家臣の相次ぐ裏切りで武田勝頼が自刃した「天目山」の地、道の駅「 甲斐大和」へ(トイレ○仮眠○休憩◎景観△食事○設備△立地◎) 

天目山の戦いは、1582年(天正10)3月11日に、武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍に追い詰められ、甲斐国の天目山で自害するに至った合戦である。武田勝頼は、家臣の相次ぐ裏切りの中、わずかな家臣と共に天目山を目指し、その地で最後を迎えた。

1582年、織田信長と徳川家康は、武田勝頼の領国である甲斐国(現在の山梨県)を攻め、滅ぼすことを目指して甲州征伐を開始する。織田軍に追い詰められた武田勝頼は新府城(韮崎市)を捨て、郡内の岩殿城を目指したが、その途中で家臣の小山田信茂に裏切られる。
勝頼は自決を決意し、向かった先は天目山。天目山は勝頼の祖先である武田信満が戦死した場所でもあり、自らの最期の地としてここを選んだと思われる。

天目山に到着した武田勝頼の一行は、滝川一益率いる織田軍に最後まで抵抗したが、数の不利は如何ともしがたく、最後は武田勝頼自身が自害し、ここに武田氏は滅亡したのである。

信玄の「跡継ぎ」武田勝頼の複雑な事情

武田勝頼は1546年(天文15年)に信玄と側室である諏訪氏の娘・諏訪御料人との間に生まれた。信玄にとっては4男にあたる。

勝頼は当初、武田氏ではなく諏訪氏の跡継ぎとして位置づけられていたため、元服後、武田氏が代々名に用いる「信」の字を継がず、諏訪氏が使う「頼」の字を使って「諏訪四郎勝頼」と名乗り、諏訪氏を継いで信濃国高遠城(長野県伊那市)に入った。

このまま何もなければ諏訪氏のトップとして生涯を終えたと思われるが、信玄の嫡男・武田義信はじめ他の兄弟が相次いで夭折あるいは出家。勝頼は信玄の後継者と定められたが、武田氏に敗れた諏訪氏は武田氏の家臣にすぎず、勝頼が跡取りになることについて、武田家臣団には快く思わない者もいた。

このため信玄は勝頼と正室の龍勝院(織田信長の養女)との間に生まれた武田信勝を正式な跡継ぎとし、勝頼を信勝の後見人として一時的に当主とするという中途半端な裁定をしたが、これが武田家臣間の不和を生み、後の武田氏の凋落へと繋がっていくことになる。

信玄の死後

跡継ぎを定めた武田信玄は元亀3年(1572)9月、西上作戦を開始して徳川領に攻め込んだ。

武田軍は同年12月の「三方ヶ原の戦い」で家康を破り、東三河に侵攻するがその途中、信玄の病状が悪化。このため武田軍は甲斐国(山梨県)に引き上げるも元亀4年(天正元年=1573)4月、その途上で信玄は51歳で病死した。

信玄が決めた通り、勝頼は後見人として武田氏の当主となった。とはいえ勝頼はあくまでも中継ぎ的存在。予想通り家臣団の反発もあって、勝頼の苦労は始まった。勝頼は信玄の「自分の死は3年隠せ」という遺言に従い、周囲には「信玄は隠居し、自分が家督を相続した」と発表するが隣国の家康は信玄の死を疑い、長篠城(愛知県新城市)を攻めて勝頼を挑発した。

一方、勝頼は信長が治める美濃国(岐阜県)に攻め込み、わずか1ヶ月で20近い数の城を落とした後、信玄が手に入れられなかった堅城・高天神城(静岡県掛川市)をも攻め落とし、意外にも勝頼の時代で武田氏は最大の領土拡大に成功している。

