織田信長の部下でよきライバルだった二人が敵として戦った「末森城」へ。道の駅「高松」へ(トイレ◎仮眠△休憩◎景観○食事○設備○立地◎) 

織田信長の側近で豊臣秀吉の五大老の1人として政権を運営し、加賀百万石を築いた前田利家。

そんな利家はうまく出世したが、一世一代の危機に陥った戦いは一度だけ、天正12年(1584年)9月9日に起こった「末森城の戦い」だろう。
かつて一緒に織田信長のもとで働いたライバル佐々成政が前田家にとって重要な拠点だった能登国(現在の石川県)の末森城を奇襲。

末森城は落城寸前となる。

この奇襲は「小牧・長久手の戦い」の裏側で起きたため、前田利家はすっかり後手に回った。
それでもなお軍費の金勘定をするドケチな利家に呆れ果てた妻「まつ」は、利家を一喝した。

果たして利家は巻き返せたのか?

末森城の戦いは前田利家V.S.佐々成政

実は、前田利家と奇襲をかけた佐々成政は年齢が近く、もともと織田家の家臣で、つまり同僚だった。

信長は馬廻衆や小姓などのなかから直属の精鋭部隊「母衣衆(ほろしゅう)」のメンバーを選んでいた。母衣というのは、戦の最中に矢や投石などから身を守るため兜や鎧の後ろにつけたマントのような幅広の布で、戦国時代にはクジラの髭などの骨組みをつけて風船のように張ることとで防御力がアップし、戦場でとても目立った。

母衣を身につけられるのはエリートだけだったが、信長の母衣衆は「赤母衣衆」と「黒母衣衆」に分かれており、このうち赤母衣衆の筆頭が利家、黒母衣衆の筆頭が成政だった。

二人は絵に描いたようなライバル関係にあったのだ。

ターニングポイントは「賤ヶ岳の戦い」

天正10年(1582年)6月の「本能寺の変」で織田信長が亡くなった後、後継者をだれにするのかを巡って、清洲会議が開かれ、豊臣秀吉と柴田勝家が争った。

利家・成政ともに勝家側について秀吉と対立したが、同年12月に勝家と秀吉が戦った「賤ヶ岳の戦い」で利家と成政の立ち位置は一変する。

引き続き勝家側についていた成政に対し、利家は戦場で勝家を裏切った。

利家は当初、勝家軍として戦の最前線で後方の援護を任されていたが、戦の最中に突如勝手に撤退して戦線を離脱。これにより勝家軍は崩れ、その結果秀吉軍に敗退してしまう。

勝家を裏切って秀吉側についた利家は、戦後に秀吉から能登国(石川県北部)を安堵されるとともに、新たに加賀国(石川県南部)の2郡を得た。

一方、成政は実は「賤ヶ岳の戦い」に直接参戦していなかった。越後国(新潟県)の上杉景勝の侵攻に耐え、富山城に詰めていたからだ。しかし最後まで勝家側であった成政は戦後不本意ながら秀吉に臣従を余儀なくされた。成政は娘を秀吉に人質に差し出すとともに自身は剃髪して降伏するという苦渋の決断をし、なんとか越中国(富山県)を安堵された。

「小牧・長久手の戦い」の裏で起こった「末森城の戦い」

利家はその後も秀吉のもとで出世街道を驀進。一方の成政は後継者争いで秀吉と冷戦を繰り広げていた徳川家康・織田信雄に接近し、反秀吉の姿勢を強めていく。

豊臣秀吉と徳川家康・織田信勝の関係が徐々に悪化するなか、ついに天正12年(1584年)3月、約9ヶ月にもわたって続く「小牧・長久手の戦い」が始まり、両陣営は激突した。

小牧・長久手の戦いの中心地は尾張国(愛知県)北部だが、連動して北陸や関東、四国で戦いが発生。このうち北陸の戦いが、前田利家と佐々成政が関わった「末森城の戦い」だった。

