2024年3月22日。
前日の季節外れの雪から一転、快晴のゴルフ日和となりました。
そこで急遽、エントリー可能な午後スタートのスループレーができるゴルフ場を探したところ、ヤシロカントリークラブがヒットしたので、行って来ました。
ゴルフはここのところの好調を維持し、前半後半とも39で揃えてトータル78でホールアウト。このハーフ39というスコアは今でこそちょくちょく出ますが、ゴルフを始めた最初の10年を思い出せば、本当に夢のようなスコアでした。
そのゴルフ初心者の頃、「39会(さんきゅーかい)」というゴルフ旅行の会を毎年楽しみにしていたものでした。
(写真は、その「39会」で宴会芸を披露する若き日の私です)
働く意味や人生を変えてしまう「最初の上司」
本音を言ってしまえば、私は「仕事」が好きではない。
そんな私は、社会に出て仕方なく?メシを食って自立するために働くことを「ライスワーク」、そして仕事にやりがいを見出せて仕事が好きになる環境に恵まれた場合、それが「ライクワーク」に変わる場合が稀にあり、その「ライクワーク」が真に世のため人のためになるレベルを「ナイスワーク」と考えてきた。
ちなみに、結婚して子どもができてから家族愛をエネルギーにして働くことが「愛すワーク」であり、最終的に人生をかけるほどの「ライフワーク」に到達できる人はそうそういないとも。
もし人間にとって、職場の人間関係が難しくもなく、仕事というものがさほどのストレスなくお金が稼げるものであるならば。精神を病む人や自ら命を断ってしまう人が毎年これほど出るというようなことはないはずである。
そういう意味においては。
誰もが社会に出た時の「最初の上司」がどういう人であるかどうかは、その人にとって働くということが肯定的なものになるかどうか、もっと言うとその人の人生がかかっているとさえ言える重要なことではないだろうか。
会社に行くことが楽しみだった奇跡の時代(笑)
話を元に戻して。この写真のようなことがあったからでは決してないが、私は、社会に出てからの最初の仕事が好きになれた非常にラッキーな人間の一人だった。
今にして思えば、出社すること楽しみで、帰宅してしまうことが名残惜しいという、周りからは病的にさえ見えただろう「奇跡的な時代」だったわけだが、それはひとえに上司のおかげであったように思う。
大阪支社の配属となった最初の上司がKR野さん、OK崎さん。お二人ともが素晴らしい上司だった。そして神戸に異動となった私を迎えてくれた上司が、T中さんだった。
「39会」は、そのT中さんが東京に異動となった際、彼を慕ってやまない部下たちによって結成された。会名の「39」は、T中さんが命名されたが、そこには互いにサンキューという感謝を忘れないこと、そしてゴルフではハーフ39を目指して研鑽を積もうという意味が込められていた。
年に一度のゴルフ旅行の行き先として九州、四国が多かったのは、かつて神戸営業所が「西統」と呼ばれた西日本全域の統括組織に属していて、西日本各地にその頃の楽しい思い出があまりに多かったからだろうか。
健康、友人、そしてサムマネー
私がゴルフを始めた頃から、辻本烝治さんは本当にゴルフが好きだった。
そして、あの頃からあっという間に40年もの歳月が流れ、その間に時代の波は彼の仕事を「写植」と言う業態ごと飲み込んでしまう。
仕事を引退されてからの辻本さんにとって、彼の第二の人生を楽しく充実した日々にT中さんをはじめとする友人とゴルフは、欠かせなかった両輪だったろう。
辻本さんと私が愛したT中さんの金言がある。
「家族はもちろん大切。でも歳をとってますます大切になるものが3つ。それは健康、友人、そしてサムマネー(ささやかな楽しみが続けられるだけのお金)だよ」と。
「39会」から松村修さんが最初に旅立たれ、このたび天国に旅立たれた辻本烝治さん。
一定の療養期間はあったものの、最期までかけがえのない友人T中さんたちとゴルフ旅行を楽しめるだけのサムマネーに恵まれ、奥様に見守られて永遠の眠りについたとお聞きしている。
「とってやないけど(やってられませんわ)」
彼の口癖がとても懐かしい。
どうか安らかにお眠りください。