
中国地方を旅していると、ついつい尼子V.S.毛利の戦国時代に思いを馳せる。
私は謀略まみれの毛利アレルギー、故に尼子びいきだが、赤穴瀬戸山城(あかなせとやまじょう)も「尼子十旗」すなわち尼子氏本城・月山富田城を防衛した主要な十支城の一つだ。
島根県飯石郡飯南町の赤名市街地の背後にそびえる武名ヶ平(ぶながひら)山(724.4m)から派生した、標高631mの衣掛山の山頂に、佐波(さわ)氏=後の赤穴(あかな)氏によって14世紀後半に築かれたとされている。
赤穴瀬戸山城のある赤名地域は、備後、石見、出雲の境目に位置していることから戦国時代にはたびたび戦場となり、天文11年(1542)に周防の大内義隆、陶晴隆軍に、永禄5年(1562)には、毛利元就軍によって攻められたが、難攻不落の山城として、尼子氏をよく守った。
一国一城令により破却されてしまったが、現在でも赤名の町から望む、山頂に築かれた石垣や曲輪も、また城址から見下ろす街の景色も共に素晴らしく、山城の研究者をして「但馬竹田城を彷彿とさせる」と言わしめる名城だった。
酒蔵の向こうがわ、山の頂上に城址が見える。

瀬戸山城の戦い前夜
戦国時代の中頃、中国地方では出雲国月山富田城(安来市広瀬町)に本拠を置く尼子氏と、周防国山口(山口市)を中心に7ヶ国の守護を兼領する大内氏によって勢力が二分され、二者の間で覇権をめぐって一進一退の攻防が繰り返されていた。
1540(天文9)年に尼子晴久は、当時大内氏の配下にあった毛利元就(安芸郡山城)を攻めたが郡山城攻めに失敗し、富田城へ敗走した。
1542(天文11)年正月、大内義隆は尼子氏の富田城を目指して山口を出発。毛利元就をはじめ、石見・備後勢を合わせ、数万とも言われる大軍は石見国出羽の二つ山城に滞陣し、出雲国の入り口に位置する尼子方の堅城、瀬戸山城を攻略するためのの軍議を重ねた。
瀬戸山城に篭る赤穴氏には、尼子氏の本城である富田城から田中三郎佐衛門率いる援軍が到着。瀬戸山城を守る赤穴光清の軍勢は、尼子氏からの加勢を含めわずか二千だったが、城主の赤穴光清は城下を流れる神戸川を堰き止めて一帯を湖水化し、敵の侵攻に備えたと伝えられている。
瀬戸山城ついに陥落
瀬戸山城攻めの幕は1542年(天文11)6月7日、大内方の熊谷直続によって切って落とされた。直続は、神戸川の堰を決壊させ、先功を立てようと手勢三百を引きつれ火を放ちながら城下に現れたが、赤穴光清や田中三郎左衛門・吾郷大炊介により討ち取られる。
赤穴勢は、熊谷との合戦後も出羽助盛、本庄経光ら大内方の諸将の攻撃を受けるが、地の利を得た巧みな戦術と勇猛な戦いぶりによってことごとくこれを退けた。
7月27日、ついに陶隆房、吉川興経らを中心とする大内勢の総攻撃が開始される。吾郷大炊介、松原采女らの奮戦によって、大内方を自陣に押し戻してその日の戦いは終わったかに思われたが、城主赤穴光清が流れ矢に倒れ、難攻不落の瀬戸山城はついに陥落した。
赤穴城を落とした大内・毛利軍は広瀬の月山富田城へ進軍し、尼子氏を囲むに至るが、離反する者が続出。出雲国からの撤退を余儀なくされて、尼子攻略は失敗に終わった。
大内・毛利軍の尼子攻略の緒戦で、2ヶ月近くの大軍を足止めさせた「瀬戸山城の戦い」が、結果的に大内・毛利軍の遠征失敗に至らしめたことことは間違いない。
この国で鉄砲が使われた最初の戦い
尼子・毛利の戦いを記録した書物に『雲陽軍実記』があるが、1542年の瀬戸山城の合戦の頁には次のような記述がある。
「然るに右京亮幸清(中略)鉄砲二十挺に弓を交え城の向かふ谷奥に伏せ置き(中略)味方難儀と見るとき、不意に横箭に入り、敵の跡より打っていでよ・・・」
「(前略)向かう小谷口より伏勢弓鉄砲を揃え立て横矢にうち立て射立てする程に・・・」
赤穴方が待機させていた弓矢・鉄砲隊によって、大内・毛利方が攻撃を受け、出羽助盛の軍勢が負傷したと伝えているのだ。
1542年といえば、種子島への鉄砲伝来の一年前だ。
鉄砲伝来を教科書的にいうと、天文12(1543)年、鹿児島・種子島に漂着した南蛮人が火縄銃をもたらし、その後、国産化され戦国大名らに広まったとされる。
その鉄砲伝来の1年前の戦いだから、あり得ないと考えるのが普通だろう。
しかし、広い意味での「鉄砲」は、もっと以前から使われていたらしい。例えば応仁の乱前年の1466年に足利将軍の前で琉球人が「鉄放」を披露したとか、その2年後に東軍の陣営で「飛砲火槍」を見たとの僧侶の日記もある。
瀬戸山城の戦いで使われた銃は、石弾を使用する粗製な物ではあったかもしれないが、「鉄砲」と言うものが戦に使われたことが最初に確認できる戦いであった、その可能性は、完全には消せないようだ。
毛利氏の侵攻と二人の忠義
1542年(天文11)、瀬戸山城を攻め落とした大内軍は大軍を油木(飯南町頓原)へ進め、およそ40日にわたって滞陣した後、1543年(天文12)、正月から尼子氏の富田城を攻撃した。しかし、思うように富田城攻略は進まない。やがて大内方には、寝返る武将が相次ぎ、城を落とせぬまま尼子の反撃を受け、全軍総崩れとなって山口へ敗走した。
陶晴賢の大内家への反逆、厳島の戦いを経て、1560年頃には毛利元就が安芸を中心とした6ヶ国を支配するようになっていた。
1560年(永禄3)、尼子晴久が死去すると、毛利元就は尼子攻略のため出雲国へ大軍を進め、これに対して瀬戸山城では、毛利軍襲来を前に交戦か降伏かで評議が行われていた。
「今、毛利の大軍を相手に戦っても利なし」との結論に達した瀬戸山城だったが、尼子氏への忠義を貫くべきだと主張し、城を出て毛利方に戦いを挑んだ二人の武将がいた。
烏田権兵衛勝定と森田左衛門勝経だ。二人は一族らを引き連れ、賀田城や突根尾原を拠点に反乱軍を組織。毛利軍に攻撃を仕掛け、進軍をたびたび妨害したが大軍の前に烏田は討たれ、反乱軍も鎮圧された。この間、すでに毛利氏の旗下となっていた瀬戸山城主赤穴久清は「人道の正路は彼にありて非義はそれがしにあり、忠義一途の両人の賢士を討つ事、無道と存じ」として反乱軍に対し討伐の兵を差し向けることはなかったといわれている。
石見銀山街道の赤名宿にある道の駅
道の駅「赤来高原」は、瀬戸山城から西北西に1キロちょっとの距離にある。



