
水尻宏明さん(以下水尻くん)は、私がサラリーマンだった時代、つまりリクルートの2年後輩である。
後輩といっても、同じ部署で働いたことはない。
2つほど共通の事業部門経験があったし、知り合った時の印象がすごく良かった(彼が抱いた私の印象は知らない)から、私が勝手に彼の人生に興味を持ったに過ぎないのだが。だから彼の仕事ぶりはよく知っていた。
私はほぼ10年で会社を辞めてしまったが、彼はリクルートの仕事がそこそこ気に入ったようで、20年ほどサラリーマンを続けたようだ。
当時も決して活躍していなかったわけではないが、会社を辞めてからの彼の人生の選択がすごく、また素晴らしい成果も出し、まさに今、水尻くんは還暦を3年過ぎて人間として大きく実った感がある。
ブドウもトマトもナシも米も実る秋、人の実りも味わいたくて。
北海道与市の農福連携の農場を経営する水尻くんを訪ねた。

北海道与市の農家の次男に生まれて
「我らが岡崎さん」もそうだが(岡崎さんは鳥取県の倉吉)、水尻くんも、北海道の与市で農業を営むご両親のもとに、次男として生まれた。
長男さんは、早々に「農家は継がない」と宣言して家を出たため、お父様は次男の水尻くんに農家を継いでもらおうと考えていたし、水尻くんもまた「俺しかいないしな」と思っていたという。
水尻くんは、そんなお父様の気持ちを汲んでか、大学に行かずに働こうと思っていたそうだ。
しかし、血は争えないというか。
実はお父様はとびきり優秀な子どもで、現在の文科省から特別に表彰され、、あまりに優秀だったため先生が進学を熱心に進めに家にやってきたという。
しかし。時代、あるいは家庭の事情が許さなかったのか。「祖父」は「父」の進学をが許さず小学校から先の高等教育を受けずにお父様は農業従事者となった。
そんなお父様は、水尻くんにこう言ったそうである。
「宏明、お前、大学には行ったらいい。ただし条件は二つある。ひとつは家から通えるところへ行け。そして二つ目、浪人はダメだ」と。そしてこう付け加えたという。
「百姓は、大学行ってからでもできるだろう」。
「口減らし」で仕方なく就職することに
水尻くんはその条件をしっかり守って、さほどの受験勉強をした覚えもないらしいが、家から通える(隣町小樽)の名門「小樽商科大学」に、きっちり現役で合格した。そして体育会バスケットボール部で、部活に明け暮れる。
しかし彼が3回生になった年、事件は起こった。
冷害でブドウをはじめとする作物が大きな被害を被ったのだ。
不幸は続く。その年、とびきり大きな台風が来て、りんごが全部やられてしまった。
さらに、なんと次の年も冷害が与市を襲った。
お父様は言った。
「仕方ない、口べらしだ。お前はどっかに出て行け(就職しろ)」
水尻くんが大学時代に専攻したのは「原価計算」だった。
就職することになった水尻くんは、明確に「メーカー志望」だった。
結果リクルートに就職してしまうわけだが、彼とリクルートの接点は、単発のアルバイトをしただけだった。その時の北海道支社でアルバイトの窓口をしていたのが、ロリさんこと田中和彦さん(以下ロリさん)だった。おいおい、同期じゃんか(笑)
水尻くんは、バイトでお世話になったロリさんにも、「就職はメーカーに絞ってます」と伝えていた。
ロリさんの上司の失礼な言動にブチ切れて
いくつかの会社の中からこれという会社、もちろんメーカーだが、その会社に絞った水尻は面接を受けに与市から東京に出てきた。
面接が終わると、何もすることがない。
これから蜻蛉返りも味気ないな、と思うと、水尻の頭にロリさんの顔が浮かんだ。
「そういえばロリさんは転勤して今は東京にいるのかな?せっかく東京にいるし電話をしてみよう」
水尻は、バイトで世話になったロリさんに電話をかけた。これが、運の尽きだった(笑)
「おお、水尻か。久しぶりだね、どうしたの?」
「ある会社の面接で東京来て、それが終わってまだ東京にいるんですよ」
「え?そうなの?うちの会社、銀座にあるんだよ。飲ましてやるから、こいよ」
「はあ、では」
と言うことで、水尻は銀座のリクルート本社に行くと、応接室に通された。
そこで、ロリさんは言った。
「飲みに行くまでまだ時間があるな。腹減ってるだろう?何がいい?マクドナルドでいいか?」
