「長〜〜いお付き合い」といえば京都銀行のCMですが、
CMといえば、D通。そしてD通といえば、「きぬやん」。
広告界にいながらにしてこのことすら知らぬものは、モグリと言ってまず間違いないでありましょう。
そのきぬやんと私は、私とほぼ40年にも
なろうかという「長〜〜いお付き合い」です。
歯にきぬやん、もとい歯に絹着せぬ私は、「敵」も人並外れて
(おそらく友人以上)に多く、40年もの長きに渡りしかも
間断なくお付き合いさせていただいている方で、私をまだ
見離していない(よね?)人は、瞬時に指折り数えられます。
今日は両親の見守りを、千葉から帰省してきた妹に任せ、
まさに奇特と申し上げるよりないその「きぬやん」と、
本当に久しぶりに午後3時から差し歯、もとい「サシ飲み」の栄誉に浴したのでした。
大酒飲みの私と同じペースで、同じ量を「サシ飲み」できる人はきぬやん以外に思い当たらない、そう、彼は酒もめっぽう強いのです。
そのきぬやんと37年前、仕事終わりに酒を酌み交わし始めた思い出の店の代表格は「味処おがわ」。
この日、同じく当時から行きつけの「ごん太」「うを勢」「龍虎」と二人で7時間あまりハシゴしたのですが、そ龍虎の当時の大将やうを勢の板前さんの多くはすでに他界しておられます。そして、1995年の大震災があって場所も移動し内装も変わりました。あれほどの災害に見舞われたにもかかわらず、40年前と同じ場所、同じ外観、同じ内装、そして店主が今なお現役で現場に立っておられる。何もかもが当時と変わらないのは、この「おがわ」だけ。きぬやんより4年長い、41年という「長〜〜いお付き合い」なのです。
店主との会話、きぬやんとの会話、最高でした。
きぬやんと「おがわ」
きぬやんは、神戸大学の農学部を昭和61年に卒業した、世間的にはエリートと見られる有為な人材。逸材の青田買いを得意とするR社が目をつけ、熱心な勧誘の結果、新卒で入社した。彼がしたかった仕事は営業であったが、彼の希望は叶えられず、私と同じ神戸支社での制作職(企業情報誌の記事づくりやパンフレットづくりが主な業務)として、社会人としてのスタートを切ることになった。
Rという会社は(少なくとも当時は)社員に対して3ヶ月に一度のリアルタイムな評価を行なっていたが、その指標として、そのほとんどの評価ウエイトは売り上げにあり、結果として、つまり遅れての評価指標として利益があり、もっと遅れての、まあどうでも良い評価指標として品質、つまり仕事の内容評価があったが、それは1年に1度であった。
したがって営業の仕事をしない限り、最高レベルの評価を得るチャンスはまず無い、そんな会社であることを、賢明なきぬやんはよく知っての入社だった。
彼が希望していなかった制作の仕事の評価というものは、最終的に利益が出た際の評価、こなした仕事量をカウントした結果の評価、あるいはお客様から期待以上の結果をもたらせた際にお客様からいただく評価、あるいは極めてマスターベーション的な社内目線での品質評価などがあるにはあったが、そのほとんどは給与アップに反映される「査定期間」にものをいうリアルタイムな評価指標ではなく、査定評価期間からズレて遅すぎるタイミングの評価ばかりであった。
当時R神戸支社には営業マネジャーはいたが、彼の5年上の先輩である私が、営業への配属が叶わず失意にあった彼を職場に受け入れ、彼の制作職としての育成を担当し、同時に3ヶ月に一度、そうした評価指標が営業職よりも曖昧かつ数字でははっきり出ない評価(査定)を彼に対して行わなければならない立場となった。
「制作」という仕事の意味や魅力がどれほど伝わったかわからないまま、とにかく私は仕事が終わると彼を「おがわ」に誘い、日々彼に懸命に伝えようとしていた。営業の仲間も一緒に、ひどい時は毎夜のように「おがわ」で腹ごしらえし、スナックやバーでさらに飲んで、みんな最終電車に乗って帰るといった毎日だった。
そんなある日、彼に対して、ただの先輩である私が、つまりはまだ上司ではなかったのに、「異動」という社命を彼に告げる重い役目を背負わされることになった。
神戸支社との姉妹拠点、姫路営業所の制作リーダーが退職することになったのだ。
「きぬやん、姫路に行ってくれ」
