京都単身赴任時代の親友

2024 年3月24日、雨。
今日は、井町岳二が生きていれば63歳を迎えたはずの誕生日。2018年の4月に天に召されて早いものでもう6年が経とうとしています。

彼は、40歳台半ばに神戸在住だった私の仕事が京都メインになり、8年間ほど単身赴任していたその頃、2日に1度ほどは立ち寄っていた(笑)音楽バー「Off the Wall」のマスターでした。
今をときめく「10-FEET」のメンバーと遭遇して一緒に飲むなんてこともありましたが、深夜に彼を訪ねると客は私一人のことが多く、二人はたいがい朝まで語り合い、たいてい喧嘩になって、そのあとは階下のバー「トランジスタラジオ」か「治外法権」で飲み直す、そんな日々を送っていました。

3歳違いで大違い

「Off the Wall」と言う店名は、彼が愛してやまないマイケルジャクソンが1979年にリリースした不朽の名作アルバムから勝手に拝借したものだったが、この店は翌1980年にちゃっかりとその屋号を冠してオープンしたと記憶している。

私は当時大学3回生、京都の繁華街で暴れ回っていた不良学生だった。バイト帰りに毎夜のように「Off the Wall」と同じビルのお隣の音楽バー「赤ずきん」に入り浸っていた。
同じビルであったにも関わらず、当時の彼とは縁がなかったようである。私が「Off the Wall」に初めて入店したのはなんと25年後、油ぎった中年男になってからだった。
音楽バーということで、彼との最初交わしたのは月並みな音楽談義だった。彼の選曲は、80年代のAORが中心で、たった3歳の違いだが70年代ロックをこよなく愛する私の好みとは少し違っていた。しかし、70年代ロックは「Off the Wall」を追い出されてから階下にある「治外法権」に行けば爆音で聞ける。1階には清志郎ばかりかかっている「トランジスタラジオ」も朝まで営業しているので、早い時間帯(といっても深夜だが)耳障りの良い井町の選曲と会話を楽しむようになっていった。

3歳違いで大違いと思ったことがもう一つ。
1970年の大阪万博に、小学校6年生の私は何十回も一人で通ったが、彼は当時遠く離れた山口県萩市に住む小学校3年生である。枕が変わると寝小便をしていたらしく、それを理由に、彼の兄を含む家族での万博旅行のメンバーから漏れて留守番をさせられた。
その話は彼のトラウマのようで、当時の恨みつらみは繰り返し何度聞かされただろうか。

ぐちを聞いてくれた井町

当時、私が単身赴任までしてしていた仕事は、京都最大手塾の生徒募集だった。
公教育を混乱させる存在である塾という存在が私はあまり好きではなく、実際我が子たちにも通わせることはなかったが、私はそんな仕事を、家族を路頭に迷わせないがために、イヤイヤながら恥ずかしながら、続けていた。特に嫌だったのが経営者の人間性。前回の能登地震、東日本大震災といった人の不幸が大好物で、従業員を鍛えるという口実のもと現地への従業員旅行を敢行し、そのネタを塾の広告に使う偽善者だった。
当然のように、ストレスは溜まる。

その捌け口が、「Off the Wall」のカウンター越しにいつも向き合ってくれた井町だった。

彼の闘病を知らないで

その仕事をやめてストレスから解放され同じ京都でしばらく働いていたが2015年、井町に別れを告げて私は東京に単身赴任する。

そして、私が東京で働いていたその期間に彼は癌になり、見つかった時にはすでに手遅れ。2018年4月20日午前9時51分、井町岳二は帰らぬ人となってしまった。
東京で私は、彼が癌になったこと、闘病していること、ビル改築に伴う一時閉店を余儀なくされ、新しい場所で店の再開にこぎつけたこと、すべて何も知らなかった。

知っていたところで、何ができただろうか。会えばケンカするほど仲が良すぎただけに、彼の苦しみから遠いところにいて良かったのかもしれない。

井町、そっちはどんな感じや?
マイケルのダンス観れてたらええな。

そっちにいったら一等最初に「Off the Wall」探すから、待っとってや〜。