水尻は昼飯に、それまで食べたことも見たこともなかった「マクド=マック」なるものを奢ってもらったのだった。
あまりのおいしさに水尻が感動していると、部屋に見知らぬ太ったおっさんが現れた。
ロリさんは当時は2年目だったが、その太ったおっさんはロリさんの上司だった。
突然現れたその男は、開口一番、水尻くんにこう言った。
「キミ、どこ受けてんの?」
「〇〇と言うメーカーです」
「え?なんでそんな会社受けてんの?」
これには水尻くんでなくともカチンとくるだろう。
水尻も若い。この失礼千万な物言いにブチ切れた。
「そんな会社って、失礼じゃないですか。私のことも、その会社のこともきちんとご存知もなく、どうしたあなたにそんなことを言われなくてはいけないんでしょうか!」
「安比のリゾート開発」に一目惚れして
その場は非常に気まずい雰囲気で終わり、ロリさんはそのあと、約束通り夜の銀座に学生の水尻を連れ出してさんざん飲み食いさせたそうだ。
そして、さっき気まずいことになったまま水尻を北海道も返したくないと思ったのか、ロリさんは水尻に翌日の再訪を求めた。
翌日、再びリクルート東京本社を訪れた水尻に、ロリさんは一本のビデオを見せた。
そこは、始まったばかりの大プロジェクト「安比スキー場」開発の様子が映っていた。
水尻は、ロリさんに訊いた。
「リクルートってこんなことやってるんですか?」
「ああ、気になるか?」
「はい、これ、めちゃくちゃ面白そうです」
「ほう、気に入ったのか?」
「はい。これだけは気に入りました」
安比の開発プロジェクトに若気の至りで一目惚れした水尻は、なんとメーカー就職の初心はどこへやら。リクルートに内定してしまう。
リクルートはヤクザか?
水尻くんのお父様は、長男さんに無料で送られてきた「リクルート進学ブック」のことを覚えていた。
「あんな電話帳どころじゃない、カラーの百科事典みたいなのをタダで送りつけてくるなんて、なんてインチキな会社を、よりによってなんでお前は選ぶんだ!」
親戚の叔父さんからも電話がかかってきた。
「宏明、お前、父ちゃんが泣いてるぞ。親不孝はするな!」
ゼミの教授もこう言った。
「お前、ニッカ(ウイスキー)とかサッポロ(ビール)とかホクレンとかどこかに行くって言ってたじゃないか。何を考えているんだ。なんなら今からでもJA中央会にお願いしてやるぞ」
お父様はそれを聞いて飛び上がって喜んだ。何せ、農業従事者にとっては、JAの「中央会」などという存在は、雲の上のまたその上、とんでもない存在だという。
しかし、水尻くんは誰の言うことも聞かなかった。
彼の頭には、すでに「安比」しかなかったのだ。
愛は盲目、Love is blindである。
「安比」という恋人に夢中になっているのに、俺の恋路の邪魔をするなってもんだろう。
♪親を泣かせてなんになる なってはいけないヤクザには まともな道を歩くことさ♪
これは「むかでの錦三」という歌の一節だが、リクルートには失礼ながら、お父さんもおじさんもゼミの先生も、水尻くんがリクルートに行くと言うことは、「ヤクザになる」に等しかったのだ(笑)
親を泣かせ、おじさんを安比での仕事に胸高鳴らせ、春の入社を、今か今かと指折り数えるように待っていた。
恋人との初デートの日を待つ気持ちがどんな気持ちか私にはよくわからんが、とにかく彼はそんな気持ちだったのだろう。
愛と青春の旅立ち
4月1日の入社日がやってくる新年、1984年がやってきた。
新年早々「内定者研修を行う」と連絡があり、水尻もそれに参加した。
そこで、水尻はいきなり思いもよらないあまりの仕打ち、衝撃の宣言を喰らったのだった。
「リクルートは、いくつも関連会社で事業を展開しております。
君が希望している安比高原の場合は2つ目のカテゴリーの関連会社に属しておりまして。
よって、安比の開発に大卒の配属はございません!」
水尻くんの頭は真っ白になった。
「話が違うじゃねーか!」
そして「辞めるぞ」と言いかけて、その言葉は飲み込んだ。
もう1月だ、どこのメーカーもとっくに採用は終わっている。親父には出て行けと言われている。ここで開き直ってイスを蹴っ飛ばして退場したところで、俺にはいくところがないではないか!