町域の9割以上が山林の自然豊かな場所で、 人口密度はとても低いが、道の駅周辺には民家が集中。
古くは戦国時代の赤穴瀬戸山城の城下町として、その後は石見銀山街道の赤名宿として栄えた歴史を感じさせる。



鉄道も高速道路も走っていない赤来町だが、道の駅の利用客は、駐車場の車の台数を見る限りそこそこいるようだ。
道の駅のすぐ近くには赤名宿の古い街並みが残り、赤木高原観光りんご園もあって、 これらの観光客の多くが道の駅を利用しているのだろう。
道の駅物産館では町内の名店の商品を販売
道の駅の施設は物産館、農作物直売所、レストラン、パン工房。
物産館には、町内の名店が商品を出品している。 リンゴ狩りでお馴染みの赤来高原観光りんご園からは「りんごジュース」「りんごジャム」「ブルーベリージャム」、 「高原の郷つがか工房」からは「おからサブレ」「米粉クッキー」「アーモンドボール」、 老舗菓子店「吉川吉盛堂」からは「きな粉クッキー」「キャラメルフィナンシェ」「絹の峰純米酒バターケーキ」など、飯南町が発祥の蕎麦の名店「一福」からは「出雲そば」「大しめなわそば」「名物そば」、 飯南町の酒蔵「赤名酒造」からは地酒「絹乃峰」等々。

パン工房「飯南キッチン・ミエル」のおすすめは、「コーンパン」「メロンパン」「りんご&カマンベールチーズパン」等。
このパン工房は、レストランも運営していて、焼きたてのパン類の提供だけでなく、モーニング、ランチ、ディナーメニュー、デザートメニューの提供がある。




