
東海道「藤川宿」は、慶長 6年(1601)、東海道五十三次品川から数えて 37 番目の宿場町として誕生した。
この地で生まれた大久保忠教、通称・彦左衛門は徳川3代に仕えた「天下のご意見番」として、講談などにしばしば登場する人物であるが、80歳まで生きた彼は、自らの故郷に藤川宿ができ、繁栄する様をしっかり見届けている。
しかしまた、戦乱期と江戸時代の天下泰平にわたって生きたゆえ、彼の人生は、目まぐるしい時代の変化に違和感を感じ続けた人生でもあった。
徳川家康の重臣・大久保忠世を長兄に持つ彼だが、忠世とは28歳もの年齢差があった。家康の天下取りの過程で武功を挙げのは兄ばかり。チャンスは極めて少なかったことを考えれば、不満を募らせたのは若い頃からだったかもしれない。
それでも1585(天正13)年の上田城攻め、1590(天正18)年の小田原攻めなどでは活躍し、兄・忠世が小田原城主に任じられた際には彦左衛門にも3,000石が与えられている。
その後も関ヶ原合戦や大坂の陣など徳川家の存亡を賭けた重要な合戦では、本陣を守る槍奉行として参戦。功臣「徳川二十八神将」の一人として数えられるに至った。
長生きで得るものと失うもの
大久保彦左衛門は永禄3(1560)年、忠員の八男として生まれた。
そして、この時代には珍しく80歳まで生きたが、長生きして「得るもの」と「失うもの」を共に味わい尽くしたような人生であった。
大久保家は、彦左衛門の6代前の泰昌が、松平家の3代・信光に仕えてから9代の家康まで、7代にわたって仕えてきた譜代の家だった。彦左衛門の父・忠員(ただかず)は三男で、大久保の本家ではなかったが、家康の祖父・清康のころから家康まで、3代にわたって宿老として仕えたため、本家をしのぐような扱いを受けるようになっていた。
彦左衛門の長兄は忠世。次兄に忠佐(ただすけ)がいて、この2人は「徳川十六神将」に数えられている。彦左衛門は、忠員50歳のときの子で、冒頭にも触れたように忠世とは28歳、次兄の忠佐とは23歳も年が離れていた。
長兄の忠世は、永禄6年の「三河一向一揆」に始まり、元亀3(1572)年の「三方ヶ原の戦い」、天正3(1575)年の「長篠・設楽原の戦い」などに参陣し、大いに武功を挙げた。三河一向一揆で家康に謀叛して牢人していた本多正信に「帰ってこい」と声をかけ、帰参を助けたのも忠世だった。
彦左衛門はと言えば16歳で家康に仕え、天正4年に兄・忠世とともに遠江侵攻に参戦し、「犬居城での戦い」が初陣となる。以後、忠世と、忠世の長子で彦左衛門より7歳年長の甥・忠隣(ただちか)父子の軍や、次兄・忠佐の軍に従属して各地を転戦し、天正9年の高天神城への攻撃では武功を挙げたが、彦左衛門は基本的に、部隊を率いる将ではなかった。
『三河物語』に溜まりに溜まった不満をぶちまけて
そんな彦左衛門は、晩年に生涯の記録を執筆している。
それは自伝ではあるが、子孫への教訓を目的として書き残されたと思われる、3巻3冊からなる『三河物語』である。
『三河物語』は、自分や兄弟、甥、従甥=いとこの息子などに降りかかった悲劇と徳川家の歴史を記した書ではあるが、「忠節一筋に艱難辛苦を耐え、たびたびの合戦で一族に多大な犠牲を出しながら、懸命に徳川に奉公してきたのに、大久保一族は何一つ報われない」という不満を連綿と書きつづった内容となっている。
戦国が終焉を迎え、泰平の世へと向かう頃。つまり徳川家が統治する世が訪れると、彦左衛門のような忠義を第一に武勇一辺倒で働いてきた家臣は徐々に居場所を失って、領国経営を担う官僚型の人材が重用されるようになっていく。
これまでの功績ある武士ではなく、新参の文官が重用される風潮に対して、不平や寂しさを書き綴った彦左衛門だが、これが同じように不遇をかこっていた武士たちの共感を呼んで、写本が出回り多くの人々に読まれるようになっていった。
そこにみられる彦左衛門の豪快な逸話の数々は、後世に講談で脚色され創作されたものと思われるが、自分で書いた『三河物語』に見られるような、彦左衛門の剛直で不器用な生き様は確かに愛され、共感した人々が親しみを込めて話をつくりあげていったのかもしれない。
いかに冷遇されようとも「徳川」しかない
彦左衛門が長生きをすればするほど、目が黒いうちに、政権を動かす担い手が武闘派から文治派に移っていく様を己の目で見ざるを得ない。武闘派筆頭のような本多忠勝だけでなく、彦左衛門もまた、一つの時代の終わりの中で不満を募らせていた一人だったのだ。
ところが、彦左衛門と徳川家と大久保家の歴史を記し、不満をたらたら記す一方で、子孫へは徳川家への変わらぬ忠義を強く訴えている。
『三河物語』で最も面白いのは、これまでの武闘派がないがしろにされ、恩賞も恵まれなくなった時代においてでもなお。自身の立ち回り方について、彦左衛門が子孫たちに向けて書いている、その内容である。
「いかに冷遇されても、徳川家とともに生きていくしかない!」。
時代も国も違うし、「愛と青春の旅立ち」という映画の話だが、軍隊で鬼軍曹に徹底的にいじめ抜かれた隊員(リチャードギア)が、「僕には帰るところがない!」と泣きながら叫ぶシーンを思い出す。