まさに、映画「愛と青春の旅立ち」のリチャードギア状態である。
黒人鬼教官に「やめろ、やめろ!」と顔を踏みつけられながらギアは泣き叫ぶのだった!
「僕には、帰るところがないんだ!」
1度ならずも2度まで、梯子を外されて
グッと我慢した水尻くんは、ひとつだけ、配属に関して条件(希望)を出していた。
素朴な農家の次男坊、生まれつきシャイな性格、そして大学でも体育会バスケットボール部で男社会しか知らない彼は、生まれてこのかた女性との会話経験がほとんどなく(笑)異性とのコミュニケーションに強烈な苦手意識があった。
「せめて、配属先は、男ばかりの職場にしてください。女性がいる職場はNGです」と。
しかして配属された部署は、進路情報で「キャリアガイダンス」という本を編集している女性しかいない職場だった。
リクルートは当時から女性の活躍が目覚ましい会社だったので、男ばかりの職場といってもそんなにはなかったが、それにしてもあまりにも真逆。
またしても水尻くんの希望は無惨に打ち砕かれたのだった。

当時の苦い?思い出を、甘い甘い最高のブドウ畑の前で笑い飛ばす水尻くん。
さて その後、彼は同じく本社で部門が変わって高校生に進学情報を提供する仕事を経て(この時の上司は江原和人さん)、大学生に就職情報を提供する部門に異動する。
勤務地はここで初めての名古屋配属となるわけだが、神戸、大阪の同じ部門で働いていた私は、彼の上司となった柴田友康さんを尊敬していたことが縁となって、水尻くんと知り合うことになったのであった。

彼との出会いから40年。彼は原稿であれ作物であれ「作る人」のまま」、私は「食べるだけの人」となったw
柴田友康さんという人
リクルートでもベテラン社員となり、40歳を迎えた頃、水尻くんは、私さえも尊敬してやまない柴田友康さんに相談した。
「会社、辞めようと思ってます」
「そうか?どうして?これからどうしたいの?」
「北海道に帰りたいと」
「何するかはまだ決めてないの?」
「いずれは親父の農家を都合と思ってはいますが、すぐではありません」
柴田さんは、彼を北海道支社に転勤させ、彼をリクルートで活かす道を開いた。管理職だけは嫌だとを固辞してきた課長の肩書きもいよいよついてはいたが。
水尻くんは、柴田さんに相談した。
「マネージャー(課長代理以上の管理職)は嫌です」
「お前、それはないよ、ちゃんと受けるべきだよ」
尊敬する柴田さんの説得に、北海道支社の政策部門のプレーイングマネジャーとして仕事を続けることを決めた水尻くん。
しかし、リクルートという会社は社員に決して楽はさせない会社である。
彼も例外ではなく、仕事の負荷は相当に大きなもの、具体的にはこうだった。
彼自身両方経験があるとはいえ、高校生への進学情報の提供と、大学生への就職情報の提供とは、全く異なる性質を持ち、事業部門も異なっていて、故にそれぞれ独立する部署が存在するのだが、北海道支社ではその両方を併せて初めて課として独立させ、そこを水尻が見ることになったのだった。
しかし、さて、そんな前例はないな、名称はどうしようと支社長と顔を突き合わせて悩んでいた時、水尻くのん頭に実にいい名前が浮かんだ。
唯一東京本社に「総合制作」という部署があったことを彼は思い出したのだ。
「北海道支社総合制作課!これで行きましょう」
支社長も、大きく頷いた。
そこに網野千文さん、そしてヒロ中田も絡んで!
