
「若狭」は古代から都に海産物を供給する御食国の1つで、当時の外交は主に日本海を挟んだ対岸交流だった事から外国との玄関口でもあった。
若狭国と都(奈良・京都)の間には幾つもの街道が整備され、多くの物資や人の往来によって、街道沿いにはそれぞれの時代に様々な文化が花開いたという。
小浜の名産である鯖の塩漬けを中心に日本海の海産物を京都へと運んだルートは様々あって、総称として「鯖街道」と称していたようだが、小浜と京都を結ぶ「若狭街道」を鯖街道とするのが一般的で、これ小浜から日笠、熊川宿、朽木宿(朽木陣屋町)を経て京都出町柳を結ぶ街道を指している。
その「鯖街道」において若狭地方のほぼ中央部、近江国との国境に接して山峡に位置する「熊川宿」は、江州(近江国=現在の滋賀県)から若狭への旅人を最初に迎えた宿場町で、特に江戸時代に若狭街道の物資流通の中継拠点として大いに繁栄したという。
どんだけの鯖を運んだか
この鯖街道の発生が、仮に奈良時代からだったとしても1300年以上。
「鯖の塩漬け」を1日に1万人前運んだとして1年間で3,650,000人前。それが1300年だと、4,745,000,000人前。
ここで少々サバを呼んで、ざっと50億人前の「鯖の塩漬け」が、熊川宿を通過してきたということになる。
塩漬けにした鯖だとしても、かなり生臭い宿だったのではないだろうか(笑)。
冗談はさておき、熊川宿が集落的に発生したのは、観応2年(1351)に足利尊氏から瓜生庄下司職を賜った沼田氏が居城として熊川城を築いて、その城下町として整備された頃とされる。
その後も沼田氏の支配は200年にもわたって実にしぶとく続いたが、永禄12年(1562)に当時の若狭守護職武田家の被官・松宮玄蕃允に攻められて熊川城は落城。
沼田氏は大浦氏(後の津軽氏)を頼って津軽(現在の青森県)に逃れたという。その際、土産にサバの塩漬けを持参したかどうかは不明であるw
織田信長も通ったり泊まったり
さて 熊川宿はその立地から、実は軍事上の要衝としてもきわめて重要な役割を担っていた。
若狭街道は若狭地方と近江、京都を繋ぐ重要な路として、軍事的にも重要視されていた。
戦国時代の元亀元年(1570)4月22日には、若狭街道を西上して越前侵攻した織田信長が熊川宿を宿営地として利用している。この時、越前攻めに従軍した徳川家康が休息の際に座ったと伝わる松が、熊川宿に境内を構える得法寺に残されていて、これは「家康の腰掛の松」と呼ばれている。
街道が軍事的に利用された事実は他にもいろいろあるが、織田信長の名前が頻出する。
たとえば「継芥記」には、福井県敦賀市の金ケ崎城にいた織田信長が、浅井氏の裏切りを知ってたちまち京都に引き返し、その際に旧城主沼田氏の一族である沼田弥太郎が信長の道案内をしたという記録が残っている。
熊川宿の利用頻度からも、やはり織田信長という人の行動力は群を抜いていたように思える。
浅野長政によって「宿場町」として発展
熊川宿が近世的な宿場町として発展するその礎を作ったのは、豊臣秀吉から若狭国を与えられ小浜城主となった浅野長政だった。
豊臣秀吉に重用され、のちに豊臣政権五奉行の一人となった長政だが、若狭の領主となった際には、ここが交通と軍事においてきわめて重要な場所と見極めて、まず関所を置いた。
そして天正17年(1589)に諸役免除の判物を出して商家を集め、問屋街と宿場を整備すると、小浜市場と連携した問屋は馬借や背負を手配し、小浜港に揚がった諸藩の蔵米や、昆布、鰊などを京都に運ぶ中継地、宿場町として、この地はみるみる活況を呈していったのである。
江戸時代になると、小浜(福井県)と今津(滋賀県)のほぼ中間にある熊川宿は、物資流通の中継拠点としての役割がどんどん高まって繁栄し、鯖街道随一の宿場町へと発展した。
「熊野古道」「竹内街道」と並ぶ「歴史国道」
「若狭街道(鯖街道)熊川宿」は、「熊野古道」と「竹内街道」と並ぶ近畿地方3つ目の「歴史国道」として国から認証されている。
旧街道筋には現在も街道に面して平入と妻入の町家主屋が入り交じった多様な形式の建物が建ち並んでおり、塗り壁の商家や土蔵など多数の伝統的建造物、昔ながらの町並みが保存されていて、重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。
保存地区は東西方向に通る街道筋に形成された旧宿場町の大部分を占め、街道沿いに「前川」と呼ばれる水路が流れているのが大きな特徴である。