まだまだ未熟で、彼にとって良いことか悪いことかの確信が持てないまま辞令を内示したのもおそらくこの「おがわ」であったと思うのだが、あの夜のことは、たいていにことは覚えている私なのに、あまり思い出せない。
私自身、相当動揺していたのだと思う。
異動内示、そしてツイン引越し
配属されたR神戸支社に通うために、きぬやんは、ユニテサーラ芦屋というワンルームマンションを借りて住んでいた。
神戸支社で新入社員としてスタートしてまだ間のない若者が、せっかく始めた新生活拠点の賃貸契約の解約手続きをする気持ちはいかばかりか、私の胸は痛んでいた。
今考えればそんなことをして彼にさほどのメリットがあったとも思えないし、私にしてもそれまで通っていた明石からの通勤と芦屋(最寄りはJR住吉駅)からの通勤はあまり変わらなかった。にも関わらず私はきぬやんの後にそのマンションに私がそのまま住むことを申し出た。と、気の毒でしかなく、少しでも助けになるかもしれないと思ったからの愚行だったろう。
それでもきぬやんは、喜んで私の提案を受け入れてくれ、きぬやんは姫路で新しいマンションを探し、私は神戸市者勤務のまま、彼が住んでいた芦屋のワンルームマンションへと、二人は同時に引っ越したのであった。
スタミナテニス
二人が共通して担当したクライアント、すべて社歴で4年先輩の私から彼にバトンを渡したお会社さんということになるが、その中に、スタミナ食品株式会社様があった。「こてっちゃん」というヒット商品を有する、輸入肉加工を社業とする会社である。
その「こてっちゃん」を初め、ホルモン食材中心の小売を担当する子会社「ミスタースタミナ」さんで食材を買い込み、スタミナ食品敷地内のテニスコートをお借りして、週末の日曜日、姫路、神戸および大阪に勤務するR の面々が集い大いに楽しませていただいたのが「スタミナテニス」という身内イベントだった。
そのスタミナ食品さんの人事責任者I見さんは、私を非常に可愛がってくれた方だが、私が大阪に転勤し、その後きぬやんが後任になった頃、I見さんからわざわざ大阪支社の私に電話がかかってきた。
「君の次の担当は今ひとつだったが、今度はいい担当がついてくれたよ」と仰っていた。
きぬやんのことである。彼にこの電話のことを話したかどうかは覚えていないが、私はとても嬉しかったこととして記憶している。
しばしの別れ、そして本当の別れ
私のもっとも古い友人といえば、淡路島の富島小学校1年で縁があった同級生たち5人がいる(ゴルフ仲間)が、私が明石海峡をわたって明石の人丸小学校に転校してからなんと半世紀もの空白がある。
明石でできた新しい友人(中学高校)も、大学時代の友人にしても、親友と思っているやつであっても、それぞれ10年程度だろうか、互いの人生の波がうまく重ならない間、それなりの空白期間があった。
ましてや、職場での上司や先輩、同期、後輩との関係は、あくまで「仕事」を介してのものであり、それだけに濃厚だったりもするが、別の人生を歩み始めた時点である程度疎遠になっても不思議はないだろう。ちなみに私の場合は、リスペクトし続けているありがたい人ももちろんいるけれど、いまだに憎み合い蔑み合っている?人間も3人いる(笑)。
そんな私と、33年前、私がきぬやんより先にRを退社したことによってきぬやんとも別れることになったが、その数年後、きぬやんもRを辞め、D通に転職した。
京都のお客様との商談が終わって四条河原町を歩いていた私に、きぬやんから電話がかかってきた。
「ご報告があります。このたびD通で頑張ることにしました。いろいろ教えていただいたおかげです。ありがとうございました。」
無性に祝杯をあげたくなった私は会社に「直帰する」と電話を入れ、その場所から数分歩いたところにある「たこ入道」という居酒屋に飛び込んだことを覚えている。
きぬやんと私の二人に共通する「長〜〜い恩人」といえば上森秀樹さんと山田滋さん。
「おがわ」を愛してやまなかったそのお二人が、3年前に相次いで天に召された。
この日「おがわ」で、きぬやんと私がしんみりとお二人を偲んでいると、その上森さんと山田さんが降りてきた。
そして私たちと一緒に「おがわ」のカウンター席に座って、一緒に飲んでいた。
心地よい酒に酔った私には、そのように感じられた。