
リクルート創業者、すべての元リクにとって恩人である江副さんの命日である今日は、衆議院選挙の投票日だった。

37年ほど前にはリクルートが当時の内閣を吹っ飛ばした、そのことを思い出しつつ午前中に投票を済ませてきて、今から、「かもめのDNA」第2話を投稿するところだ。
今回の衆院選、大阪ではしつこく都構想の是非を問う知事選、市長選もくっついて、私の選挙区では政治と金の問題の渦中の西村バッシングと西村支持との戦いも含めて、まあこの短期間に各党の公約や主張などの「情報」が、溢れかえった。
必要以上にうるさかった2週間だったが、それで、人間は熱くなったのか。
熱くなったのは必死で当選したい立候補者や党首など、情報を発信する側ばかりだったのが実感。
私の感想、つまり情報の受け手は決して熱くならなかったことは、いつもながらの投票率、それだけでも十分すぎるぐらいにわかるだろう。
“戦争が人間を熱くする”
この国の、未来を決めていくことに国民が参加できる「衆議院議員選挙」にすら、たかだか半分程度の有権者しか参加しない。
この国は、もはやそんな国なのだ。
街頭インタビューで「史上最短の選挙戦ですか?もう少し時間がないと判断できませんね」なんて口をそろえるアホな市民が多すぎるが、今回の選挙で垂れ流された情報の中身なんて、党首討論一回見たらすべてわかるのに。
そして、もっと知る気になればいくらでも手段はあっても「選挙期間が短いからわからない」なんていうのは、てめえの民度が低いだけだろう。
つまり聞こうとしない、聞いてもわからないから頭に入らないだけで、まさに養老孟司の「バカの壁」なのだ。
バカに大量の情報を与えたところで、聞く側の本気と能力がゼロなら、一次方程式「y=ax」。
係数aがゼロなので、情報量xがいくら膨大でも、受け手の耳に頭に入る情報はゼロなのである。
ところが選挙に行かない金の亡者の投資家に「あなたの持っている株が突然軒並み大暴落していますよ」と伝えたら、そいつは途端に血相変えて熱くなって取り乱し、滑稽なぐらいの大慌て。腹を抱えて笑えるほどの醜態を見せてくれるだろう。
所詮、人が必要とする情報なんて、自分の利益に関係することだけなのだ。だからR82の同期、大野誠一が今回やたら選挙に関する投稿を繰り返していたが、「半数が選挙にすら参加しないこの日本は、選挙などでは変わらないよ。外圧で生存が脅かされた明治維新から77年後に、やはり生存が脅かされて第二次世界大戦に。敗戦後またそれ以上の歳月が経って、平和ボケした日本以外の世界各所で閉塞感を戦争でぶっ壊す動きがあって。歴史に学ぶならば、究極の外圧である戦争危機でしか、この国は変われないのだ」と。
自分の命が脅かされる「生存危機、はっきり言い換えてしまえば「戦争」、悲しいけれどそれしか人間を熱くすることはないのだ。歴史に学べばね。と、同期で懐の広い大野誠一には、甘えて本音をそうメッセージしてしまった次第である。
“情報が人間を熱くする”
38年前。日本はバブル経済のピークへの入り口にあって、平和ボケの真っ只中だった。
「山田さん。甲南大でアメフトやりまくってたやつで、めっちゃ花のある男です。夕方神戸支社に来ますので、今晩は、ぜひよろしくお願いします!
