
多田(中萱)加助という人物をご存知だろうか?
水野忠直が松本藩主を務めていた頃の、地元の庄屋である。
貞享元年(1684)、凶作が続いて、農民の生活は困窮をきわめていた。
農民の悲願を受けた庄屋の加助は年貢の軽減を長尾組の組手代に申し出るが受け入れられず、松本藩に直接陳情した。この行動を問題視された加助は、庄屋の身分を取り上げられた。
その2年後の貞享3年(1686)、今度は凶作の上に疫病が同時に民を襲い、多数の餓死者、病死者が出始めた。
加助は、神社の拝殿で12人の密議のうえ、年貢軽減の「5カ条の訴状」を松本城下郡奉行に提出。松本平の農民1万人も、竹槍をもって城に押し寄せるという騒ぎになった。
この松本に起こった百姓一揆は「貞享騒動」と呼ばれるが、願いはいったん聞き入れられたものの、1カ月後にはなかったものとされ、この騒動を指揮した罪で加助とその同志、一族ら28人は幼い娘まで含めて「勢高」と「出川」の2つの刑場で磔、打ち首の刑に処されることとなってしまう。

「二斗五升だ!」と絶叫しながら絶命
捕らえられた加助ら一行は、上土の牢屋を目指して犀川の岸にある「熊倉の渡し」に連れて行かれる。そこまでの護送ルートは今となっては知る由もないが、当時その様子を処刑される人たちの家族、農民たちはどんな思いで見送っただろうか。
当時松本藩には農民たちに同情し、義民救済のため奔走した役人もいた。
その一人が「鈴木伊織」である。
水野家の重臣であった鈴木伊織は、江戸に向かい、将軍家からの赦免状を携えて江戸から早馬を駆って必死の思いで松本へ駆けつけたが、現在の駒町のあたりで早馬の足が折れてしまう。
そして、遂には処刑の時刻に間に合わなかったと伝えられる。
加助は処刑される際、訴えを反故にされた恨みを込めて「二斗五升だ!」と絶叫し、松本城天守閣を睨みながら絶命した。

あまりにも美しい松本城。そこには綺麗で片づけられない歴史がある。
ましてや血の涙を流して睨みつけながら死んでいった加助たち28人の中に、10人もの子どもたちもいたことを忘れてはいけないのではないだろうか。
下写真は、1俵「2斗5升入り」の年貢米3俵である。加助たちが命を賭けた、この重みを知れば、お米一粒を粗末になどできまい。

「二斗五升」の重み
松本藩は代々譜代大名が藩主となっていた。
譜代大名は幕府の御用も多く、藩士を多く抱える必要もあってか、松本藩の年貢は近隣の藩に比べて厳しく課せられていた。70年ほど前に松本藩から分かれた諏訪領や高遠領の村々の年貢米は、当時のまま籾一俵は米「二斗五升」挽であったのに対して、松本藩では「米三斗挽」に引き上げられたままで、農民は苦しさに堪えてなんとか納めていた。
重い年貢に加え不作が続き、農民の生活は困窮を極めている中、藩は貞享3年の収納に当たっては、のぎ踏磨き(穂の先にある針のような突起を取る作業)と米三斗四・五升挽を厳命してきたのである。
このようなあまりに過酷な年貢取り立てに苦しむ農民を見るに忍びず、身を呈して農民を救おうと、多田加助を首領とする同志は10月、中萱の権現の森(熊野神社)に集まって密議し、「二斗五升挽の要求等五ケ条の訴状」をしたためて、10月14日、郡奉行へ訴え出たのである。そしてこの行動が村々へ伝わると、農民たちはこれに加勢しようと、蓑笠に身を固め鋤や鍬を手に、城下へ押し寄せたのだった。
詭弁を弄して騙した上に極刑
この突然の大騒動に狼狽した家老達は、鎮圧するためにいろいろな策を講じたが、農民は聞き入れず、その数はみるみる増加して、ついに万に及んだといわれている。
困惑した藩側は16日夜、郡奉行の名で年貢は従来通り「米三斗挽」としその他の願いは聞き届ける旨の覚書をしたためて、集まっている農民に文書を組手代に届けたと告げると、これを聞いた農民の大半は村々へ引き上げていった。
しかし加助ら同志と百数十人の農民は納得せず、あくまで「米二斗五升挽」の要求と、家老の証文を求めて引き下がらずに留まっていた。
家老らは騒動が長引くことと、江戸表への直訴を恐れて18日に、「米二斗五升挽の願いも聞き届ける」という家老連判の覚書を出すに至り、加助ら同志と留まっていた農民も、安堵して村々へ引き上げたのだった。
嘘つき無能為政者よ、「騒動」で片付けるな
ところが藩はその後、村々から先に渡した覚書を返上。一方江戸へは真相を秘して注進した上、藩主の裁許を得て首謀者とその子弟を一斉に捕縛し、上土の牢舎へ投獄したのである。
そして数日後の11月22日、安曇郡の者は「勢高」の、筑摩郡の者は「出川」の刑場で処刑。
その刑は磔8人、獄門20人という極刑で、百姓一揆史上稀にみる数であった。
加助ら28人が処刑されてしまってから一連の事件は「貞享義民騒動」といわれるようになった。
それにしても「騒動」とは何事か?あまりに酷い言い方ではないか?
農民を苦しめる悪政しかできぬ無能者が、何を上から目線で「騒動」などと言うか!
一方、最後まで加助らをなんとか救おうとした鈴木伊織は、その後、多くの農民に慕われた。
しかし彼の死去の際、加助「騒動」の二の舞を恐れた松本藩は、農民たちに「悔やみに行くことは罷りならん」との触れを出したといわれる。
「騒動」が起きれば腹を切る覚悟すらない腰抜けども、万死である!

