
「毛利次郎の乱」は、文明11年(1479)と長享元年(1487)7月の2度にわたって、因幡の国人・毛利貞元(次郎)が守護山名氏に対して起こした反乱である。
室町時代の守護大名に対する国人(在地領主)の反乱は、主に守護大名の支配力が弱まった地域で発生したが、「毛利次郎の乱」もその一つである。
反乱を起こした毛利貞元は、戦国時代に謀略の限りを尽くして中国地方を平定した毛利元就の父である毛利興元の弟、つまり元就の叔父にあたる。
私は人を騙すことと、家を守ることしか考えなかった毛利元就が大嫌いで、頭が禿げ始めてからは「毛利」と言う毛がふさふさのような名前にすら嫌悪感を持つようになった大の「毛利嫌い」。
それ以上に嫌いなのが、のちに私の大好きな山中鹿介を裏切って、鹿介の念願だった尼子氏最高を失敗させた山名豊国、豊国憎けりゃ先祖まで憎いと言うわけで、山名氏はさらに嫌いなのである。
つまり、私的にはこの毛利次郎の乱は、いわば「アンチの祖先」同士の戦い。
できればどちらも相打ちで果てて滅び、ついでに毛利元就や山名豊国ら、両氏の子孫たちも絶えて欲しかった。
第一次毛利次郎の乱
毛利貞元の挙兵は文明11年(1479)春とされる。
反乱に対して惣領の山名政豊は、同年7月末に因幡守護山名豊時を、美作には山名政清を派遣して鎮圧に当たらせた。9月には山名次郎・七郎兄弟を加勢させたが、戦況は反守護連合の優勢で推移し、9月10日には思うように進まない鎮圧に惣領である政豊自身も重い腰を上げて但馬へ下向したが、因幡国内の政豊知行分が押さえられてしまっている状態まで事態は悪化していた。
1年以上も抵抗した反守護連合だったが、惣領家の大軍勢にはやはり立ち向かえず、反乱は翌12年(1480)春には鎮圧された。
鎮圧後、反乱した毛利貞元は身分が幸いしてか、なぜか厳罰に処せられなかった。そしてなんと、反乱を裏で支援をしていたとされる伊勢貞宗に、守護方の山名豊時が接近していたと言うきな臭いことが確認されている。事実、その翌年の7月、11月に伊勢貞宗邸で催された犬追物には、山名豊時と毛利貞元が共に参加し、11月の犬追物では両者が競い合うなど、三者の仲睦まじい光景がみられたという。
まさに自分のためにはなんでもする人間のドロドロした思惑が垣間見えて気持ち悪い。
第二次毛利次郎の乱とその後
毛利貞元が正式に赦免されたのは長享元年(1487)の12月28日だった。それに先立つ同年7月に、因幡の「国中乱逆」が伝えられているが、この時期から貞元が挙兵していたのかどうかは定かではない。
毛利貞元・矢部定利らの国人衆は、今度は新守護山名政実を擁立。再び反守護連合を構築して挙兵した。これに対し、山名豊時は単独で応戦して不利ではあったが、幸いにして他の国人衆は政実を支持せず、前回よりも反守護連合は拡大しなかった。
戦況は山名豊時の優勢で推移し、9月の徳丸河原合戦では、矢部氏一族と北川氏の離反によって、反守護連合は敗退。11月、毛利貞元は自刃した。
山名氏は2度の反乱を鎮圧したものの、国人勢力を完全に抑えこんだ訳ではなかった。
事実、毛利・矢部氏らの勢力はこの後も温存されたどころか、むしろ一連の争いで自信を付け、後に但馬山名氏による支配にも正面切って抵抗している。
戦国の世となってからの山名氏は、新興勢力である毛利元就とも手を結び、あるいは自分都合で対立し、因幡国人および因幡守護家を支援して勢力を拡大しようとする出雲尼子氏ら周辺諸国と抗争を続けたが、南因幡は政情不安定のままで推移し、やがて山名氏は衰退の一途を辿ることになる。
山中鹿介を裏切って尼子氏再興を挫折させた最低男
私のヒーロー山中鹿介を裏切ったことが許せない山名豊国の時代には、かつて六分一殿とまで呼ばれた山名家の勢力は、但馬一国と因幡の一部を辛うじて維持するのも難しい状態に落ち込んでいた。
豊国は因幡山名家の当主である兄豊数と共に、毛利家の支援を受けた客将の武田高信の謀反によって、国を追われていた。1573年には、尼子(あまご)旧臣の山中鹿之助(幸盛)たちの助力を借りて、鳥取城の奪取に成功し、追われた身から城主に復活させてもらったにも関わらず、毛利家の調略に応じて寝返り、尼子再興軍を窮地に追いやったのだ。
かくも卑劣な豊国は、その後もどれだけ卑劣な小物だったか。
1578年ごろになると、表面上は毛利家に従属しつつも、播磨方面で勢力を拡大しつつあった織田信長と通じるようになる。織田家の中国攻略が本格化し、第一次鳥取城攻めにおいて和議に持ち込んで命拾いした豊国は、その後、織田家の圧力が弱まると再び毛利家に従うが、織田家寄りと見られていた豊国は城主の座を奪われ、代わりに毛利家重臣の吉川経家が迎え入れられた。そして再び織田家による中国攻略が再度本格化すると、豊国は城主、すなわち主君である吉川経家の切腹を条件に解放され、毛利側を支持する家臣たちとなんと袂を分かって単身で秀吉の元に赴き、降伏して自分だけ助かっているのだ。
武将である前に、最低な男であり、最低な人間である。
フルーツの道の駅