自分の課の名前も決まって仕事に取り掛かっていた水尻くんのデスクの電話が初めて鳴った。
網野千文さんからだった。
「はい、水尻です」
「総合制作という名前はダメだ」
「え?2つの事業部のどちらの制作もやるんですよ、なんなら住宅情報の原稿まで見てるし、総合制作じゃないですか?なぜダメなんですか?」
「ダメだ。ダメなの、その名前は!」
納得できたわけではなかったが、水尻くんの課の名前は結局「企画制作課」に落ち着いた。
自分の「課」を立ち上げて、しばらくそこで頑張った後、水尻くんはいよいよリクルート退職を決意。有給休暇の消化が相当残っていて、退職日までは何をしても良かったのだが、一応「北海道じゃらん」への出向社員という肩書きとなっていた。
実は「「北海道じゃらん」のヒロ中田さん(以下ヒロ中田)と水尻くんは同期のよしみだが、立場上は上司と部下の関係だ。
そんなヒロ中田くんから、有給を消化してゆっくり休んでいた水尻くんに電話がかかってきた。
「仕事があるんだけど」
水尻くんは、笑うしかなかった。
そして彼が最後までどうこき使われたかは、私も怖すぎて知りたくない(笑)
永遠の「最年少」農業従事者
リクルートを退職した後の8年間、彼はフリーランスの広告ディレクターで飯を食った。
結婚もして(仲人は江原和人さん)、3人の子宝にも恵まれた。
長男さんは現在33歳になったが、ある障がいを持って生まれてきたことが、水尻くんを「農福連携」というライフワークへと向かわせることとなる。
みなさんご存知ではあるだろうが、農福連携とは、障がい者等が農業分野で活躍することを通じて、自信や生きがいを持って彼ら彼女らが社会参画していくことを実現しようとする取組のことである。
農福連携においては、障がい者等の就労や生きがいづくりの場を生み出すという側面がもちろん最も重要だが、担い手不足や高齢化が進む農業分野において、新たな働き手の確保につながる可能性があるという側面も大いに評価されるべきだろう。
しかし、どちらも、私などの素人が机に座って口で言うほど簡単なことではない。
しかも水尻くんが「農福連携」という大テーマを抱えて余市の農場に帰ったとき、年齢的には50歳が目前に迫っていたのである。
久しぶりに故郷に帰ってきた水尻くんを、地域の農業従事者の皆さんは、それは温かく迎えてくれたという。
アラフィフだが、ダントツの最年少。
みてくれも中身も十分おっさんだが、長年待ち侘びた、初めての「新人」なのである。
さぞや可愛がってくれたことだろう。
水尻くんを手放しで迎え入れてくれた与市の人たちは、もちろん今もかけがえのない仲間であり続けてくれる、そのことになんら変わりはない。
新人が10年も経てば、普通なら「中堅」という立場になる。しかし、ほぼ15年経っても、水尻くんは、今なおペーペー。ダントツの最年少のままなのである。
過疎にしても、担い手不足や高齢化が進む農業分野も。
いま水尻くんが体験しているような、「新人が入ってこない」現実は、日本各地で起こっている。
水尻くんがまいた「農福連係」のタネ、育てた苗よ育て!