小牧・長久手の戦いの当初は、利家・成政ともに秀吉軍側であったが、謀反の機をうかがっていた成政は途中で家康軍側に呼応して秀吉と敵対。

このため、北陸では秀吉方の利家と、家康方の成政が争う構図となったのである。

「朝日山城の戦い」から「末森城の戦い」へ

隣国の佐々成政と敵対関係となった利家は、自らの加賀国と成政の越中国の国境の街道に「朝日山城」などの山城を築城したり改修したりして、警戒を強めた。

先に動いたのは成政だった。

8月、部下の佐々平左衛門、前野小兵衛らに築城中の朝日山城を攻撃させた。これが「朝日山城の戦い」で、成政軍が一時城を占拠するところまでいったが、利家が出した援軍が城を奪還。利家軍はそのまま突き進み、成政方の松根城を攻略した。

9月9日、佐々成政は突然1万5000の大軍を率いて末森城攻めに向かって出発。坪山砦に本陣を置いて末森城を包囲し、翌10日から攻撃を開始した。

これに対し、末森城を守る前田家の重臣たち千数百人の兵は城に籠城して抵抗。成政軍の猛攻に二の丸や三の丸は落とされたが、本丸だけは何とか踏みとどまっていた。

妻「まつ」にケツを叩かれて前田利家が反撃

利家はご存じケチな男だったが、妻まつは、利家を一喝。

「ためたお金を使うのは今でしょ!」
目を覚ました利家は、急ぎ援軍を出した。

利家軍は末森城に行く途中で津幡城に入城し、息子の前田利長軍と合流して城内で軍議を開き、周辺の住民から成政軍の布陣の様子を聞き取り調査して現状を把握した。

すると北川尻に成政軍が4000の兵を置いて利家を待ち伏せしていることが分かり、成政軍の背後に近づくことができる海岸沿いの裏道に進軍ルートを変更。

雨の中海岸沿いを北上して成政軍の背後をつき、9月11日の夜明けに奇襲をかけた。

突然の奇襲に対応できない成政軍に対し、末森城で籠城中の兵も援軍に力を得て城内から攻撃をしかける。結局成政は末森城を諦め、越中に退却して末森城の戦いは終了した。

「小牧・長久手の戦い」終結後粘った佐々成政

末森城の戦いが終わってからも前田利家と佐々成政の争いは続いたが、そんな中、天正12年(1584年)11月、小牧・長久手の戦いには終止符が打たれた。

織田信雄が勝手に豊臣秀吉と和議を結んだのだ。

戦う理由がなくなった徳川家康も停戦せざるを得ない。

しかし、これに大いに不満を抱いた成政は12月、急遽家康のいる三河国(静岡県)の浜松に向かい極寒の北アルプスを決死の思いで踏破したが、家康は戦の再開を拒否。

そもそも主君だった織田信長の次男、織田信雄の味方をするという大義名分が消えた家康が再挙しても何の得もないわけで。このあと家康は秀吉と和睦を結んだが、当然の判断だろう。

それでも諦めきれない成政は信雄や滝川一益などに働きかけたが賛同を得ることはできず、砂を噛む思いで越中に帰国した。

その後の佐々成政と前田利家

越中に帰った成政を、今度は利家が上杉景勝の協力を得ながら攻撃。成政はしばらく守りに徹していたが、天正13年(1585年)8月、ついに豊臣秀吉が動く。

小牧・長久手の戦い後も反秀吉の姿勢を貫く成政を討伐するため、富山城を攻めたのだ。

秀吉は成政がいる富山城を約10万の大軍で取り囲む。

かなわないと思ったのか、成政は織田信雄の仲介をうけて秀吉に降伏。秀吉に新川郡以外の領土を没収された。

「富山の役」と呼ばれるこの戦いには、もちろん利家も秀吉軍として参加。1万の兵を率い、本隊が来る前に先発隊として成政軍と戦っている。

その後の成政は秀吉配下の将として過ごすが、天正15年(1587年)の九州征伐で活躍したことから肥後国(熊本県)をまかされることになり、ようやく表舞台に戻ってきた成政だったが、肥後では国人一揆に苦しめられた。