2度にわたる乱があった八頭町だが、道の駅「はっとう」は、鳥取自動車道(無料区間)の河原ICから国道29号線を東に14km、鳥取県東部の旧八東町(現八頭町)にある。
駐車場は、フルーツの旬はまだまだこれからということで、とても空いていた。


トイレは、ごく普通、清掃していただいてありがたく利用させていただいた。



休憩環境としては、可もなく不可も無く、こんな感じでいいのではないかと思う。



さて 駅名の「はっとう」について。
「はっとう」と言う道の駅の名は、旧町名の八東町(はっとうちょう)から名付けたもので、現町名の「八頭町」も「はっとう」と読めないことはないが、こちらは「やず」と読む。
道の駅に詳しい人ほど、道の駅「はっとう」のせいで八頭町を「はっとうちょう」と誤読するようだが、道の駅命名時には、毛利次郎の乱とまではいかなくても新旧の町が真っ二つに割れて相当揉めたのではないだろうか(笑)。
さて、冒頭から揉め事の話ばかりだが、この道の駅は別名「八東フルーツ総合センター」と呼ばれる、フルーツまみれの道の駅である。
梨、ぶどう、林檎、柿をはじめ、約9割の果物の旬はまさにこれから。
8月~11月までの4ヵ月間に、八東町の食べごろフルーツとして販売される。
梨は20種類、林檎は7種類




果物はまだこれからが旬で、今は西瓜をはじめ野菜もたくさん販売されている道の駅の売店だが、この道の駅を代表する商品はといえば、なんといっても「梨」だろう。
「二十世紀」「豊水」「幸水」「新興」などのお馴染みの品種や、「新水」「真寿」「新甘泉」「秋麗」「秋栄」などあまり聞きなれない品種まで、合わせて20種類の梨が販売されている。
林檎もすごい。「王林」「ふじ」「つがる」「ジョナゴールド」「秋映」など7種類、柿は「西条」「太秋」「花御所」の3種類、ぶどうは「巨峰」「ピオーネ」の2種類が販売される。
果物を使った手作りジャムも道の駅「はっとう」の人気商品で、特に「りんごジャム」は市販品とは「別物」、というか比べるべくもない別格の存在だ。

レストランでは日替わり定食、うどんなど
本駅の「食」の施設は物産館横の駐車場から階段を上ったところにある食事処「たけや」だ。

私が行ったときはあいにく定休日だったが、ロースカツ定食、鶏の唐揚げ定食、魚定食、日替わり定食、うどん等が提供されているようだ。