水尻くんが農場に帰ってきた時、お父様は、いろいろひどい目にあった「りんご」はもうやめていて、ぶどうと米を作っていた。
水尻くんが帰ってきて安心されたのか、長年の無理がたたったのか。
しばらくしてお父様は体調を崩され、お母様まで体調を悪くされ、そして二人とも4年前に相次いで他界されたという。
水尻くんはしばらくの間は米づくりにも取り組んだが、今は、お父様直伝のブドウと、自ら「カゴメ」との取引を開拓して「農福連係」をカタチにして10年になる「完熟トマト」を柱にして、他にシソ、カボチャ、ナシを少し作っている。



何せ広い農地、すべてを一人で担うのは到底無理である。
33歳になる長男さんは、施設に所属しながら「施設外支援」という制度を利用して、水尻くんの畑でも毎日働いている。農繁期には、札幌から奥さんも駆けつける。
カゴメトマトジュースの最高峰は、水尻農園から
その家族の絆も素晴らしいが、何が素晴らしいかといって、水尻くんの農場でつくる「完熟トマト」は、カゴメ史上もっとも高価(高級品)のブランド「北海道 与市 トマトジュース ◎水尻農園産」に欠かせない唯一無二の原材料なのである。

「さやか」と言う品種だが、世界広しといえどもここだけでしか作れない品質に10年かけて磨き上げた。そして、与市の事業所と倶知安の事業所から、所属している障がい者たちが年間のべ100人ぐらいで収穫する。完熟したトマトだけを一つひとつ、丁寧に手で摘むのであるが、これはあの「カゴメ」との絶対的取引条件になっているのだ。
というのはこのトマト、デリケートで非常に割れやすい。
機械採りをしようものなら、青いのも含めて全部とってしまうし、割れてしまうものも多い。それらは「カゴメ最高級ブランド」の原料にはできないので、捨ててしまうことになる。
「歩留」が悪くなる、というか、成り立たないのである。
完熟になったそのタイミングで、それだけを一つ、ひとつ、優しく摘み取った最高の「さやか」だけが使われたカゴメの最高傑作「北海道 与市 トマトジュース ◎水尻農園産」。
こんな美味いトマトジュース、他にない。

カゴメのトマトジュースの最高峰としての商品名は、「北海道 与市 トマトジュース ◎水尻農園産」である。カゴメという超一流メーカーにして、この長い名称の、どの単語も省いたり短縮しないことが、「この商品は水尻農園でしかつくれない」ということを消費者に明確に伝えているのである。
割れやすいデリケートな最高品種を、完熟タイミングで一つひとつ手摘みすることで「最高のブランド」が成り立っていることを、農園の現場で私に教えてくれた。
私は彼が手渡してくれるトマトを頬張りながら、それを聞いた。

そんな水尻くんが、今何らの悩みや課題を抱えていないかというと、そうではない。
大きくは2つある。
一つは、「事業、農地の継承」だ。
彼も63歳。そろそろ「事業、農地の継承」を考え始めて然るべし年齢ではあるだろう。
「できれば、農福連係として、受け継いでもらいたい」
これだけが、彼の希望である。
拙い私のブログでもし興味関心を持たれた方、そのテーマに興味のある友人知人がおられる方は、ぜひ私に連絡いただきたいと思う。
もう一つは、彼が見事に風穴を開けた「農福連係」そのものの継承だ。
彼は信用できる人間だが、それだけに頑固者なのある。「農福連係」のコーディネーターは裏方なので体力の続く限りはお手伝いするつもりがあるようなのだが、せっかく大手専門学校で教壇に立ったり、大学から講師の依頼があるにも関わらず、「60歳過ぎたらやめる」と決めた通り、教育の世界からは引退してしまったようなのだ。
あまりにも勿体無い。
みなさん、そうは思わないだろうか?