北海道で小さい秋みいつけた②老舗の5代目社長「杉野裕俊」、雪印との関係解消など激動の北海道食品業界を見事に生き抜いた人生の秋!

リクルートの創業者・江副浩正さんは、間違いなく「起業の天才」だった。

そんな江副さんに憧れリクルートに入って、遅かれ早かれ出て行った人間たちの多くは、江副さんに続けとばかり「起業」することに大変熱心だった。

しかし、「起業」キチ●イのような彼らの「起業」は、失敗に終わるケースも多い。

そりゃそうだ。

まさに「天才」であった江副さんのような人がそんなにたくさんいるわけもないわけで。

ましてや世の中もそんなに甘くないわけで。

「起業」というのはまずゼロから1を得ること。そして、軌道に乗るまでとにかく攻め続けるしかない。誰しも失敗するなんて思ってはいなくても、統計的に見れば「当たるも八卦当たらぬも八卦」、「失敗」する確率の方が圧倒的に高いのだ。
一方で、何代も前の創業者が起業した老舗を維持し続けることもまた難しい。

同族企業の場合、「3代目が会社を潰す」とよく言われるが、私の知る限りの同族会社もよく3代目で潰れている。

何が言いたいか。

「起業」も、「企業の永続」も、どちらも非常に難しいことなのである。

曽祖父・杉野菊次郎さんが創業

昭和の最後にリクルートに入ってきて、運悪く私の部下になった杉野裕俊さん(以下杉野くん)は、後者の典型である。

海産乾物を扱う卸問屋として大正3年に創業した杉野商事の、5代目として会社を継ぐのが既定路線であったが、北海道から京都に出てきて同志社大学で電気電子工学を学び、何を血迷ったかリクルートに入ってきた。

杉野くんの曽祖父・杉野菊次郎さんは、三重県伊勢の出自である。

明治政府は北海道の開拓と守備を強化するために屯田兵制度を施行し、北空知地区は愛知・三重の両県から募集をしたが、菊次郎さんはそれに志願して明治29年(1896)に一已村(現在の深川市近郊)に入植した。
菊次郎さんは退役後、大正3年(1914)10月に上川郡鷹栖村2線6号(現旭川市春光町)にて海産乾物を主とする食料品問屋「(カクスギ)杉野商店」を創業する。
屯田兵として、北海道開拓に夢とロマンを追い求めた杉野菊次郎さんから、老舗「杉野」の歴史は始まったのである。

初代 - 杉野菊次郎

初代・杉野菊次郎

2代目で株式会社に

昭和19年(1944)3月、初代・杉野菊次郎没。

二代目・杉野勇さんが事業を継承し、昭和25年(1950)4月、杉野商事株式会社を設立する。

勇さんは昭和27年8月(1952)、2号店を帯広に開設し、その後も札幌・釧路・北見・稚内など全道各地に支店を展開した。

二代目 - 杉野勇

二代目・杉野 勇

昭和49年(1974)9月、二代目・杉野勇さん没。

杉野商事株式会社の三代目の社長には、杉野くんのお父様の兄、つまり叔父にあたる杉野昭雄さんが就任する。

3代目、叔父さんが300億円企業に!

この人がすごかった。

昭和56年(1981)11月、40年以上支持され続けるオリジナル商品「ほぐし鮭」を開発。

東京に進出し、函館・苫小牧・紋別・岩見沢・倶知安・室蘭・江別センター・帯広センターなどの拠点展開も進め、売上を300億円台へと乗せてしまった。

三代目 - 杉野昭雄

三代目・杉野 昭雄

3代目が会社を潰すどころか、3代目で「杉野」は大飛躍。
伊藤忠商事の社長からもその辣腕ぶりを絶賛された昭雄さんは、働き過ぎたのか、平成9年(1997)に体調を崩され、9月に弟の杉野惠二郎さんが代表取締役社長に就任した。

四代目 - 杉野惠二郎

四代目・杉野 惠二郎

この年、「俺は寝てないんだ」の迷セリフが忘れられない戦後最大の集団食中毒事件を起こした雪印と密接な関係にあった杉野商事は、4代目社長となった杉野くんのお父様の時代、平成12年(2000)3月に北海道雪印販売会社と合併して、杉野雪印アクセス株式会社が発足した。

なんで俺が主賓やねん!