こう言って、当時神戸エリアの採用担当だった樫野孝人は金鋭に関する情報を、採用するかどうかの最終ジャッジを行う役割の山田滋に熱っぽく伝えた。
「なんか、おもろそうな甲南ボーイやな」
山田滋は、金鋭の「情報」によって、すっかり熱い気持ちになっていた。
「情報が人間を熱くする」。
これは、第一話でこの物語の端緒となった金鋭を採用したR72の山田滋が、神戸支社長として金鋭を採用した数ヶ月前、本社宣伝部にて最後に残した仕事、アラ還以上の元リクはご存じリクルート初の企業CMの、キャッチフレーズである。
第二話は、第一話の主人公・金鋭を採用した人物でもあり、このCMに宣伝部長としての最後の仕事として関わった山田滋を中心に、江副きも入りのクリエイター馬場マコト、世界的デザイナー亀倉雄策の手になる「情報は人間を熱くする」キャンペーンをめぐる物語である。
「自社媒体内以外は用なし」というレッテルを貼られたクリエイター
R82の私が入社して3年ほど経つと、リクルートの市販媒体のテレビCMの露出が急に増えた。
そして、その露出量は、毎月毎月、加速度的に増えていった。
B-ing、とらばーゆ、住宅情報、エイビーロード、さらにはじゃらん、ゼクシィ、カーセンサーetc .
おそらく電通、博報堂をはじめとする広告代理店によるコンペが行われ、「これいいね!」となったものが、テレビで垂れ流されていたのだ。
当時、リクルートは住宅情報、就職情報(B-ing)をはじめ、市販誌の広告をすべて電通・博報堂などに委ねており、社内でクリエイターとして飯を食っている私たちになんらの企画制作のチャンスがなかったことが、私のプライドを大いに傷つけていた。
リクルートのクリエイターとして、奴らにも絶対負けない自信があった私は、とても悔しい思いをしていた。
私の出身大学である京都市立芸術大学デザイン科の2年後輩の辻中達也は、電通に就職。
フジ系列の関西キー局「カンテレ」の「ハチエモン」のキャラを開発し、いきなり頭角を表していた。
野球部1年先輩で可愛がってくれた綿谷先輩は読売テレビの看板番組となった鳥人間コンテストを企画し、責任者となって一世を風靡しはじめていた。
「しまった!就職先を間違えた!」
「これだけ頑張っていて実績も出しているのに、江副さんは俺を1ミリも認めていない!」
「リクルートのクリエイターにはなぜ自社CMの企画コンペに参加するチャンスが与えられないのか!」
私は、その時はじめて「自社媒体のみの制作」に限定される、カゴの鳥のようなリクルートのクリエイティブの狭い世界に気づき、それに気が付かなかった自分の愚かさを恨んだのだった。
そして、憤った。
この「情報は人間を熱くする」というリクルート初の企業CMだけは「たしか社内コンペがあったはず」だとおっしゃる人がいる。
しかし、私には全く記憶がない。
もしあったなら、絶対食いついていたはずなのだ。
本当にあったのなら、その機会に気づかなかったほど殺人的な仕事量に忙殺されていた自分が、馬鹿なのである。今でも悔しくて仕方がない。
そのチャンスを本当に見逃していたのなら、なんてバカだったのかと悔やむが、でも私は、本当にその公募のチャンスを知らなかったのだ。
私は怒りに近いその感情を、リクルートブック関西版のリニューアルにぶつけた。
「会社軸オンリーの情報を、仕事軸に変える!」と宣言し、学生が入社後携わる仕事の中身を詳しく知ってもらえる「仕事カタログ」という情報誌にした。
「活字が読まれないなら、漫画で読ませろ!」と制作メンバーを鼓舞して「漫画会社研究」をつくった。ブレーンさんに、「漫画」の制作を強要した。
「当社、同社という一人称と三人称とが混在した、読む方からするとまるで意味不明な編集」を、「当社は…の一人称で構わない。ただ、言いたいことが比較検討できるように整理だけはさせていただく」と言い張って、フォーマット化で論点を縛った。
たった1年の間に、関西版だからできたことではあっても、後にも先にもこれほど革命的な媒体リニューアルはなかったと自負している。変化を好まない抵抗勢力を蹴散らし、編集長として全ての原稿に目を通して、意図を踏まえていない中途半端な原稿にはすべてダメ出しをした。
自社媒体の中でしかクリエイティブが発揮できないなら、媒体そのものをクリエイティブにしてやる、そんな執念が入社5年目の私を突き動かした。
