
天守の築造年代が文禄2~3(1593~4)年と考えられている松本城は、日本に現存する十二天守のうち、5層6階の天守を持つ最古の城であり、姫路城、彦根城、犬山城、松江城とともに国宝に指定されている。ちなみに、現存12天守の中でも、5層の天守を持つ城は、松本城と姫路城しかない。

松本城は、1929年(昭和4年)に制定された「国宝保存法」によって敷地全体が1936年(昭和11年)に国宝指定され、その後、新たに制定された「文化財保護法」によって1952年(昭和27年)には天守、乾子天守、渡櫓、辰巳附櫓(たつみつけやぐら)、月見櫓の5棟が国宝に指定されている。

松本城と桜
四季折々で様々な景色を楽しめる「松本城」では、春になると約300本の桜が咲き誇る。


桜の種類は、ソメイヨシノ、ヤエザクラ、ヒガンザクラ、シダレザクラの4種類。本丸庭園、松本城公園、総堀などでそれぞれの桜を楽しむことができる。
壮観は「駒つなぎの桜」とよばれるシダレザクラ。
庭園内の北側にあり、背景にそびえ立つ天守とあわせて撮影ができる絶好のロケーションとして大人気のスポットとなっている。
また、桜の開花宣言の3日後からライトアップイベント「桜並木 光の回廊」や「夜桜会」が開催され、松本城のライトアップと併せて煌びやかな夜桜を楽しめる。

松本城の歴史
松本城は、1504年(永正元年)信濃守護・小笠原貞朝が、一族の家臣・島立貞永に命じて築城させた深志城がその始まりとされており、520年以上もの歴史を刻む古城である。
世が戦乱に向かうと、信濃の守護・小笠原氏は信濃府中と言われた井川にあった館を東山麓の林(今の里山辺)に移し、その家臣らが林城を囲むように支城を構え守りを固めたが、深志城も林城の前面を守るために造られた城だった。
その後、甲斐国で勢力を拡げていた武田信玄が松本平を治める拠点として深志城を選んで信濃支配を目指し、深志城から小笠原長時を追放する。信玄は信濃侵攻の拠点として32年間この城を支配下に置いた。
時は流れ、1582年(天正10年)に織田信長によって武田家が滅ぼされると、織田氏と盟約を結んでいた木曾義昌が深志城の城主となるが、同年、本能寺の変で織田信長が討たれると、信濃の混乱に乗じて上杉景勝の後ろ盾を得た小笠原洞雪が城主となる。
小笠原洞雪の統治は長く続かず、翌月には小笠原長時の嫡子であり、武田信玄に追放されていた小笠原貞慶が、徳川家康や旧臣の支援を受けて深志城を奪還したが、このときに、深志城から松本城へと改名された。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原を侵攻した際、小笠原氏に代わって、移封を命じられた豊臣秀吉の家臣・石川数正が松本城に入城する。そして、1593~1594年(文禄2~3年)の間に、城郭や城下町の整備工事に着手し、それを引き継ぐ形で息子・石川康長が、大天守、乾子天守、渡櫓などを手掛けた。現在、私たちが見る国宝松本城は、この時期に整備された姿である。
江戸時代に入ると、石川康長が城主の座を奪われ、飯田藩主・小笠原秀政が入国。その後、戸田氏をはじめ、松平氏や堀田氏、水野氏など、徳川家と深い関わりを持つ譜代大名たちが城主となり、城郭や城下町を整備。この時代に、新たに辰巳附櫓や月見櫓の2棟が造られている。

松本城の特徴
城壁を覆う壁の上部は白漆喰、下部の下見板は黒漆で塗られている。この白黒の対比が、白い天守が多い日本城の中では珍しく、一説では、豊臣秀吉に忠誠を誓った石川数正が、黒や金を好む豊臣秀吉に忠誠心を示すために漆黒の天守を築いたとも言われている。
松本城の外観は一見5層で、上へ向かうにつれ、建物が細くなる層塔型のような造りとなっている。しかし、建物の内部には屋根裏部屋のような中3階が存在するため、実際には6層で構成されている。これは「望楼型」とよばれる構造で、外観は層塔型でありながら実際は望楼型という造りも松本城の大きな特徴となっている。
また、松本城は、「連結複合式」の天守を持つ城でもある。戦国時代末期に造られた大天守、乾子天守は渡櫓で連結され、後の江戸時代初期には、新たに辰巳附櫓と月見櫓を複合させた、他に類を見ない構造となっている。
戦国時代に造られた3棟は、常に戦を想定していることから鉄砲や弓矢を放つための鉄砲狭間や弓狭間が115ヵ所も設置されている。さらに1階には敵を標的とした石落(いしおとし)が11ヵ所もあり、その上、天守の壁は約29cmと分厚く、内堀幅は約60mと火縄銃の高い命中精度が維持できるよう、鉄砲戦に対する万全の備えを持っている。
一方、江戸時代初期に造られた2棟には、戦の備えはほとんどない。朱漆が塗られた回縁や船底の形をした天井など、優雅さを醸し出す建造物は、この時代が泰平の世であったことが窺える。
このように、異なる時代の天守や櫓が複合された城は、日本全国見渡してもこの松本城だけである。
松本城のみどころ