結局これを収めきれなかった咎で秀吉から切腹を命じられ、天正16年(1588年)7月、尼崎で切腹して果てた。

一方の利家は、富山の役での戦功で息子の前田利長が越中国4郡のうち3郡を任された上に、越前国を治めていた丹羽長秀の死による国替えで越前国も治めることになり、「加賀百万石」の大大名となっていったのであった。

利家はその後も九州征伐や小田原征伐などで活躍し、秀吉の天下取りを支え、最終的には秀吉の元、五大老にまで出世した。

秀吉亡き後は跡継ぎの豊臣秀頼の後見役として分裂する豊臣家中を何とか取りまとめようと尽力したがその途中、病に倒れる。そして秀吉没の8ヶ月後、永遠のライバル佐々成政が切腹して11年後。

利家もまた大阪の自宅で病没した。

道の駅「高松」

前田利家と佐々成政が激しく戦った末森城から南南西方面に8km。
道の駅「高松」は、石川県を北から南に縦断する「のと里山海道」沿いに唯一ある道の駅として存在感を放っている。

のと里山海道は元々は能登有料道路と呼ばれ、有料道路沿いの道の駅として駅のすぐそばの高松海水浴場目当ての海水浴客に大変重宝される道の駅だった。

その能登有料道路が2013年4月に無料開放されると、道の駅「高松」は一層アクセスしやすい道の駅となって人気を博したが、2024年1月1日の大地震で、のと里山海道はズタズタに寸断されてしまう。

まだ北方面を中心にまだまだ復旧していない「のと里山海道」だが、南方方面から道の駅「高松」に行くことは問題なくなっている。

上り線と下り線で差別化

道の駅の施設は、上り線側(山側)の「里山館」、下り線側(海側)の「里海館」に分かれてある。

どちらも運営会社は同じらしいが、上り線と下り線ではかなり様子が違う。 里山館と里海館は徒歩で行き来が可能なので、両方の施設に行ってみるのもいいだろう。

販売されている商品もかなり違うのである。

まず、上り線側の里山館の駐車場はこんな感じ。

駐車場もトイレについては「違い」をつくる必要もないのだろう、どちらも使いやすいし、綺麗である。

休憩環境としては、かなり違う。山側の里山館は館内での休憩場所が充実している。

一番の違いは、扱っている商品だ。
里山館ではかほく市の特産品が多数を占める。
かほく市推奨品の「かほっくりケーキ」や「かほっくり饅頭」、 能登牛を用いた「能登牛ぶっかけ生姜」「能登牛ニンニク肉味噌」「能登牛ビーフジャーキー」等が販売され、人気を集めている。石川県の名物、「いしる煎餅」も里山館で販売されていた。

一方、里海館は、より海に近い。

少し歩くと、砂浜があって、海がある。

駐車場からも海が見える。

休憩環境としては、足湯がイチオシ。

そして、少し歩けば砂浜、海に出ることができる。

里海館では、あんころ餅の「加賀福」、地産のイチジク入りパイの「いちじくの里」、本物の金箔入りの「加賀百万石金箔カステラ」、 京菓子の「すはま」等、加賀地方全般の特産品を扱っている。

レストランでもメニューが違う

レストランも里山館、里海館の両方にあるのだが、メニューはかなり違う。

里山館の人気メニューは「かほくコロッケ」を用いた「かほくコロッケ定食」。 コロッケの単品も美味しい。

里海館では能登豚とエビフライが入った「高松カレー」、能登豚の素焼きが美味しい「里海定食」が人気だ。