それでも、マンションに帰ってテレビをつけるとB-ingのCMではサザンオールスターズの音楽が採用されて流されていたり、東京に行くと、フロムエーが街全体をジャックするような大々的なティーザー広告などが展開されていて、その様子を見ると、涙が出るほど悔しくて。
いや、私は、本当に泣いていた。
リクルートのコピーライターOB、馬場マコト
話をリクルート初の企業CMに戻そう。
結局、社内公募があったにせよなかったにせよ。
あったと言う人によれば、江副社長以下ジャッジボードを納得させるほどの「いいもの」が出なかったそうだ。
そして結局、江副さん肝入りの馬場マコトが絞り出したこのフレーズ「情報は人間を熱くする」に決定したのだ。
馬場マコトは、在籍期間は短かったとはいえ、リクルートOB、R70の大先輩である。
1947年石川県金沢市に生まれ、早稲田大学卒業後に、日本リクルートセンターに入社した。
宣伝部長として一緒に仕事に関わった山田滋より2年入社が早く、山田の日本リクルートセンター入社と入れ替わるように、馬場マコトは会社を辞めた。
「大学卒業後はマスメディアに行きたかったんです。だけど思うところには受からなく、受かった企業の中でメディアに近いところということで落とし前をつけ、リクルートに入りました。社長は江副浩正氏でした。営業部配属と聞かされていた僕に、『君はコピーを書け』と広告クリエイティブの道を作ってくれたのは彼です。
馬場マコトはこう振り返る。
「岳文会というサークルで、文学委員長を務めていました。『山』と『文学』では、前者の活動に大きく傾倒していましたが、それでも文集を年1回発行し、卒業前には1冊の本として編纂。内定先のリクルートを含む、お世話になった方々に感謝を込めてお配りしました。それが図らずも当時のリクルート社長、江副浩正氏の目にとまり、営業職採用から一転、『コピーライターになりなさい』と言われたんです(笑)。そこから僕の仕事人生は始まりました。自分の信念を貫いて学生生活を送っていれば、きちんと見てくれる人がいる。そう確信した一瞬です。」
「僕は、コピーといえば複写のことだと思っていたくらい基礎知識もモチベーションもなかった(笑)。彼のすごいところはそれぞれの役割をつかむのがうまいということでしょう。人事がうまかったのも、リクルートを大きくできた一因だと思います。僕のどこを見てコピーライターにと思ったのかわからないけれど、あの人が配属し、僕のコピーライターの生活が始まったんです。」
しかし、馬場マコトはわずか二年勤めて会社を辞める。そして、そのときに馬場マコトと交わした約束を江副は守った。
「江副さんは『これで君が実力をつけて、リクルートが企業広告を作るときに、君に頼めたら』と、五十万円の退職金とモンブランの万年筆をくれました。江副さんは,気持ちをお金でしか換算できない人なんだと思います。リクルート事件の本質はそこにあるんじゃないですか。こんなに大きな会社になっちゃって、それが嬉しくて、お礼の気持ちで配っちゃう。そんな表現しか出来なかったんじゃないかと思うのです。
その無自覚さが、経済人として、社会的に大きくなった会社の経営者として、ふさわしくなかった。
でも,今でも,あの人には感謝しています。」
馬場マコトは、後年、恩人である江副との思い出をこんなふうに語っている。
広告業界の超新星として活躍
リクルートを去った馬場マコトは、マッキャンエリクソン博報堂、東急エージェンシー制作局長を経て、1999年より広告企画会社を主宰。
江副から直指名を受けた時は、東急エージェンシーの制作局にいたはずだ。
1980年代に彼の名を一躍有名にしたのは、NECの「C&Cキャンペーン」だろう。
「個人的に思い入れが大きいのはNECの「C&C」というキャンペーンですね。イービジネスやイーコマースだけではなく,コンピュータ&コミュニケーションで何ができるのか,コンピュータとコミュニケーションは社会になにをもたらしてくれるのかを考えるのは,NECの勢いのいいときでもあり,わくわくする仕事でした。」
「東京都ストップエイズキャンペーン」「フジフィルム,ケネディとクリントンとの握手」などの広告で、JAAA第四回クリエイター・オブ・ザ・イヤー特別賞受賞。その他に日本新聞協会賞、ACC話題賞、ロンドン国際広告賞他、国内外広告賞などを多数受賞し、知る人ぞ知る広告界の超新星となった。
