
鮫ヶ尾城は、上杉謙信の急死後の後継者争いで勃発した「御館の乱」の際に、敗れた上杉景虎が自害して果てた城として知られている。
この城は、川中島合戦を通して北信濃に勢力を拡大してきた武田信玄の動きに備えた上杉方の拠点山城の一つであったが、意外にも「鮫ヶ尾城」の名は上杉謙信死後に勃発した家督争いである御館の乱にて上杉景虎の書状内においてのみ、記録にあらわれる。
それによれば、城将は堀江宗親という卑劣な人物だった。
御館の乱で上杉景勝と争った上杉三郎景虎は、北条氏康の7男とされるが、居城であった御舘が落城すると関東への脱出を図って南下。鮫ヶ尾城将・堀江宗親は、景虎を城に迎え入れた。
ところがこの男、安田顕元の誘いによって簡単に寝返り、なんと二の丸に火を放って鮫ヶ尾城から退去してしまったのである。
逃げ場を失い総攻撃を受けた景虎は、妻子ともども自害して果てた。
このとき鮫ヶ尾城も焼き払われて、そのまま廃城となったのだった。

越後国内屈指の山城
鮫ヶ尾城は標高185mの城山に築かれ、遺構が造作された部分で約10万㎡、天険の要害を構成する自然地形まで含めると約22万㎡にも及ぶ越後国内屈指の大規模な山城だった。
尾根の主稜線に大規模な堀切や曲輪が並べられ、中心部を取り囲むように多くの切岸が存在する。

山頂部は眺望に優れ、遠く日本海から信越国境を隔てる関田山脈までを望見することができる。
武田信玄の北信濃への侵攻によって国境付近の軍事的緊張が高まっていたので、防備の強化に鮫ヶ尾城が果たす役割は非常に大きかったはずだ。
これまでの発掘調査によって、鮫ヶ尾城は上杉氏と武田氏の抗争が激化していく16世紀後半に整備拡充されており、天正7年(1579)の御館の乱の戦火によって廃城になって以後は、再び使用されることがなかったことが確かめられている。
我が国の戦国史において特に有名な合戦である川中島合戦や、謙信没後の武田氏・織田氏・北条氏などの隣国大名の勢力図を大きく塗り替えた「御館の乱」に関連する山城跡であり、廃城になった天正7年段階の姿を忠実に留めた貴重な山城跡の一つである。
スケール大きな道の駅「あらい」
「道の駅あらい」は、鮫ヶ尾城址からはたった2キロほど南。
遠方から向かうなら国道18号と上信越自動車道新井PA・スマートICの双方からアクセスできる。

観光案内所と休憩室を備える「くびき野情報館」、地場野菜、米、農産加工品の販売、そば、笹ずしなどを提供する「四季彩館ひだなん」、新鮮な魚介類を扱う鮮魚店、ラーメン店、そば処、すし店、ベーカリーなど、多彩なグルメを楽しめる飲食店や宿泊施設、コンビニ、コインランドリーもあり、まるでひとつの街のようなスケールだ。

駐車場は700代以上止められるという巨大なもの。




とにかくでかい。でも、広けりゃいいってことでもない。
この広さが道の駅としてネックとなることだってあるのだ。

それは、この道の駅の最大のネックだと思われるトイレだ。
切迫した状況でまさに用を足したいのに、「200メートル先」はひどすぎる。
上杉景虎を裏切った堀江宗親クラスの「裏切り」である。
誰が緊急事態に200メートルも走れるものか。
はっきり言って、道の駅の設計者の力量不足だと思う。
これだけ広いのに、休憩できる場所が少ない。道の駅に寄ったがためにかえって疲れた、みたいなことが起こりうる。

四季彩館みょうこう
四季彩館みょうこう内には観光案内所や農産物直売所、レストランがある。
レストラン「魚祭」は糸魚川の漁師さんの店舗で近海で獲れた鮮魚と妙高産の野菜を使用したどんぶりメニューや定食がウリだ。寒い季節には鍋焼きうどんがありがたそう。
向かいに農産物直売所がある。
地元農家の方が手塩にかけて作った野菜や米、漬物が並んでいる。


物産館は、商品を見て回るだけでも大変。







屋外にも施設がある。「芝生広場」だ。
天気の良い日は遠くに妙高山を眺めながら、バーベキューができる。
コンロや流し台の数に限りがあるため事前予約制だが、使用料はなんと無料!道の駅で買った野菜や肉を持ち込んでバーベキューを楽しめる。
西側のエリアには、総合観光案内所から鮮魚センター、ホテル、コンビニ、そして、ラーメン、ピザ、寿司まで選択肢豊富な飲食店の数々が立ち並ぶ。


















鮮魚センターもデカすぎるし、飲食店も多すぎる。どこにしようか迷うばかり。歩いているうちに疲れてきた。









結局、端っこにあるベーカリーショップで、パンを買って車内で食べた(笑)。



