和田英ら工女たち、速水堅曹らが活躍した富岡製糸場へ。道の駅「甘楽」から(トイレ○仮眠○休憩○景観△食事○設備△立地○)

富岡市が企画製作した映画「紅い襷(あかいたすき)~富岡製糸場物語~」をご覧になった方はいらっしゃるだろうか。

ドラマと歴史ドキュメンタリーを織り交ぜ、3年前に世界遺産となった富岡製糸場の価値や魅力を伝える映画で、歴史が大好きな私は近代日本を支えた製糸場や絹の歴史そのものに感動したが、マニアックでおよそ一般にはウケにくい映画ではあった。

キャストは、本作の主人公で明治6年から7年にかけ伝習工女として勤務し、工女の生活ぶりを「富岡日記」に残した和田(旧姓横田)英役に、水島優。50年後の英を大空真弓が演じ、西村雅彦、豊原功補らが脇を固めた。

同市が募集した工女役のエキストラは43人だった。地元の女子高生を多数起用したが、中には「製糸場で勤めていた祖母とつながりたい」と応募した都民もいたということで、関東方面、信州方面を中心に、祖母、曽祖母が工女だった人は相当数いるのだろうと思いつつ、寒くなりかけた富岡製糸場へ。

和田英「富岡日記」をもとにした映画

富岡製糸場で技術を学んだ工女の一人「横田英」は、後に結婚して「和田英」となり、映画の原作ともなる「富岡日記」でその名が知られることになる。

映画「紅い襷(あかいたすき)~富岡製糸場物語~」は、富岡製糸場でフランス式器械製糸技術を学んだ長野県松代の伝習工女・和田(旧姓横田)英の回想録「富岡日記」を基に構成され、史実を踏まえて、全国から集まった若い工女の活躍が描かれている。

英が「開けぬ時代」と称した明治維新後の鉄道もない時代、松代の工女たちは歩いて富岡へ向かった。和服姿の一行が峠道をたどり、製糸場の煙突を望む場面から映画は始まる。

生き血を吸うとあらぬ嫌疑をかけられた仏人指導者のポール・ブリュナや女性教師との交流、鏑川流域の富岡と似たブリュナの故郷の風景もスクリーンに映し出された。

フランス人が生き血をとって飲むと言う噂

繭から生糸をとるためには、繊細な指で作業する必要があった。 当時は繊細な指=女性というステレオタイプの概念があり、富岡製糸場の建物が完成に近づくと、明治政府は全国から工女を募集した。

しかし、フランス人が生き血をとって飲むと言う噂が流れていたため、工女は中々集まらなかった、この時のことを英はこう記している。

「私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして、横田数馬と申しました。明治六年頃は松代の区長を致して居りました。 それで信州新聞にも出て居りました通り、信州は養蚕が最も盛んな国であるから、一区に付き何人(たしか一区に付き十六人)十三歳より二十五 歳までの女子を富岡製糸場へ出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供に でも上るように思いまして一人も応じる人はありません。 父も心配致しまして、段々人民にすすめますが、何の効もありません。 やはり「血をとられるのあぶらをしぼられる」のと大評判になりまして、中には「区長の所に丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」と申すようになりました。」

※「富岡日記」より引用

工女が集まり始めて

そこで明治政府は、なぜ工女を募集する必要が有るのかその理由を何度も説明し、初代工場長となった尾高惇忠は自分の娘「勇」を最初の工女とするなど、狗肉の努力を重ねた結果、ようやく工女が集まり出す。

「それで父も決心致しまして、私を出すことに致しました。 私も兼ねて親類の娘が東京へメリヤスを製しますことを習いに行きました時、私も行きたいと申しましたが、私より下に四人の弟妹がありまして、中々忙しゅうありましたから許しません。残念に思って居りましたところでありましたから、大喜びで、一人でも宜しいから行きたいと申しました。母はその時末の弟を妊娠して居りました(後で承知致しました)。 さぞ迷惑であったろうと後になりましてから思いました。しかし父がそのように申しますから何とも申しません。 第一許さぬと申しはせぬかと心配致しました。祖父は大 喜びで申しますには、「たとい女子たりとも、天下の御為になることなら参るが宜しい。入場致し候上は諸事心を用い、人後にならぬよう精々励みまするよう」 と申されました時の私の喜びは、とても筆には尽されません。」

※「富岡日記」より引用

ここで技術を習得した工女たちは、地元に戻った後、指導者と器械製糸普及に貢献していく。

富岡製糸場の工女が持つ二面性

「工女」と聞くと、「ああ野麦峠」の悲惨なイメージがつきまとうのが普通かもしれない。(「ああ野麦峠」についてはこのブログに詳しく書いているので、よければご参照いただきたい。)

しかし明治初期に限っては、工女は「伝習工女」といって、技術の伝習を行うフランス人教婦から技術を学び、最先端の技術を学ぶパイオニアだった。

つまり、伝習工女は、研修期間を終え帰郷すると、その技術を地元に伝習する指導者となったのだ。のちに生活苦から工女になる「ああ野麦峠」の時代がやってくるのは事実で、この工女の二面性については歴史に学ぶ上で知っておくべきだろう。

ということで、英もそうだが最初に集まった伝習工女は士族など地方の名望家の子女が多数を占めており、なかには、公家・華族の姫までいたので、地域の人は伝習工女のことを「糸姫」と呼んだという。

また、工場での暮らしは、寄宿舎に入り、日曜日は休日とし、夜業は禁止されるなど、労働条件にも配慮され、演芸や祭りなどを楽しんだ、たいへん豊かで規律規範の正しいものだった。