作家でもある彼は、『ビッグ・アップル・ラン』で第6回潮ノンフィクション賞優秀作を。第50回小説現代新人賞も受賞している。
その他の著書に『花森安治の青春』『戦争と広告』『朱の記憶 亀倉雄策伝』などがあるが、彼ほどの男がリクルート同期入社土屋洋が本を出したいがためにそそのかされて『江副浩正伝』の共著者に仕向けられたが(笑)、リクルートOBOGを集めまくって出版パーティではしゃぎまくる土屋と、苦虫を噛み潰したような顔でその場をすぐに立ち去った馬場マコトのあまりに対照的なその姿を記憶しておられる方も多いだろう。
山田滋の人生を語る時、馬場マコトとともに2年先にリクルートに入社していた土屋洋との関係を語らないのは片手落ちというものである(笑)
山田は、生涯を通じて最も許せない男がいて、それが土屋洋であると常々私に語っていた。神戸支社長として赴任した1988年、当時神戸支社のHR部門は、支社長が課長兼務でマネジメントにあたっていた。HR部門の当時の部長、つまり神戸の課長を差配する立場に、土屋洋がいた。
この関係を、人生で最も嫌いな男の部下となることを、山田は到底容認できなかった。
大人気ないと人は言う。しかし、本当に、山田は大阪で開かれるHRのマネジャー会議を、神戸の課長にR81の浅田を迎えるまでの1年間、一度も出席することはなかった。
「あいつ(土屋)の顔を見ただけで、もう俺は立ってはおれなくなるんだ。吐き気がして、トイレ直行だよ。だから、俺はHRのマネ会には絶対行かない!というか、行けないんだ。やつと会わされるなら死んだ方がマシだ!」
二人に何があったか、私は山田の心情を察して、敢えて掘り下げなかったが、まあ、人をそれほどまでに嫌いになるって、それはそれですごいことだと思う(笑)。私も3年弱ほど土屋洋の部下の立場で働いたが、山田がそこまで嫌うだけの人物ではあった(笑)。
私は1988年から1年間、制作課長として、そして山田滋の代理として、マネジャー会議の内容を伝えるために、月に一度神戸に通い、その用事が済んだ後は必ず神戸の夜に山田と繰り出して、土屋洋の悪口を聞き続けたのであった(笑)
クソ忙しい中、月に1度の神戸出張は負担になる時もあったが、大好きな山田滋との定期的な酒宴は、今となってはいい思い出である。
ハムスター山ちゃんのストレス
このように、普段からボヤキ節の山田滋は、1987年のある日、G8本社の、宣伝部の小さなスペースを、カゴの中のハムスターのようにぐるぐる回りながらぼやいていた。
「なんだよ、馬場マコト、どこで何しとんじゃい、全然連絡取れないじゃないか!」
関西出身だが早稲田に進んで以降は、リクルートでも東京に暮らしていた山田は、もう関西弁と東京弁?標準語?がごちゃ混ぜになっていたが、宣伝部長として、馬場マコトとはなかなか思うように連絡がとれない、その度に、焦っていた。
馬場マコトとなかなか連絡が取れなかったのは、彼が机にへばりついて仕事をするタイプの人間ではなかったことによるものであり、決して居留守を使ったりするようなことではなかったはずだ。
「アイディアは、走りながら考えます。今だと家から職場まで少し遠回りをしながら一時間半。走りながら考えると活性化されるのか、企画がポジティブでアグレッシブになるんです。」
外に出て、走りながら考えるコンセプトワークのスタイルについて、馬場マコトはこう語っている。
「また、人間は容姿も資産も才能も不公平に生まれるけれど,時間だけが平等に二十四時間ですよね。健康維持と仕事がいっぺんにできて,それは時間が二十五時間半あるようなものじゃないですか。」
山田は、馬場マコトのそうした「スタイル」などは知らなかっただろうし、当時まだケータイなどを持たない者同士の連絡である。
山田は、江副さん肝入りの指名を受けた馬場マコトと、押し寄せる広告代理店の大攻勢との板挟みになっていた。
山田の苦労、ストレスは他にもあった。
当時のリクルートのCM出稿量は半端ではなかった。
宣伝部長ともなると、毎夜毎夜の接待攻勢、お中元、お歳暮のみならず贈り物の嵐。前任の宣伝部長はその立場に溺れたが、ケジメをつけての立ち回りができる山田滋に2年間任期の宣伝部長が託されていた。
山田の奥様の証言を聞いたことがある。