貞享義民顕彰慰霊碑 騒動300年を記念して作られた慰霊碑。
貞享義民記念館。
記念館近くには「加助の屋敷跡」がある。加助の屋敷は現在の義民社の西側にあって、その堀の一部が東南にわずかに残っている。

加助の墓。粗末な石だったのだろう、刻まれた文字はほぼ読むことができない。

「加助さま おひさまフラワーガーデン」。
加助は農民にとって「太陽」のような存在だったのだろう。
熊野神社は、加助ら「首謀者」たちが度々密議した場所であった。
熊野神社の御神木。残念ながら落雷によって朽ちているが、その後も丁重に祀られている。
「貞享義民社」は、自由民権運動が盛んになった明治以降に、義民のシンボル的存在となった加助らを祀るために作られた神社だ。
地元の農作物直売所が道の駅に
道の駅「女神の里たてしな」は、「義民慰霊之碑」から2km北東。
中部横断自動車道の佐久南ICからは国道142号線を西に14km、長野県東部の立科町にある。

2017年11月に道の駅に登録され、元々「信州蓼科農ん喜(のんき)村」として営業していた農畜産物直売所に新たに道路情報提供施設と24時間利用なトイレを加えて、翌12月に道の駅としてオープンしている。
なのでトイレは他の施設に比べて比較的新しい。


施設規模は小さく建物も地味な印象を受けるが、客足は上々の様子である。
休憩環境もパッとしないが、町として道の駅の上段の敷地にブルーベリー園の整備を検討しているようで、 将来的にはブルーベリー摘み取りが可能な体験型の道の駅になるかもしれない。



道の駅の施設は、物産館、農作物直売所、レストラン、喫茶コーナー。
立科町は蓼科山から湧き出すおいしい水と寒暖差の大きな気候が特徴で、これらの特徴を生かした農畜産業が盛んである。 道の駅の物産館では、立科町の美味しい農畜産物が数多く販売されている。



蓼科牛も立科町の特産品の一つである。

蓼科牛は、伊勢神宮に奉納されている3銘柄の中の1つである。
物産館の一角に、蓼科牛肉の販売コーナーが設けられている。



その他にも立科町ならではの商品が数多く販売されている。標高2530mの蓼科山から流れてくる銘水「蓼科御泉水」を使って、ワイン、焼酎、地酒造りも盛ん。
蓼科御泉水を使った地ビール「白樺・蓼科ビール」は、黄金色に輝く「ピルスナー」と褐色の「ドンケル」がある。

道の駅施設内にある食事処「のんき亭」の名物メニューは「蓼科牛焼肉重」。 「のんき亭御前」は山菜そば(うどん)とミニ天丼が付いてボリューム満点。 立科リンゴが入った「村長カレー」は辛いカレーと甘いリンゴの組み合わせが絶妙だ。