長篠の戦いで敗北、弱体化

こうして領土を拡大していた武田勝頼だが、天正3年(1575)5月、武田氏を裏切って家康についた裏切り者の奥平貞義・信昌を攻めた「長篠の戦い」で、武田軍は織田・徳川連合軍に大敗してしまう。わずか500人が立てこもる長篠城を1万5000の武田軍が攻めた戦いは、当初は武田軍が優勢。しかし長篠城が必死に抵抗しているうちに3万8000の織田・徳川連合軍が到着して形成が逆転する。

信玄の時代から仕える重臣たちは勝頼に撤退を提案したが、勝頼は戦いを強行。結果、「武田四天王」と呼ばれる山県昌景、馬場信春、内藤昌秀に加え、土屋昌続、真田信綱・昌輝親子など、主だった武将達が命を落とし、さらに1万人以上の兵をこの戦いで失って、武田氏は致命的とも言える打撃を受けた。

勝頼の足掻きと威信失墜

その後、織田信長はそのすきを逃さず勝頼が落とした城を次々と奪還。それでも勝頼はなんとか武田氏を立て直そうと足掻く。勝頼は北条氏政の妹を後室に迎えることで北条氏との同盟を強化し、共に信長に対抗しようとしたが、天正6年(1578年)3月に上杉謙信が死んで起こった跡継ぎ争いに下手に介入したことで北条氏との関係が悪化し、同盟は破たん。北条氏は織田・徳川方についてしまった。代わりに勝頼が上杉の後継争いで上杉景勝を支援したことで、武田・上杉は同盟関係となる。

そして天正9年(1581年)には徳川軍が陸海の交通拠点として重要な高天神城を奪還。高天神城は武田氏にとって重要な拠点だったため、勝頼は自らの領国各地から兵士を集め、武田家臣団の関係者が兵士として詰めていた。ところがその高天神城に対して勝頼は援軍を出さなかったため勝頼の威信は地に落ち、これまで忠誠を誓っていた家臣たちは次々と武田氏を見限ることになっていく。

信長はいよいよ武田氏との決戦へと向かう

武田勝頼は織田信長との和睦を模索するも黙殺される。信長としては、宿敵武田氏を潰す大きなチャンス。朝廷に働きかけ、正親町天皇に武田勝頼を「朝敵」として認めさせるなど、勝頼を討つ準備を進めた。

そんな状況下で、勝頼の妹の夫である木曾義昌が信長に寝返った。信長は義昌の寝返りを機に本格的に武田氏を叩くことを決意。勝頼が寝返った木曽一族を討ったことを知ると、甲州征伐を宣言した。

こうして天正10年(1582年)2月、甲州征伐が開始。武田氏滅亡へのカウントダウンが始まったのである。

甲州征伐の総大将は信長の後継者・織田信忠。森長可や河尻秀隆、勝頼を裏切った木曽義昌も参加。その後ろを信長と明智光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政などが率いる兵が続き、その数は総勢3万とも5万とも言われている。一方の武田方は勝頼・信勝を中心とした約3000程度の兵だった。

甲州征伐開始、高遠城落城

織田軍は2月3日に森長可ら先発隊が岐阜城を出発し、2月6日には木曽口と伊那街道から信濃国入りした。一方、織田信忠が率いる本隊は2月12日に岐阜城を出発。14日には岩村城に進軍したところで、浅間山が噴火した。

浅間山の噴火は甲斐・信濃国にとって凶兆であり、武田氏には大きな動揺が走ったことだろう。

両軍がぶつかったのは2月16日、武田軍は鳥居峠で木曾義昌に敗退した。その後甲州征伐の序盤は武田方の投降・寝返りが続き、織田方はほぼ戦をせずに南信濃を制圧していく。

そして3月1日、織田軍は高遠城(長野県伊那市)を包囲した。高遠城を守るのは勝頼の異母兄にあたる仁科盛信。盛信は、他の家臣たちが武田を見限るなか唯一まともに織田連合軍に対峙した。3月2日から両軍の戦いが始まったが、織田軍3万による総攻撃に対し、盛信は3000人で対抗。信長の従兄弟・織田信家を討ちとったが、結局数には勝てず城は落城。盛信も戦死した。