「私は神戸にいて、当時彼は単身で東京でした。接待、贈り物は本当に凄かった。彼の単身赴任マンションには置くところがなくなるほど溢れかえり、『整理、処分しに来てくれ〜』とSOSがたびたび入りました。行って見ると、デパートのようでした。足の踏み場もないような床に、高級なものがなんでも転がっていましたから。それはもう凄かったですよ(笑)」
余談かもしれないが、広告代理店やテレビ局の宣伝担当者や出稿会社の社長への「賄賂まがい」の行為は、バブルが進むにつれてエスカレートする一方だった。
この頃、リクルートコスモスの未公開株をばら撒いていた江副の感覚も、教科書販売会社の「賄賂体質」「賄賂まがい商法」をリクルートに持ち込んだ間宮舜二郎の小さな親切大きなお世話的指南もあって、もうすっかり麻痺していたのだと思う。
話を戻そう。
さて、そんな中。
1987 年末にリクルートの企業広告を貫く統一フレーズが「情報が人間を熱くする」にようやく決定し、まず、ポスターの掲出が始まった。
ポスターには、写真展の応募作品などの膨大な作品の中から選ばれた、一般人の写真が使用された。月に一度、このキャッチコピーとともに、四季折々市井の人々が登場する。

このアートディレクションを手がけたのは、世界的なグラフィックデザイナーでありリクルートの取締役も務めた、亀倉雄策である。
ご存じだろうが、彼はリクルートのカモメマークの旧ロゴや旧社章、関係者がG8と呼ぶ登記上の本社である銀座8丁目のビルなどのデザインも手がけたが、世界的なグラフィックデザイナーである。
ただ、ポスターはお手のものの亀倉だが、この企業広告キャンペーンの本丸は、1年間にわたって大々的に露出する予定で製作されたCMにあった。
1年間にわたって膨大な予算がついたCMに、電通をはじめとする広告代理店各社がハイエナのように群がり山田滋をあの手この手でプッシュする。
だからこそ、江副肝入りでおそらくCMのアートディレクションにおいても無視できない立場にいて、今のように携帯電話を持たない馬場マコトと連絡が取れないと、山田はその度にハムスターのように机の周りをぐるぐる回るようになったのだった。
山田滋が必ずしも納得しなかった、その理由とは?
私は、このキャンペーンの核となるCMが、市井の人々にスポットを当てた亀倉コンセプトのポスターとは真逆の、あまりにそれとは不釣り合いの、アメリカンテイストに仕上がったことに驚いたし、山田滋がこの仕事について多くを語らなかったのは、キャンペーンを貫くアートディレクションが、二手というか、真っ二つに分かれててしまったことへの不満足、後悔であったのではないかと思っている。
CMの制作と露出計画は、電通だったか博報堂だったか、あるいはその頃馬場マコトが所属していた東急エージェンシーがどれほど食い込んだのか、いずれにしても「広告代理店」に預けられたのだろうと。
彼らは、「カネ」にならない写真による亀倉ディレクションとの連動などは無視して、「カネ」になりやすいアメリカ政治、アポロ計画、そして、世界的ロックバンド「イーグルス」という金食いバブル路線を提案したのであろうと。
ポスターによるキャンペーンを引き継いで88 年から放映したテレビCMは、ジョン・F・ケネディによる演説、ロケットの打ち上げ、宇宙飛行士の月面歩行といった、日本とは別の国、アメリカのニュース映像を使ったものとなった。
【ケネディ編】
その人には磁力があるのかもしれない
そこに存在するだけで人々は惹かれ 酔う
その人はやわらかい磁石なんだ
ひきつける力 切り開くエネルギー
いつの時代も情報が人間を熱くしてきたと思う
【アポロ計画編】
いつも人々はテクノロジーという武器と
想像力という勇気で出発していく。
見えない部分を見たい 聞こえないものを聞きたい
思い果てしなく
いつの時代も情報が人間を熱くしてきたと思う
それぞれのナレーションの最後に一言、「人と人との間にネットワーキング。リクルート」で締めくくられるCMだった。
「欧米か!」
まだ、タカアンドトシはこの世に出ていなかったが、要するに私はこのアメリカ頼みのアートディレクションに大いに不満だった。
なんで、ケネディなのか。
田中角栄でいいではないか。
なんで、アポロ計画なのか。日本が世界に誇る超特急・新幹線でなぜダメなのか。
というか、市井の人たち、日本の美しさから「情報は人間を熱くする」にアプローチしようとした亀倉ディレクションとは、かけ離れたハンバーガーデブのアメリカの脂臭さとのギャップが酷過ぎた。