「富岡工女の厚化粧」という言葉が生まれたように、工女たちは外に出るときは綺麗に化粧をして オシャレにも気を使っていたと、「富岡日記」にもある。

富岡製糸場にもあっただろうか女工哀史

1872年(明治5年)から、1893年(明治26年)迄の官営時代には過酷な労働は無かったと思われるが、1885年(明治18年)から1893年(明治26年)迄経営は黒字が続いて、この頃には伝習期間も終わって生産に重きを置き始めた。

「西南戦争」(西南の役 1877年明治10年)で莫大な費用を費やした明治政府は、官営工場を投げ売りしたが、 富岡製糸場には買い手がつかず、群馬県令の楫取素彦の進言によって売却を逃れたことになってはいるが明治政府は払下げに失敗。払下げの条件を良くして再び払い下げたが、この頃の工場長は3代目の敏腕工場長「速水堅曹」が返り咲いている。

4代目の岡野朝治は赤字決算のため失脚。その後三井家、原、片倉の民営時代の工女の資料はきわめて少ないため、岡谷やその他各地の製糸工場が設備・労働条件ともに富岡製糸場とは雲嶺の差で極悪な条件下で糸をとっていた事実がある一方、富岡製糸場が同じような悲惨な待遇になっていたかは、実は定かではない。

ブラック企業撲滅運動家には「富岡製糸場は元祖ブラック企業ではないか。 それが世界遺産になるってことはいかがなものか」という意見が根強いが、歴史は逆には回せない。

のちの世の概念ではブラック企業でも、明治の富岡、群馬を抜きに日本の近代史は語れないこともまた事実である。

富岡製糸場・群馬サファリパークの拠点となる道の駅「甘楽」

本駅「甘楽(かんら)」は、上信越自動車道の富岡ICから県道46号線を南東に3km、 群馬県南西部の甘楽町にある。

道の駅からは、世界遺産の富岡製糸場まで約4km、群馬サファリパークにも約4kmの距離。

これらの人気施設は隣市の富岡市内にあるが、甘楽町にあるこの道の駅が立地上、それらの観光拠点として便利である。
ただ甘楽町民は過去に富岡市との合併協議を拒否した経緯があり、道の駅にも、付近一帯にも、富岡製糸場や群馬サファリパークへの誘導を促すようなものがほぼ見当たらない。

道の駅構内で放映されている観光ビデオでも町内の観光施設は紹介されているが、 圧倒的知名度がある富岡市の両施設については一切触れられていない。
極め付けは、富岡市がフランスと密接なことを意識して、ならばウチはイタリアや、とばかり姉妹都市にイタリアの街を選んで、それを徹底的に推していることだ。

そこまで徹底しなくても、と思うほど富岡市とあくまで一線をひいている、というか対抗しようとさえ見えるその頑固な町民性に、私的には興味が尽きない(笑)。

駐車場は、施設規模なり。不足なし。

トイレも同様。

休憩環も、そこそこゆっくりできる環境と設備である。

甘楽町の特産品、イタリアの姉妹都市の特産品を販売

道の駅の施設は、物産館、農作物直売所、レストラン。

物産館の品揃えも、農作物の種類も、必要以上に多くなく、比較的小ぶりな道の駅である。

当たり前だが甘楽町および群馬県の特産品が最も多く、甘楽町の特産品では「甘楽の里プチまんじゅう」「甘楽ようかん」「甘楽ポテト」、甘楽なたね油を使った「チーズやきもち」、マスコット「かんらちゃん」がプリントされた「かんらちゃんソフトサブレ」など、近隣市町村の特産品では「磯部煎餅」「下仁田ネギ煎餅」「上州焼き饅頭」などが売られていた。

漬物類も充実していて、「燻し沢庵」「ぬか大根」「たまり漬け」など、30種類くらいの漬物類が販売されている。

そして、姉妹都市のイタリア・トスカーナ州・チェルタルド市の商品、特にイタリアンワインコーナーが目をひく。
イタリアンワインコーナーにはイタリアからの直輸入ワインがズラリ。トスカーナ州の代表的なワインの「CHIANTI」はじめ、チェルタルド市との交流記念ボトル「CHIANTI記念ボトル」は、この道の駅でしか手に入らない。

価格帯は1400円~4500円と手頃だし、イタリアンワインコーナーの一角に置かれたオリーブオイル、「ボッタッチョ」「トスカーノ」も人気の商品となっている。

道の駅 | 甘楽 | イタリアワイン直売所

「お食事処せせらぎ亭」と「地粉ピザ」

レストランは和と洋(イタリアン)、「お食事処 せせらぎ亭」と「地粉ピザ」の2つがある。

 「せせらぎ亭」の名物は、甘楽名物「桃太郎ごはん」に天ぷら、味噌汁プラス小鉢3品が付いた「桃太郎定食」。

「桃太郎ごはん」とは甘楽町産の人参・椎茸と愛媛県鬼北町産のキジ肉を使用した混ぜごはん。 キジ肉の少し淡白な味に人参の甘味、椎茸の渋味が加わって美味しい。
その他、「上州牛焼肉定食」「ロースカツ定食」「唐揚げ定食」、 麺類では「山菜うどん/そば」「鍋焼きうどん」などがお手頃価格で提供されている。

 「地粉ピザ」のコーナーでは、石窯で焼き上げたイタリア本場のピザを味わえる。

「マルゲリータ」や4種類のチーズを使った「クワトロフォルマッジ」のほか、甘楽町名物の轟味噌を使った「轟みそピザ」も人気を集めている。