どんなに虐げられたも、耐える、我慢するしかないと思い詰めることにおいては同じだろう。
不満をどんなに募らせようとも、彦左衛門が子孫に伝えたかったことは結局、つまりは「長い物には巻かれろ」と言うことだった。
時代は全く違うが、自己主張強く、自分の思うまま、エキセントリックに生きてきた私などには到底理解できない、究極の「忠義」のあり方だ。
大久保彦左衛門と「鰹節」
一方で彦左衛門が記した『三河物語』では、当時の武士の生活についても述べられている。
奉公のため親族は多くが戦死し生活は苦しかったこと、家族が食べるものといえば麦や粟、稗の粥であったことなどがうかがえ、また、武士にとって鰹節が欠かせなかったことも記されている。
「鰹節=勝つ男武士」とも通じることから、縁起物とも考えられていた。
刃物で削ることで手軽に食べられ、持ち運びに便利で必要な栄養素も取れる鰹節は、行軍の際には兵糧食として重宝されていた。「鰹節の上皮を削って帯にはさみ、戦の前やひもじいときに噛めばことのほか力になる」との記述からは、出陣の際には実際に鰹節を帯に挟んでいたことが伺える。
また、彦左衛門と鰹節の繋がりを示す面白いエピソードも書かれている。
ともに家康に仕えて武功を競い、彦根藩祖となった井伊直政(1561~1602)が病気をした時のことだ。病床の直政を訪ねた彦左衛門は、「自分は鰹節を食べているため、すこぶる元気である。身分が上がって贅沢が出来るようになっても、鰹節を食べるように」と、鰹節を持ち寄って朝夕に食することを勧めたと。
この時代には珍しく80歳まで生きた彦左衛門の長寿の秘密は、鰹節にあったのかもしれない。
道の駅「藤川宿」の立地
東海道藤川宿は、慶長 6年(1601)、東海道五十三次品川から数えて 37 番目の宿場町として栄えた。約1kmの間にクロマツ約90本がそり立つ「藤川の松並木」や宿場町出入を示す「棒鼻跡」、江戸時代の門が残る「脇本陣」、また道中記や古歌に読まれた「むらさき麦」の栽培などに、往時の宿場町の面影を偲ぶことができる。
かつては歩く旅人が安らいだ東海道藤川は、400年以上の時を経て、今や車を運転する人が安らぐ道の駅「藤川」に変わっている。しかし、人と人がつながり、歴史や文化を伝え続ける交流の場であることだけは、今も昔も変わらないだろう。