馬場マコトが、キャッチコピーをつくったかも知れないが、このポスター側のアートディレクションと、CM側のアートディレクションは、全く別物であり、トータルディレクションというものが不在なのではないか?
それが、私の、率直な感想だった。
BGM「ならず者」。リクルートは社会のならず者であることを自ら認めていたのか?
CMのBGMは、Eagles の Desperado だった。
Desperado(邦題:ならず者)は、名曲を5つあげよと言われれば、ジョンレノンのイマジン、ポールマッカートニーのレットイットビー、日本の「上をむいて歩こう」「舟唄」と並んで迷わずあげるだろう名曲中の名曲だ。
しかし邦題の「ならず者」は、まるでリクルート事件を予告するかのようで、実際、事件によってこのCMはたった3日間で打ち切られてしまう。
この選曲も、歌詞の内容や邦題が「ならずもの」であることに流石にバカがなんの考えもなく採用したものではなかったろう。少なからず、ならず者のアウトロー的カッコ良さをリクルートは自覚していたのだと思う。
「デスペラード」は、リクルートがCMにこの曲を採用した1988年からちょうど100年前のアメリカの西部開拓時代、カウ・ボーイの時代がテーマの曲である。
A面の中盤にこの曲と、アルバム最後に後日談が描かれます。
Desperado, why don’t you come to your senses?
You’ve been out ridin’ fences for so long now
Oh you’re a hard one, but I know that you got your reasons
These things that are pleasin’ you can hurt you somehow
「おい、デスペラード(ならず者)よ、そろそろ自分の感覚に正直に戻ったらどうだ?キミは『見回りに出たきり』じゃないか、長いこと。あ、そうか、キミはこんな説教臭い俺の話を簡単に聞く輩じゃない、手強い奴だったな。でも俺にはキミにはキミのこうなっちゃった言い分があるってのもわかってるさ。酒とか賭博とか女とか、あおの手のお愉しみなどは、結局なんかしらキミをキズつけてるんだからね・・・」
Don’t you draw the queen of diamonds, boy
She’ll beat you if she’s able
You know the queen of hearts is always your best bet
Now it seems to me some fine things
Have been laid upon your table
But you only want the ones that you can’t get
「(酒場のポーカーで)「ダイヤのクイーンを引くなよ、若造、要するにマリリンみたいな美女ばかりを引こうとするなよな。不意を突いて、彼女はキミをノックアウトするぜ。『ハートの女王』がキミのお決まりのベスト・ベット(最高の賭け手)だったろ?(ポーカーではダイヤよりハートが強い)。見た目でなく、ハートのあふれる女性、一獲千金でなく、心の通った人間関係に賭けることだ。今、オレには、キミのテーブルに何枚か良い手札があるように見えるが、でもキミは、キミじゃぁ手に入れられない高嶺の花ばかり欲しがっている・・・」
Desperado oh you ain’t gettin’ no younger
Your pain and your hunger, they’re drivin’ you home
And freedom, oh, freedom, well, that’s just some people talkin’
Your prison is walkin’ through this world all alone
「デスペラードよ、もう若くはないだろう。キミの「痛み」と「空腹(さびしさ)」が、お前を「家home」へと向かわせる。自由、ああ、自由ってか、それは一部の奴らが口にしてるだけだぜ。キミはしがらみ、世間という檻から逃れているつもりでも、実は自分の檻を連れてこの世界をさまよってるだけのことさ、一人孤独にな。」
Don’t your feet get cold in the wintertime?
