
7月25日のことだった。
そこは投稿された写真を見るだけで、私だけでなく多くの人が行ったこともないような高級料理店?であることがすぐわかるような場所。
「(リクルートの)中に残って一番出世したよなぁって同期」と、「外に出て一番活躍してるよなぁって同期」と、自分たちが「ペーペーで働いていた頃に取締役だった方」を囲んで一献した、その会食について、そこに参加した4人のうちの一人、この方は何やら新規事業の伴走で先生面しているらしいリクルートOBだが、彼からのfacebookへの投稿があった。




「元取締役」以外は、平成の最初に1000人採用でリクルートに入ってきた同期3人。投稿は、彼自身が書いているように、明らかに「自分たちが(今もっとも活躍している)勝者」という意識から生まれる無神経な披瀝だった。
私は猛烈に恥ずかしさを覚えた。
と同時に、歴史や過ちや恩を軽視し、感性が壊れ、自己中心で暴走する人間が上塗りしていく、さらなる過ちを憂いた。
軽薄な歴史認識丸出し
以下は、投稿された原文ママである。
「それぞれに立場のある人ばかり。敢えて名前は伏せて書くので、分かる人は分かると思いますが、名前を当てにいくなんてことのないようにw、ご配慮お願いします。m(_ _)m
リクルートの同期は1,000人いましたが、世間的に見ると、中に残って一番出世したよなぁって同期と、外に出て一番活躍してるよなぁって同期と、僕らがペーペーで働いていた頃に取締役だった方を囲んで一献。
未だ知名度も高くなかった時代に1,000人採るために 当時どんなに大胆な投資をしたかって話、リクルート事件当時に検察からの捜査を受けた時の話、江副さんが株を中内さんに売った時の話、その後の中内さんも参加した役員会の様子、莫大な借金を背負っていた時にいろんな人がリクルートを買いに来たって話、今や収益の柱の一つである大事業を立ち上げ期に撤退やむなしと検討していた時の話、インターネットが出てきて大きく事業転換を図らねばと取り組んだ頃の話・・・
いつか「私の履歴書」に書いて頂きたい。w
初めてお聞きする話も多く、貴重な一夜となりました。
当時我ら同期の三人も、それぞれ事業の現場や新規事業の企画、管理部門にいたわけですが、話していくと それぞれの視界から見えていたものは違うもんだし 限られた視界だったなぁと。
「経営」はそれらを全て俯瞰した上で、腹を決め意思決定をし、行動に移していくわけです。その胆力。改めて感服しました。
当時にこうした方々が役員として居てこそ、自分たちは良い経験を積ませてもらえたし、今のリクルートがあるのだと 改めて感謝。
元取締役の大先輩は、会食後2件目の会合に向かわれました。衰えぬ好奇心と行動力。やっぱ凄いわ。
ほんと良い機会を作ってもらいました。大感謝。m(_ _)m」
2014年10月のこと
今から11年前の2014年10月のことである。
同年最大の新規株式公開(IPO)として東京証券取引所1部に上場したリクルートホールディングスの時価総額が、上場2日目に2兆円を超えた。
このとき私の脳裏に浮かんだのは、14年前はリクルート株の35%を保有し筆頭株主だったダイエー・中内功さんの、ありし日のお顔だった。

中内さんのリクルート株は、1992年に、中内さんが潰れそうになったリクルートの江副浩正氏を助ける形で取得していたものだった。
中内さんが江副さんを助けなければ、リクルートという会社は、跡形もなく無くなっていたのである。
単純比較はできないが、株式35%分のリクルート上場直後の価値は7700億円余りにもなり、経営再建に向け四苦八苦していた当時の中内さんにとっては負債圧縮の大きな原資になり得ただろうからだ。
しかし、これより前、2000年代はじめはダイエーだけでなく、セゾングループ、マイカル、そごう、長崎屋など、バブル期前後に膨らんだ過大な債務にあえぐ流通企業が再建に向けて主取引銀行に負債圧縮を求められていた時期に、中内さんは35%のうち25%を、たった1000億円で(リクルートグループに)売却してしまっていた。
1992年に、リクルートは終わっていた
中内さん率いるダイエーは当時、2兆9000億円に達したグループ有利子負債を2001年度末までの3カ年で1兆円削減する再建計画の実行を迫られていた。
資産売却の圧力を強める主取引行に促される形で、1999年以降は米ハワイのショッピングセンター(970億円超)や持ち帰り弁当チェーンのほっかほっか亭(80億円超)、00年に上場を控えるローソン株の約20%(約1700億円)などの売却を次々と決めていた(ローソン株は06年2月末までにすべて売却)。
そして2000年1月。
ダイエーはグループで保有する発行済み株式の35%のうち、25%をリクルートグループに1000億円で売却することを決めた。
残る10%分の保有は続け、中内功ダイエー会長(当時)が兼務するリクルート会長にとどまるという条件だった。
自身が創業したダイエーを追われた中内功
当時の35%分の株式は換算すると1400億円だった。
現在の価値はその5倍以上で、実に6300億円もの開きがある。
リクルートの企業価値の拡大は、ダイエーの関与がなくなった後に独自の企業努力を続けてきたからにしても、有利子負債圧縮のために保有資産の切り売りを進めていた当時のダイエー経営陣にしてみればさぞ複雑な心境だろう。てか、そもそもが。1000人採用などという無謀のツケでたちまち倒産危機に直面し、92年に中内さんに助けていただかなければ、独自の企業努力もクソもなかったわけで。
10%分の保有を盾に一時的にリクルートの会長職にとどまった中内さんだったが、株売却の1年後には自ら創業したダイエーを追われることになる。

中内さんは2001年1月末に開かれた臨時株主総会後の記者会見で「ファウンダー(創業者)、株主、消費者の視点から見守る」と述べ、43年にわたり実権を握ってきた経営の第一線から退くと表明した。
ダイエーを筆頭とする、戦後の流通業界の一つの時代の終焉だった。
無一文になった中内さんは、2005年9月19日、死んだ。
リクルートを助けたダイエーの上場廃止
中内さんがこの世を去ってちょうど9年。
奇しくもリクルート上場の1カ月前、2014年9月のことだった。
今やダイエーの筆頭株主になっているイオンはダイエーを完全子会社にすると発表し、18年度をめどに「ダイエー」の店名をなくす方針を打ち出した。
かくしてダイエーは、2014年12月26日、上場廃止となった。
そして、ダイエーの臨時株主総会が2015年1月に開かれてイオンの完全子会社になることを可決したが、もちろんこの方針を受けて従わざるを得なかった、形式的なものだった。
感性が壊れ、自分本位でしかなくなった人間の未来
再建を信じ奔走していたかつてのダイエー経営陣と社員は、どのような思いでリクルート上場をみていたのだろうか。
そして、無一文になり、死んでいった中内さんにとって、リクルートっていったい、なんだったのだろうか。
中内さんの「恩」をすっかり忘れ、高級料理屋に集まって、人生の勝利者気取りで上っ面の思い出話しかできない奴らを、私はリクルートのOBとして、また一人の人間として、本当に恥ずかしく思う。
中内さんの恩を忘れるような、こういう奴らは、おそらくは原爆投下から80年、今日の原爆の日にも何も思わないのだろう。