車での移動においても重要な道の駅
道の駅「藤川宿」は、大久保彦左衛門の出身地、愛知県南東部の岡崎市にある。
岡崎市といえば、人口およそ40万人を擁する東海中部の中核都市のひとつだが、道の駅「藤川宿」がる藤川地区は、東名高速道路の岡崎ICから国道1号線を南東に5km走ったところで、田畑や森林が多くを占める自然豊かな環境である。
ただ、岡崎市中心部に向かう渋滞が道の駅近くまで延びることはしばしばで、道の駅到着まで多少の混雑は覚悟したほうがいいだろう。
それでもここは、主要国道1号線におけるとても貴重な休憩場所だ。
県内では国道1号線沿いにある道の駅は「藤川宿」のみ。名古屋や大阪方面に向かう場合、 次の道の駅は98km先の三重県「関宿」までないのだ。 しかもその道のりは、渋滞頻発区間。
それを知っている多くのドライバーは、ここで休憩するのである。
駐車場、トイレ、休憩環境は?
東京-大阪間の国道1号線沿いにある道の駅は、言い方はよくないかもしれないが、正直「貧弱」な道の駅が多い。
広い土地が確保できないという事情もあるのかもしれないが、ひょっとすると、渋滞を防ぐために「わざと」貧弱にしているのではないだろうか。
その点においては、道の駅「藤川宿」は例外。静岡県の道の駅「掛川」と並ぶ、国道1号線で希少な大規模な道の駅で、 駐車場も186台分が用意されている。
立地上、仮眠は取りたいところだが、何せ国道1号線沿い。通行量が多すぎてあまり仮眠が取りやすい駐車場とはいえないが、国道から離れた静かな駐車スペースはあるので、眠たければ無理をせず、しっかり仮眠は取りたい。





トイレも屋外からアクセスできる場所だけでなく、施設内のトイレも手入れが行き届いている。



休憩環境としては、その規模の大きさからすると十分なものではないかもしれない。


「むらさき麦」を使った特産品がズラリ
道の駅には、物産館、農作物直売所、レストラン、そしてコンビニエンスストアがある。
道の駅の物産館で目に付く商品は「むらさき麦」。松尾芭蕉がこの地で「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」と詠んだ、その麦である。

「むらさき麦」はその名の通り茎から穂先まで紫色になるのが特徴で、江戸時代には三河地方で盛んに栽培されていた。時は流れ、一時はほぼ姿を消した「むらさき麦」だったが、町興しのために藤川地区を中心に栽培が復活しているという。
岡崎市は「藤川宿むらさき麦プロジェクト」を展開。物産館には「むらさき麦コーナー」が設置され、「むらさき麦せんべい」「むらさき麦カレー」「むらさき麦そば」「むらさき麦ビール」などが並んでいる。

また、岡崎市と言えば「八丁味噌」だろう。
今では愛知県全般の定番の味噌だが、発祥は岡崎市八帖町(旧八丁村)。 道の駅では老舗の八丁味噌を購入して帰る人を多く見かけた。




むらさき麦と八丁味噌で押しまくるレストラン
道の駅の食事処「よって味りん」には、むらさき麦と八丁味噌を使ったメニューがいっぱい。
むらさき麦を使ったメニューとしては「むらさき麦カツカレー」「むらさき麦とろご飯」「むらさき麦かけきしめん」等。
八丁味噌を使ったメニューには「みかわもち豚の味噌カツ定食」「回鍋肉定食」「唐揚げ定食」「カツ丼」等がある。 レストランのほか、出店も数多くあって、五平餅、たこ焼き、ホルモンなどが販売されているので、あまり時間がないという人には、コンビニも合わせて重宝するだろう。