各屋敷への出入口には小さな石橋が架けられていて、所々に「かわと」と呼ばれる洗い場がある。


重要伝統的建造物群「熊川宿」を散策
さて、この重要伝統的建造物群保存地区に選定されている熊川宿を散策する。
熊川宿の散策コースの起点は道の駅「若狭熊川宿」のすぐ西側。 まず道の駅併設の無料の「鯖街道ミュージアム」でお勉強だ(笑)。




ここでは鯖街道の成り立ち、また、なぜ熊川宿が歴史的に重要だったのか知ることができる。
熊川宿の散策コースは片道1.4km。レンタサイクルも用意されているが、私は徒歩で。
全盛期は200戸程の古民家が並んでいたそうだが、現在は約100戸程度に減少しているという。 それでも古民家が立ち並ぶ景観は壮観である。
無電柱化工事のお陰で街並みはスッキリ。江戸時代にタイムスリップした気分で歩く。

上ノ丁、中ノ丁、下ノ丁と分けられる町並みはとても素晴らしい。

旧逸見勘兵衛家住宅は、江戸時代末期に建てられた熊川村初代村長・逸見勘兵衛家の住居跡である。
当時の宿場町の風情を伝える熊川を代表する町家のひとつで、平成7年(1995)に町の指定文化財となっている。
ちなみにここは、下写真の建物を建てた元伊藤忠商事社長・伊藤竹之助の生家でもあるらしい。

この建物は、熊川出身で伊藤忠商事の社長となった伊藤竹之助(旧姓逸見)によって昭和15年に建てられたもので、ポーチには円柱が配され、屋根は寄棟瓦葺きといった和洋折衷のデザインとなっていて、西洋の文化が積極的に取り入れられた当時が随所に偲ばれる。
熊川の村役場として使われていたが、現在は「宿場館=若狭鯖街道熊川宿資料館」として活用されていて、ここでも熊川宿と鯖街道の歴史を詳しく知ることができる。

旧問屋の菱屋である。
「菱屋」という屋号で問屋を営んでいた勢馬家は、街道の繁栄を支えた旧家のひとつで、最盛期には年間およそ2700万kgもの荷物の荷継ぎ場として大変賑わっていたそうだ。

荻野家は、「倉見屋」の屋号で人馬継立の運送業を行う問屋を営んでいた。
荻野家の主屋は熊川宿最古の町家で、2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定されている。
道の駅「若狭熊川宿」
道の駅「若狭熊川宿」は、舞鶴若狭自動車道の小浜ICから国道27号線→国道303号線を東に15km。福井県南西部の旧上中町(現若狭町)にある。


国道303号線は福井県と滋賀県西部を結ぶ唯一の道路で、多くの車が行き来する。
この国道303号線こそが、実は「鯖街道」なのである。
道の駅「若狭熊川宿」に車を泊めて熊川宿散策を楽しむことができるため、熊川宿観光の起点として、福井県内の道の駅では常に上位の集客力を誇っている。
駐車場は、平日でもそこそこの車が停まっている。やはり、人気があるようだ。



トイレは「かわや」。
たいへん格調が高い。




休憩環境としては、施設内外ともに、まあまあな感じ。




「鯖」!、お嫌いなら「葛」!

道の駅の施設は、物産館と、レストラン。



物産館で目立つ商品はやっぱり「鯖」なのである。
「焼き鯖寿司」と「鯖寿司(つまり焼いていない鯖)」、そして「鯖の炊き込みご飯」。日持ちするものでは「さば缶」「鯖カレー」等。
「鯖」が苦手な方は、「熊川葛」で手を打って。 熊川葛は、奈良県の吉野葛、福岡県の秋月葛と共に「日本三大葛」の一つである。
レストランでは選択肢が豊富
食事処「四季彩館」では、焼き鯖寿司、塩焼き鯖定食、焼き鯖寿司&おろしそばなどの鯖関連メニューだけでなく、そば、ラーメン、カレーなど、メニューは多彩だ。
もっとも安いメニューは「たまごかけご飯」。次いでうどん/そば類が手頃。




私は、道の駅オリジナルの「若狭熊川宿オリジナルラーメン」の「鯖だし和風ラーメン」を注文。
ラーメンには、もう一つ「梅わかめ和風ラーメン」もある。

「せっかく熊川宿まで来たのだから、ちょっと贅沢したい」という方には、「若狭牛すき焼き丼」などの高級メニューもある。