杉野くんはこの大きな転換期を迎え、「杉野」の5代目社長を継ぐべく、リクルートを辞めて北海道に帰っていた。

名門・札幌グランドホテルのもっとも広い宴会場で、次期5代目社長のお披露目もあってか400名近い客を招いての杉野くんの結婚披露宴があり、なんとその「主賓」として私がご挨拶申し上げたのは、この頃である。

事件を起こしたとはいえ、招待客の多くはあの「雪印」の50歳代、60歳代の重鎮のお歴々。彼らを差し置いて、ようやく40路に入ったばかりの私が主賓とは。

「松」のテーブルには、杉野くんの上司であったヒロ中田さん、豊田義博さんなど、まだ30代半ばの若輩者が卓を囲む。ぐるりと50ほどの大きな円卓があっただろうか、見渡すと我々の親のような世代の人ばかりである。テーブル「松」のテーブルの平均年齢が圧倒的に低いなんて、今思い出しても赤面を禁じ得ない、アンバランスこの上ない配席であった。

誰もが、「なんでこんな若造が主賓なのか」疑問に思って当然、好奇の視線が注がれる中、いきなり「主賓の挨拶」である。

人前で喋るのは慣れていたし、結婚披露宴での挨拶も、だいたいはリクルートの従業員同士の社内結婚への列席が多かったので、ギャグの1発2発かまして笑いを取ればそれでよかった。
しかし、これを「完全アウェー」というのだろう。

まさか、杉野くんをネタにして「藤山寛美くん、おめでとう!」などとボケて笑いを取るなど絶対に許されない雰囲気なのである。

新人時代の杉野くん(写真上)と、現在の杉野くん(写真下)

会場の雰囲気に圧倒される前までは「藤山寛美くん、おめでとう!」とボケをかまして、後は適当になんて舐めていたが、そんなボケをかましては絶対にいけない、そんな雰囲気なのだ。

生涯最悪のスピーチ

「ボケ」という関西人伝家の宝刀をもぎ取られた私は、もう私ではなかった。

「え〜、ただいまご紹介に預かりました〜」から切り出したが…。

「杉野くんが修行に出ておりましたリクルートという会社には、この会場の皆様方の倍ほどの数の同期入社、いわゆるライバルという存在がいるわけですが、杉野くんはその中でもダントツでして。とびきりダントツ、そう、まさにダントツ印のほぐし鮭(杉野フーズの製品は「ダントツ印」)ほどダントツなわけです。飛び抜けて優秀でございまして、たまたま上司を仰せつかった私などは、日々、彼に助けてもらってばかり。不出来な上司を、彼は時折優しく叱ってくれていた、そんな日常でございまして。見た目も実力も、どちらが上司なのかわからないと。周りはみんなそう言っておりました…」

「鮭は、故郷の川を決して忘れません。ご存じのように、稚魚は川から北洋に飛び出し、5年ほど過ごして生まれた川に帰ってまいりますが、杉野くんもリクルートというわけのわからない会社で5年どころか10年近くも泳いでおりましたが、本日ここに、ちゃんと戻って来ておられるわけです!すごいですね!お父様お母様、誠におめでとうございます!」

「世の中には星の数ほど企業がございます。リクルートはその中でも、海で言えば荒波中の荒波、大荒れに荒れた厳しい環境でございまして、その中で揉まれに揉まれ、ほぐしほぐされ、まさに杉野さんのメイン商品・ほぐし鮭のように、人物的にも実に見事にほぐれて仕上がっております!」

「これからまさに前途揚々、北海道の、いや、全国の食品業界をリードしていくであろう経営者を志して、この10年で少しばかりほぐれすぎたかもしれない身も心も改めてギュッと締めての船出でございます。いかに優秀であっても、またご先祖様、親御様から経営者としての天賦の才能を授かっているとはいえまだ若く、まさにこれから大海に泳ぎ出す新郎新婦には、諸先輩方の温かいご支援が必要でございます…」

などと、よくもまあ意味不明、わけのわからないお世辞?を次から次へとw。
反応があった、というか喜んでいたのは、「松」の席と、新郎の杉野くんだけ。

67年生きてきたが、400人の前でお世辞を超えて嘘をついたのと、これほどスピーチが滑ったのは後にも先にもこの時だけであった。

杉野裕俊は110年続く「杉野」の5代目社長

それから9年後の平成21年(2009)3月。
杉野くんは、5代目の社長として経営者デビューを果たす。

あの結婚披露宴から四半世紀、社長就任から16年が経った。

ススキノに藤山寛美、もとい、杉野くんを呼び出して痛飲した。

話は尽きない。

大変なことも色々あるようだし、なぜか「秋刀魚」から目を離さない藤山寛美、もとい、杉野くんは相変わらずちょっと挙動不審なところがあるが、とにかく健康である。
顔色がとてもいい。健康的に痩せてはいたが、食欲も旺盛だ。

この四半世紀の間に、雪印との関係解消など経営者としても大きな試練をいくつも乗り越えて現在がある。
奥さんとの晩酌が一番の楽しみという愛妻家で、長女さんも長男さんも、どちらも大学院生。

幸せな家庭を築いておられ、とても幸せそうである!

私は、そんな幸せを壊すような野暮なことはしない。
新旧2つのラーメン横丁(の場所)を案内してもらった後は、彼を家に帰し、私はひとりススキノの夜を満喫したのであった。
杉野家バンザイ!

杉野創業110年バンザイ!