現存12天守の多くが平山城であることに対し、松本城は平城だ。
天守を囲むように堀が巡っており、日本アルプスの山々を背景として、漆黒の天守を水面に映す姿は実に美しく、私もこの「構図」が大好きである。
黒門(くろもん)

「黒門」は本丸へ続く重要な門。最高色調の黒を使っていることから、黒門と呼ばれている。
一の門には歴代城主の家紋が付いた軒丸瓦(のきまるがわら)が見られるが、これは、天守解体修理のときに保存しておいた瓦を再利用したためだ。
さらに内堀を渡ったところに二の門(高麗門)がある。1989年(平成元年)には、この門に続く控塀(ひかえべい)と枡形を復元。控塀には狭間があり、対岸の敵を弓矢や火縄銃で攻撃できるようになっている。
太鼓門(たいこもん)

二の丸御殿の入り口にある「太鼓門」は、1595年(文禄4年)に築かれた門だ。北側門台上に、登城や火急の合図などの役割を果たす太鼓楼があったことから、太鼓門と呼ばれるようになった。
また、太鼓門のすぐ横にある総量約22.5tの巨石は、松本城を築城した石川玄蕃守康長が運ばせたことにちなんで、「玄蕃石」(げんばいし)と呼ばれている。
大天守

巨大な天守はなんと1,000トンの重さがある。柔らかい地盤の上に建てられたため、土台となる石垣内部には直径約39cm、長さ約5mの栂(つが)の丸太が16本、まるで碁盤の目のように埋め込まれている。
その上にそびえ立つ大天守は、5層6階。城壁の上部が白漆喰、下部が黒漆塗りと当時の城郭では珍しい仕上げになっている。
また、松本城の天守内部は、天井が低いことが特徴。建物内で抜刀ができないように工夫されたと考えられている。
乾子天守

大天守と渡櫓で連結されている乾子天守は、戦国時代に築城されている。大天守は角柱のみで構成されているが、乾子天守は角柱の他に丸太柱が使用されている。1階中央にある菅柱をはじめ、2階側柱はすべて築城当時のもので、ゆうに400年以上経っている。
大天守と同じく、乾子天守も望楼型の構造のため、外観は3層に見えるが、内部は4階の造りである。4階にある火灯窓(かとうまど)は、火を嫌うことから花頭窓とも呼ばれ、天守建築では格式の高い窓とされている。
辰巳附櫓

戦国時代から約40年。泰平の世となった江戸時代初期に新たに築城された。戦の備えはほとんどなく、石落を設置する場所は板敷きになっている。
大天守の隣に増築された辰巳附櫓は、天守に月見櫓を付けるための役割を持っていた。なお、辰巳附櫓の窓にも、乾子天守と同様、格式の高い花頭窓が付けられている。
月見櫓

1633年(寛永10年)松平氏により増築された月見櫓にも、戦の備えはほとんどない。
柱と舞良戸(まいらど)と呼ばれる桟(さん)を打った薄い引き戸だけの櫓で、月見の際には、この舞良戸を外し、月を眺められるよう設計されている。
月見櫓の三方は朱色漆で塗られた回縁が巡り、非常に風情がある。また船底の形をした天井には、柿渋が塗られ、優雅な雰囲気を感じられる。
石落と石垣

最寄りは道の駅「アルプス安曇野ほりがねの里」
松本城へのアクセスは、長野自動車道の安曇野ICから県道57号線を西に5km、 長野県西部の旧堀金村(現安曇野市堀金)にある「道の駅 アルプス安曇野ほりがねの里」からが便利だ。
道の駅は北アルプス常念岳の麓に位置しているため、美しい景観を見ることができるのも魅力。
私は、未明にこの道の駅で仮眠させていただいたが、目が覚めると写真のように素晴らしい景色が駐車場の周りに広がっていて驚いた。





トイレ、洗面、そして目覚めのコーヒーも最高


駐車場はとても広い。仮眠のための平な場所を探すのも容易だった。


トイレはとても綺麗で、気持ちよく使わせていただいた。

洗面所も文句なし。気持ちよく洗顔させていただいた。


自動販売機コーナー前のベンチで、朝のコーヒー。周りの景色が美しいので、缶コーヒーの味も一段と美味しく感じた。
ところで、安曇野と言えば長野県を代表する観光地の一つである。 その安曇野にある本駅だから観光客が多いだろうと思われがちだが、実は地元客の割合がとても多いそうだ。 実はこの道の駅、農林水産省が選定する地産地消優良表彰を受賞している。
どうやら地元の方にとって、スーパーマーケットのような存在になっているようだ。

新鮮な農作物が大人気
地元の人の利用が多いと言うことは、普段使いの野菜類のコスパがとても良いという証拠だ。
だからといって観光客にとって魅力に乏しい道の駅かと言うとそんなことはなく、「安曇野ヨーグルト」「安曇野牛乳」「おろし生わさび」「信州そば」「りんごジュース」「そば焼酎」など、安曇野ならではの商品も多数あり、我々観光客にも十分に満足のいく道の駅だと思った。