カメラマンが教えてくれたこと

私は1982年に大学を卒業し、リクルート(当時は日本リクルートセンター)という会社に就職しました。
あのバブルの時代を含めてほぼ10年間、この会社で仕事をさせていただきましたが、その仕事とは「就職先を探している学生さんにいろいろな会社の情報を提供する」ことで、具体的には「さまざまな会社を取材して、提供する情報を工夫してつくりあげる」というものでした。
それは熟練のプロたち(ブレーン)の力をお借りしないとできません。
文章を書くプロであるコピーライター、デザインするプロであるデザイナー、イラストはプロのイラストレーターに任せますし、写真はカメラマンに撮影していただきます。

現在78歳になられた写真の小出圭吾さんも、40年前の若き日の私が大変お世話になったプロカメラマンの一人です。

「良い写真」を撮るプロフェッショナルたち

当時の私は、実に個性的で魅力的なカメラマンの皆さんに恵まれた。

写真については学生時代から勉強していた私だが、いざ仕事を始めてみると、たちまちプロのカメラマンの方々の技術とプロ意識の高さに圧倒された。プロフェッショナルとアマチュアの「レベルの違い」を思い知らされたので、以降は仕事で同行させていただくことは得難い機会、貴重な時間となった。少しでも学ぼう、盗もうと、彼らの仕事ぶりをガン見していた毎日だったことを思い出す。
彼らの多くは私よりちょうど一回り上、12歳前後の先輩にあたるいわゆる「団塊の世代」の方々ばかりだったが、みなさん誰一人として似通っておられない、まさに個性の塊のような人たちばかりだった。

今なら典型的なパワハラ、時には鉄拳あり足蹴りありでアシスタントをシゴいていたスタジオOZの山下さん、強面で難波写真道を地でいくスタジオ5アングルの山敷さん、美大志望で造形の基礎を学び卓越した美意識でブツ撮りの神様と崇められたスタジオKPの蔵本さん、人物を撮らせたらその魂まで写し込む人物撮影の酔いどれスナイパー原寛さん、共産主義革命の夢破れカメラマンに転身し、末期の膵臓癌を自力で消し去って今はヨット上の人となった中村昇治さん…。

男は黙って…

そんな多士済済の中で、小出圭吾さんは実に物静かで穏やかな紳士だった。

相手が誰であろうと、それができの悪い新入社員であろうと、どんな無理難題を前にしても、彼の低い物腰と優しい言葉遣いは全く変わらなかった。常に安定した仕事ぶりも際立っていた。もうひとつ際立っていたことは、寡黙だったこと。黙ってこれぞプロという仕事を納品してくれた。当時彼はまだ30路半ばだったが、時間を含め約束を守らなかったことは皆無。少しでも怒ったり気色ばんだりした彼を一度でも見た人がこの世にいるのだろうか、とにかく紳士を絵に描いたような人だった。
しかし私の目は節穴ではない。ちゃんと察していたのである。

表には現れていなくても、彼の内には、別の格納庫があって、そこにとてつもない「エネルギー」が蓄えられているのではないか、と。

小出式2段ロケット

2024年3月16日。
私は、彼のアジトが2つもあるという、奈良と三重の県境にある深野村を訪ねた。


三重県との県私の見立ては当たっていた。
小出さんの2段ロケットは、35年前、43歳にして早くもその2つ目に点火し、新たな軌道へと向かっていたのである。
この地に購入した山林を切り開き、まさに「北の国から」の黒板五郎のように、小学生の息子さんたちと家を手作りし始めた小出さん。仕事の合間を縫って、しかも建築知識ゼロからの取り組みゆえ完成まで10年を要するも、ついに見事なセカンドハウスを完成させる。

さらに、その近くに農地を借地し、もう一つの活動拠点として「深野ファンクラブぴあ」を立ち上げていた。
今や「深野ファンクラブぴあ」は、37家族100人が暮らす深野村になくてはならない存在となり、障がい者自立支援活動の一環としても機能している。


東日本大震災の際にはボランティアとして現地に入り、被災者の人たちの津波に流された写真の修復再生や、今後の防災対策に必要となる記録としての現地記録の仕事にも無償で参加。現在も、50年前に撮影した能登地方の膨大な写真を、被災地の復興の一助とすべく早くも自治体に無償の協力を申し出ている。
ボランティアだけではない。夢であったエベレストにも行ったというから、そのパワーは「第二の人生」とか「セカンドライフ」から想起される既成の概念をぶち破ってどんだけ〜なのである。

社会人ペーペーの時代には、「プロフェッショナルとはどういう存在か」ということを私に教えてくださった小出さん。
そしてセカンドライフを歩み始めた私に、今は「生きるということはどういうことか」を背中で見せてくださっている。