きる漁師たちの間では、「船に乗るより潮に乗れ」と言い伝えられてきました。 村上海賊は、このような […]

道の駅「笠岡ベイファーム」で、郷土の国への貢献と犠牲とを考える(トイレ○仮眠△休憩○景観△食事○設備△立地✖️)

笠岡の南東に位置する神島(こうのしま)は、笠岡港を台風の暴風から防ぎ、本土との幅100mほどの神島水道(神島瀬戸)は、船舶の東への近道でした。現在は、笠岡湾の干拓によって陸続きになり、神島瀬戸には橋が架けられて、離島ではなくなっています。 古事記には神武天皇が東征の際、吉備の国の高島宮に8年間滞在したと記述があり、この高島宮が神島の東沖の高島であるとの言い伝えが残っており、神島の西海岸に神武天皇が […]

村上水軍の拠点「因島水軍城」「甘崎城」からの道の駅「多田羅しまなみ公園」「しまなみの駅御島」(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備○立地○)

南北朝時代から戦国時代にかけて因島を拠点として活躍した村上海賊は、その時代の瀬戸内海の制海権を握っていました。遣明船の警護のほか、水軍を重視した毛利軍について多くの幾つもの合戦に参加してきましたが、1576年、織田信長との大阪木津川口の戦いでは、石山本願寺に兵糧攻めを企てる織田信長の水軍を、毛利勢率いる村上海賊が撃破しています。この戦いでは、村上海賊が自ら考案した「焙烙火矢(ほうろくひや)」を敵船 […]

道の駅「よしうみいきいき館」から、村上水軍の南の拠点「来島城」跡へ(トイレ△仮眠△休憩○景観○食事○設備△立地○)

海上支配のため、来島、能島、因島の三家に分立し、長く瀬戸内を支配した村上氏。来島城(くるしまじょう)は、村上義顕(よしあき)の三男吉房(よしふさ)が分家して来島に入って築いたと云われ、 以降6代160年にわたって続く来島村上水軍の拠点であり続けた、最大潮速時速約20kmの来島海峡のまさに喉元に位置する「海賊の城」です。 村上水軍三家のうち最も四国よりに拠点を構えた来島村上氏は、主家河野氏の内紛に乗 […]

道の駅「伯方S.C.パーク」に車を停めて、村上水軍の拠点「見近城」跡へ(トイレ△仮眠○休憩◎景観○食事○設備△立地○)

和田竜さんの小説「村上海賊の娘」をご存知でしょうか。和田竜さんは、映画化された「のぼうの城」で脚光をあびた人気作家で、「村上海賊の娘」は、2014年に本屋大賞を受賞した作品です。 現在の大阪城がある場所に石山本願寺があった時代に、織田信長が退去を求め、それを拒否する本願寺側との戦(木津川口の戦い)で、本願寺側として戦った村上水軍の娘の活躍と生きざまを描いたもので、芸予諸島をはじめ明石海峡や大阪湾な […]

「石州口の戦い」跡から東へ、道の駅「サンエイト美都」から「美都温泉」へ(トイレ○仮眠◎休憩○景観◎食事△設備△立地○)

岸静江は、第二次長州征討の際の石州口の戦いにおいて、単身で関門を守ろうとして討ち死にした幕末の浜田藩士です。名を国治といい、1836年、越智松平家に仕える岸家の長男として群馬県に生まれますが、その年の国替えで浜田の人となります。少年期は極めて優秀な成績で、江戸への遊学も経験した秀才でした。 1860年に浜田藩第4代藩主松平武聡の近習として召し出され、1866年には岸家の家督を継ぎ禄高110石の物頭 […]

道の駅「ごいせ仁摩」にて、尼子氏の盛衰を振り返る(トイレ◎仮眠○休憩△景観○食事○設備○立地○)

尼子氏は、元を辿れば近江(滋賀県)の京極氏の流れで、出雲国守護代でした。応永二年(1395)、江州京極高詮の守護代として富田城に入り、出雲・隠岐両国を治めようと決意したのは尼子持久です。その後、持久の子・清貞が家督を相続して京極からの独立を図りますが、この時は失敗に終わりました。その二年後、富田城を攻め、乗っ取りに成功したのが清貞の嫡男・経久です。守護京極政経に対抗して戦国大名として独立を果たした […]

道の駅「サンピコ江津」から、中国地方の覇者・毛利元就の戦いの軌跡を辿る(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事○設備○立地○)

毛利元就は、互いに対立していた大内氏と尼子氏の双方に仕えながら、多くの戦いを経験しました。元就の時代は、まだ鉄砲の普及が無かった時代です。また、複雑な地形を利用した山城が多く、どれも攻略が難しいものばかりでした。元就の戦いでは、「調略」を用いて多くの戦いに勝利しています。人は、元就のことを「謀神」と呼ぶくらい、謀略に長けた武将でした。籠城戦でも、10倍の兵の尼子氏の大軍を打ち負かした戦いもありまし […]

道の駅「舞ロードIC千代田」はかつて「有田中井手の戦い」があった場所だが(トイレ○仮眠△休憩○景観△食事○設備○立地○)

のちに中国の覇者となった毛利元就の初陣は、永正14年(1517)の有田中井手の戦い(有田合戦)。時に元就21歳でした。この戦いは、圧倒的な大軍を少数で破った戦いとして、織田信長と今川義元が戦った「桶狭間の戦い」になぞらえて「西の桶狭間」などと言われることがあり、元就の指揮を絶賛する向きがありますが、実は元就が全軍の指揮をとっていたわけではありません。 毛利の当主である幸松丸は幼く、もちろん出陣はし […]