諏訪から1000弱の兵と共に新府城に移動していた勝頼は、高遠城の落城を知ると3月3日、新府城に火を放って700人程度の残りの兵と共に逃亡を開始した。

勝頼の四面楚歌

勝頼は嫡男の信勝とともに岩殿城を目指して移動していた。

鶴瀬(甲州市大和町)で、一足先に出発していた信茂の迎えを待ったが、結局彼が現れることはなかった。信茂は織田方への寝返りを決めていたのだ。

『甲陽軍鑑』によれば3月9日、信茂は勝頼に対し、岩殿城までの道を封鎖し鉄砲を放って拒絶したという。長篠の戦いで武田家臣団の真髄をほぼ失ったあと、中枢部にいた武将たちが次々に勝頼を裏切っていくことは、いかに自業自得の面があったとはいえ、勝頼にはあまりに残酷なことだった。

勝頼は同盟関係にあった上杉氏に援軍を要請したが、こちらも身内の反乱に悩まされていた上杉景勝は十分な兵を割くことができず、というか援軍を出したのはポーズだったとも言われている。

天目山の戦いで勝頼自刃

小山田信茂に見放された勝頼に、後方から織田軍の追手が迫ってきた。

勝頼を守る戦力は移動中に脱走する兵が続出して40人程度となっていた。

もはやここまでと悟った勝頼が向かった先は天目山。冒頭でも触れたが、天目山はかつて武田氏13代当主の武田信満が戦に敗れて自害した場所で、天目山栖雲寺には武田氏の祖先の墓がある。

天目山の山麓にはいった3月11日、勝頼一行はついに織田軍に追いつかれてしまう。ここで勝頼たちが選んだのは降伏ではなく徹底抗戦。勝頼は天目山での自害を覚悟しており、祖先の墓が待つ栖雲寺になんとか辿り着きたかった。
ここで、最後まで勝頼に付き従っていた「片手千人斬り」土屋昌恒は主君を守って大奮闘。狭い崖道で織田軍を迎え撃ち、片手で藤のつるを掴んで転落を防ぎながら、片手で敵を倒し、そして壮絶な討ち死を遂げたと伝えられる。

最後の家臣たちの奮闘で時間を稼いだ勝頼は、3月11日午前11時ごろ、嫡男の信勝、正室の北条夫人とともに自害した。享年37歳。この際信勝は成人していなかったため元服式を行い、勝頼から家督を相続した後に自害した、というあまりに悲しい話が残っている。

3月7日には織田信忠が甲府で勝頼の関係者や重臣などをすべて処刑。武田信豊は生母と共に自害し、信玄の次男で僧籍にあった海野信親は息子を逃したあとに自刃。武田氏は滅んだ。

天目山の戦いがあった場所にある道の駅

天目山(てんもくざん)とは、山ではなく、寺の屋号。場所は山梨県甲州市大和町木賊野山の峠である。この地に、道の駅「甲斐大和」がある。

東京と長野県塩尻市を結ぶ国道20号線沿いには幾つかの道の駅が存在するが、 その中で最も東京寄りにある道の駅だ。 ここより東側はコンビニはあるものの無料の休憩所は無いため、 下道を使って東京方面に向かうドライバーのトイレ休憩にとてもありがたい道の駅である。

そういう立地だけに、駐車場の利用状況は良好のようだ。つまり、いつもそこそこ車は止まっている。
仮眠している人もそこそこいそうだ。

トイレもそこそこの規模で、トイレ休憩の需要が高いことがわかる。

休憩場所は、屋内外ともに十分なスペースが確保されている。

ワインなど甲州名物が充実

物産館では、山梨県の代表的な特産品であるワインが人気。 ウイスキーなど、酒類のラインアップがやけに充実している。

「信玄焼」など、武田氏ゆかりのお土産も充実している。

小さいが農産物直売所もある。

手打ちのそば処があるが、今日は休み?

レストランでは、かつ丼、もつ煮定食、ラーメン等が人気のようだ。