The sky won’t snow and the sun won’t shine
It’s hard to tell the nighttime from the day
You’re losin’ all your highs and lows
Ain’t it funny how the feelin’ goes away?
「不遇の時代、冬がやってきて、足もとが寒く感じるだろう?上を見あげりゃ、空は灰色で、今が昼なんだか夜なんだかわかりゃしない。キミはもはや、このところハイな喜びも落ち込みさえも全部なくしかけてる。感情そのものがどっかへ消えてしまったら、「笑え」ないだろ?」
Desperado, why don’t you come to your senses?
Come down from your fences, open the gate
It may be rainin’, but there’s a rainbow above you
You better let somebody love you (Let somebody love you)
You better let somebody love you before it’s too late
「絶望してるデスペラードよ、自分の感覚に正直に戻れよ。登った「柵」から降りてきて、心の門を開いて受け容れるんだ。今は雨が降っているかもしれない、でも雨空には「虹」がかかってる。そろそろ、誰かあなたを愛してる人にゆだね、身近にいる人の愛を受け入れたらどうだ?手遅れになる前に・・・」
かつてこれほど皮肉で滑稽なドラマの結末があったろうか
詩を要約するとこうだ。
最初は、ポーカーや女、アウトローな暮らし方などを面白おかしく楽しんでいるならず者(リクルート)。ダイアモンド♦ではなく、「ハート♡(こころ)」、つまり温かい、血の通った方をとれと諭す。
それからやってぉた、「痛み」や「空腹(さびしさ)」。隠していても、感じているこれらに気づけと。
やがて「若さ」も失われていく。
あたたかな「家home」をそろそろ意識しろと。
「自由」と名のもとに一獲千金を夢見て気ままにふるまう行為は、それをまだ追い求めることは、かえって自分をオリに閉じ込めると。
そして、いつのまにか「孤独」に。逮捕され、拘置所の中は寒い。連日連夜の取り調べ。太陽の温かみも、目を楽しませる雪もない。昼も夜も分からず、いろんな意味で負けが続いて感情の起伏もなくしてしまいかけてる。
そして最後。もう「柵」から降りろと。心のゲートを開けろよ、江副リクルート。チヤホヤされてるのは今だけで、「手遅れ」になる前に、みんなに愛してもらえと。
創業から四半世紀、まだ調子に乗って荒ぶっている頑なな「ならず者」の若者=江副リクルートに対し、まさに本当の人生に気づけと諭すかのような歌なのだ。
当時のリクルートに対して世間が抱いていたであろう感情がそのまま歌われたような歌詞を自らわざわざ採用するなんて、あまりにも皮肉ではないか。
私には、馬場マコトともあろう人が、安易なコンセプトワークをするとはどうしても思えなかったから、もし馬場マコトがこの曲の採用にまで関与しているとすれば、ひょっとすると江副リクルートに対する最後っ屁、もうやめろとばかりの愛あるカウンターメッセージをかましたのかもれないと思った次第だ。あり得ないだろうが。
このCMにしたって、リクルート関係者中でも、当時リアルタイムで見たのは現在アラ古希以上せいぜいアラ還が、目頭を熱くして語ったり熱い思いを抱いているだけで、「情報が人間を熱くする。」という企業広告キャンペーンを観る側から「感動した」「熱くなった」という一般市民の話を私は聞いたことはない。
アートディレクター不在とも言えるこの広告キャンペーンは、同じ馬場マコトが同時代に手がけたNECの「C&Cキャンペーン」にははるかに及ばない完成度の低いものとなった、はっきりとそうは思う。
しかし、ポスター、CM映像の完成度は、そのバラバラ感に違和感を持ったのは私ぐらいだったのだろうか、主に元リクの間で「大傑作」として評価されてきた。いまだにベテラン社員、OB・OGの間では酒の席で涙ぐみながらの語り草、酒の肴として役立っているようだ。
内輪受けの、完全なるマスターベーション。
でも、そこに、世間の空気に鈍感なリクルートの感性があるのかもしれない。
ちなみに、これを機に、私は自慰的CMのことを「マス広告」と呼ぶようになった。
実は、皮肉なことはもう一つある。
CMは打ち切られたが、その後3年間、リクルートの事業バブルは、リクルート事件ごときでは全く弾けなかった。
これも、逆な意味で?なんと皮肉なことであったろうか。
私は、「情報は人間を熱くする」は、江副浩正の「遺言」だと、捉えている。
自分の時代が終わることを本人がどれだけ自覚しておられたかどうかは別にして、この遺言は、まだ情報が人間を熱くする余地があったバブルの時代の本当の終焉となる1992年までの、リクルートの事業バブルの断末魔の叫びとして、江副教と揶揄された教祖の最後のメッセージとして、社内では繰り返し「唱和」され続けたのであった。
50歳〜60歳代に見事にピークをもってきた山田滋の人生
結局、このCMが流れたのは、わずか3日だった。
予定では1ヶ月放映する予定だった。リクルート事件の報道によって打ち切らざるを得なかったのだ。
この時まだ40歳そこそこだった山田率いる少数精鋭の宣伝部は、買い取っていた全国の放送枠を謝りながらキャンセルして回ったという。
この大変な「尻拭い」のトラウマのせいだろうか、山田茂はその後神戸支社長として赴任して、入れ替わるように大阪に出た私と、引き継ぎ的接点を多々持つが、本来の「自慢話大好き」キャラの彼が、クリエイティブを仕事とする私に、「情報が人間を熱くする」の話を得意げに話した記憶が全くない。
むしろ、そのことについては語りたくない、当時の山田から私は、そんな印象さえ受けていたのだった。
山田も亀倉も鬼籍に入ってしまった今、真相は馬場マコトしかもはや語れない。しかし馬場マコト本人も今まで多くを語っておられないこの件は、彼にとっても会心の仕事ではなかったのだと思う。
山田滋はその後、リクルートから一部上場企業・共立メンテナンスに転じて、2000年代に急成長したドーミーイン事業の中核として大活躍した。
途中入社のハンデもものとせず、ドーミーイン事業を初の海外展開(韓国)に導くなど、わずか10年で大きく伸ばし、ついに副社長にまで上り詰めたのだ。
早稲田からの同期入社で山田の大親友の蔵野孝行は、共にHRから教育機関広報(KKK=現在の学び事業)に転じ、山田は東京で、蔵野は大阪で、高校生たちの進路の可能性を大きく広げてきたという間柄だが、山田の共立メンテナンスでの大活躍には目を見張ったと、絶賛する。
「ほんま、よう頑張ったで。リクルートの時も頑張ったが、さらにすごい仕事をしたな、山ちゃん!」
2021年12月10日。
2年にわたって肝臓がんと闘ったきた山田が、力尽きた。
現在、山田滋は、見晴らしのとても良い高台、飛龍寺霊園から私たちのことを見守ってくれている。

冒頭の「笑顔絵」は、今は奥様が一人静かに住まわれる神戸市のマンション、あの「山田邸」に納品させていただき、お線香をあげさせていただいた。
「山田さん。早稲田の後輩でおそらく最も出来が悪く、手がかかったけれど可愛がっておられた稲富重弘が、そっちに行きましたよ。あいつは、酒の飲み過ぎで肝硬変でした。汗だくでうろちょろしてる彼を、もう見つけましたか?まあ、お互い肝臓はリセットされているわけでしょうから。酒を酌み交わしながら、やつの蘊蓄を久しぶりに聞いてやってくださいな。あ、後一つ。土屋洋があの江副浩正伝以来、また本を出すみたいですよ。懲りないやつですね、全く」